第1話 学園の女神は、最初からおかしい
朝、というものは、もっと静かであるべきだと神代悠真は思っている。
「悠真。パンくわえて出る女子高生みたいに急ぐくらいなら、五分早く起きなさい」
背後から飛んできた声に、玄関でローファーを履きかけていた悠真は肩を竦めた。
「くわえてないだろ、ちゃんと飲み込んだ」
「そういう問題じゃないのよ」
呆れを隠そうともしない声音。振り返らなくても分かる。義姉の神代沙夜だ。
高校三年生。背筋の伸びた立ち姿と、朝から一切乱れのない長い黒髪。家の中だというのに、彼女だけ妙に絵になっている。本人はそれを鼻にかけるようなタイプではないが、遠慮も容赦もない。
「ネクタイ曲がってる」
「え、マジで」
「マジ。じっとして」
近づいてきた沙夜が、悠真のネクタイを手早く直す。指先の動きは無駄がなく、慣れている。
「ほら」
「ありがとう」
「……アンタ、本当にそういうところよね」
「どこだよ」
「自然にお礼が出るところ。あと、相手に触れられても一切変な反応しないところ」
「家族に変な反応する方が問題だろ」
「そういう鈍い返しをするところも含めて、面倒なのよ」
言いたいだけ言って、沙夜は一歩下がった。その表情はいつも通り少し厳しいが、ネクタイの結び目は朝よりずっと綺麗になっている。
リビングから義母の優しい声がした。
「二人とも、行ってらっしゃい。お弁当持った?」
「持ったー」
「持ちました」
ほぼ同時に答えると、沙夜がちらりとこちらを見る。
「父さんはもう出た?」
「今朝も早かったわよ。会議があるって」
義母の言葉に、悠真は小さく頷いた。父は昔から寡黙で、朝は特に言葉が少ない。必要なことだけを短く告げ、時間通りに出ていく。機嫌を悪くした記憶はないが、空気が張る瞬間は今でも分かる。
その代わりに、家の空気を柔らかく繋いでいるのが義母で、好き勝手に見えて実は細かいところまで見ているのが沙夜だ。
この家で暮らしていると、嫌でも人の表情や声色の変化に敏感になる。
悠真自身は、それを特別なことだとは思っていない。ただ怒らせない方が楽で、困っているなら助けた方が早くて、言葉を選んだ方がその場が丸く収まると知っているだけだ。
「悠真」
玄関の扉を開けかけたところで、沙夜がまた声をかけた。
「何?」
「学園で、あんまり無自覚に人に優しくしないこと」
「無理な注文だな」
「ほら、そういう返し。自覚ないからタチが悪いのよ」
朝日に照らされた義姉は、本気で面倒そうな顔をしていた。
「誰にでもいい顔しない。特に女の子には」
「してないって」
「してる。アンタは普通に話してるつもりなんでしょうけど、周りはそう取らないの」
「沙夜姉は心配しすぎ」
「そうだといいけど」
最後の一言だけ、少しだけ小さかった。
悠真は軽く手を振って家を出る。背中に「せめて一人くらいは絞りなさいよ」と意味不明な追撃が飛んできたが、聞こえないふりをした。
◇
私立星蘭学園。
県内でも有数の進学校であり、部活動、文化活動、生徒会活動のどれを取っても実績が高い。家柄のいい生徒も多く、校舎はやけに綺麗で、入学式からまだ日も浅いのに、もう既にそれぞれの立ち位置が見え始めていた。
教室に入った悠真は、軽く周囲を見渡す。
賑やかなグループ。静かな読書派。様子見の者。誰と誰が同類で、誰が無理に合わせているか。それくらいはすぐ分かる。
だが、分かるからといって、そこに割って入る気はない。
面倒は少ない方がいい。
「おはよ、悠真くん」
柔らかい声に振り向くと、戸口の近くに立っていた少女が、小さく手を振っていた。
栗原ひより。
小学校の途中まで家が近く、中学は別だったが、腐れ縁といえば腐れ縁の幼馴染だ。肩までの明るい髪と、人懐っこい笑顔。彼女は昔から人との距離が近い。
「おはよう」
「今日もギリギリだったね」
「間に合ってるからセーフ」
「それ、沙夜さんにも言ったでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「分かるもん」
くすくす笑いながら、ひよりは当たり前のように悠真の机の横に立つ。少し前までなら気にしなかったが、今は周囲の視線が何本か向いているのが分かった。
転校生でも有名人でもない。ただ、可愛い女子が朝から男子の机のそばで自然に笑っていれば、それだけで人は勝手に意味を足す。
「またお弁当一緒に食べよ?」
「別にいいけど」
「やった」
声を弾ませるひよりの後ろで、クラスの男子が何人か微妙な顔をしていた。女子の方は露骨ではないが、観察している。
悠真は内心でため息をつく。
こういうのが面倒なのだ。
「……神代くんって、栗原さんと仲いいんだ」
「幼馴染みたいだよ」
「え、もう勝ち組じゃん」
ひそひそとした声が聞こえる。ひより本人は全く気にしていない様子で、むしろ悠真の机に手をついて顔を寄せた。
「昨日、メッセージ返すの遅かった」
「風呂入ってた」
「ひどい」
「理不尽だな」
そんな他愛のないやり取りをしているうちに、教室の空気がざわめきから静寂に変わった。
理由はすぐ分かった。
廊下側の窓の向こう、数人の女子が一斉に姿勢を正していたからだ。
「……来た」
「え、生徒会長?」
「マジで?」
名前を聞いた瞬間、教室の空気が一段張る。
星蘭学園の生徒会長――天城セレスティア。
二年生にして学園の頂点とまで噂される存在。成績優秀、品行方正、容姿端麗。父親が海外企業の重役だとか、母親が元外交官だとか、眉唾な話まで含めて有名人だ。
要するに、遠くから眺めるだけの相手。
少なくとも悠真にとっては、そのはずだった。
だが。
教室の前を通り過ぎるはずだった足音が、ぴたりと止まる。
そして次の瞬間、扉の前にその本人が立っていた。
長い銀糸のような髪が、窓から差す春の光を受けて淡く揺れる。整いすぎた顔立ちは冷たく見えそうなのに、口元に浮かぶ微笑だけが不思議と柔らかい。そのアンバランスさが、人を惹きつけて離さない。
天城セレスティアは、教室を見渡した。
いや――違う。
悠真には分かった。彼女は最初から、一人しか見ていない。
「神代悠真くん、で合っているかしら」
教室中の視線が、音を立ててこちらへ集まった気がした。
「……俺ですけど」
立ち上がるほどでもないかと思ったが、座ったまま返すのも妙だ。悠真が半端な姿勢で答えると、セレスティアはまっすぐこちらへ歩いてくる。
ひよりが目を丸くし、周囲の空気が目に見えてざわつく。
なんで。
その疑問を口にするより早く、彼女は悠真の机の前で立ち止まった。
「少し、よろしい?」
「今?」
「ええ、今」
断れる雰囲気ではない。悠真は椅子を引いて立ち上がる。
すれ違いざま、ひよりが小声で「なにこれ」と呟いたのが聞こえた。全面的に同意だった。
教室の外に出ると、壁際に一人の女子生徒が立っていた。
黒髪を肩で切り揃えた、涼しげな目元の少女。腕章の色からして生徒会役員だろう。こちらを見る目が妙に冷静で、観察されている感覚が強い。
セレスティアが紹介する。
「こちら、生徒会副会長の篠宮凛さん」
「……どうも」
「はじめまして」
簡潔な挨拶だったが、その視線は短くない。値踏みというほど露骨ではないにせよ、明らかに見ている。
悠真が少し居心地の悪さを覚えたところで、セレスティアが小さく微笑んだ。
「突然でごめんなさいね。でも、確認したかったの」
「確認?」
「あなた、昨日、中庭にいたでしょう」
昨日。
放課後、たしかに中庭にはいた。部活見学の帰り、噴水の近くのベンチで一人泣いていた女子生徒に、少しだけ声をかけた。
友達と喧嘩したらしいその子は、放っておいてほしそうで、でも本当は少しだけ話を聞いてほしそうだった。だから悠真は、ただ二、三言だけ言って、その場を離れた。
「いましたけど」
「一年の女子生徒に何を言ったの?」
「何をって……」
思い出してみる。
『泣くな』とは言わなかった。『気にするな』も違う。どれも、相手が今欲しい言葉じゃないと思ったからだ。
「たしか……『ちゃんと傷つけられたってことは、ちゃんと大事にしてたってことでしょ』って」
そう答えた瞬間。
篠宮凛の眉が、ほんの僅かに動いた。
セレスティアは数秒、黙ったまま悠真を見つめた。綺麗な顔に感情はあまり出ていないのに、その沈黙だけで妙な圧がある。
「それだけ?」
「それだけです」
「名前も聞かずに?」
「聞いてません」
「見返りもなく?」
「……話聞いただけで見返り求める方が怖くないですか」
言った直後、しまったと思った。
相手は学園の有名人だ。皮肉めいた言い方に聞こえたかもしれない。
だが、セレスティアは怒るどころか、なぜか小さく目を細めた。
「そう」
それは微笑みに近かった。
「やっぱり、あなたなのね」
「何がですか」
「いえ。こちらの話」
そう言ってから、彼女はほんの少しだけ顔を寄せる。近い。香水ではない、清潔な花のような香りがした。
「神代くん。あなた、気をつけた方がいいわ」
「何に」
「自分の言葉に」
意味が分からない。
だが、問い返す前にセレスティアは一歩下がっていた。
「生徒会として、少し興味が湧いたの。近いうちに、また声をかけるかもしれないわ」
「いや、意味が――」
「それでは」
優雅に踵を返す生徒会長。その横で、副会長の篠宮凛だけが一瞬、立ち止まった。
「神代くん」
「はい」
「あなた、自分が何をしてるか、本当に分かってないのね」
「だから何の話ですか」
「……厄介」
それだけ言って、彼女も去っていく。
一人廊下に取り残された悠真は、本気で困惑した。
何も分からない。
ただ、教室の扉を開けた瞬間、クラス全員の視線が刺さったことで、状況が最悪に向かっていることだけは理解した。
「お、おかえり……?」
一番先に声をかけてきたのはひよりだった。笑ってはいるが、目が全然笑っていない。
「何それ」
「俺が聞きたい」
「生徒会長と知り合いだったの?」
「今日初めてちゃんと喋った」
「それであの距離感?」
「俺に言うな」
周囲のざわめきは抑えきれなくなっていた。
「神代、何者だよ」
「いや絶対前から関係あるだろ」
「会長の方から来るとか聞いたことないんだけど」
「副会長までいたぞ……?」
机に座り直した悠真は、嫌な予感しかしなかった。
そのとき、教室の後ろの方から、はっきりとした足音が近づいてくる。
「へえ」
高く澄んだ声だった。
「入学早々、生徒会長を呼び止めるなんて大したものですわね」
振り返ると、一人の少女が立っていた。艶のある縦ロールに近い栗色の髪、非の打ち所のない制服の着こなし、いかにも育ちの良さそうな気品。だが、その瞳には露骨な不快感があった。
「わたくし、そういう目立ちたがりの方、あまり好きではありませんの」
教室の空気がまた変わる。
誰かが小さく名前を囁いた。
「九条麗華……」
クラスでも有名なお嬢様だ。入学直後から自然に人の中心にいたタイプで、周囲も一線を引いている。
その九条麗華が、なぜかまっすぐ悠真を見ていた。
「目立ちたがりって……別に俺は」
「言い訳は結構ですわ。ですが忠告だけして差し上げます。誰にでも愛想よくしていると、いつか痛い目を見ますわよ」
「はあ……」
「その曖昧なお返事も気に入りませんわね」
初対面でここまで敵意を向けられる理由が本当に分からない。
麗華はふん、と鼻を鳴らして自席へ戻っていく。その途中で一瞬だけ、ひよりの方を見た。ひよりもまた笑顔のまま、ほんの少しだけ頬を引きつらせている。
何だこれ。
昼休み前だというのに、もう胃が痛い。
だが、このときの悠真はまだ知らなかった。
放課後には「神代悠真は生徒会長と繋がっている」という噂が一年中に広がり、翌日には「副会長が警戒する危険人物」だの、「九条麗華に釘を刺された謎の一年」だの、好き放題に尾ひれがつくことになる。
本人だけが何も分からないまま。
◇
その日の夕方。
「だから言ったでしょう」
帰宅早々、沙夜はソファに腰掛けたまま冷たい目を向けてきた。
「何を」
「女の子に無自覚で優しくするなって話」
「なんで知ってるんだよ」
「ひよりちゃんから連絡来たのよ。『悠真くんが学園の女神に目をつけられた』って」
「語弊しかない」
「でも事実なんでしょう?」
返す言葉がない。
沙夜は深く息を吐いたあと、なぜか少しだけ頭を抱えた。
「……はあ。始まったわね」
「何が」
「アンタの面倒くさい学園生活がよ」
「他人事みたいに言うなよ」
「半分は他人事だもの。でも、もう半分は家族として忠告してあげる」
沙夜は真っ直ぐにこちらを見た。
「アンタ、自分で思ってるよりずっと人の心に入るのが上手いの。しかも、相手が欲しい言葉を無意識で出す。だから、普通のつもりで接すると相手は普通じゃいられなくなる」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない。……父さん相手に空気読んで、母さん相手に気を回して、私相手に受け流し続けて育ったアンタを、普通の男子だと思ってるのはアンタだけ」
そこまで言ってから、沙夜は小さく眉を寄せる。
「まあ、今さら直らないでしょうけど」
「直せって言ったり直らないって言ったり、どっちなんだよ」
「せめて誰か一人くらいには誠実でいなさいってこと」
「まだ何も始まってないんだけど」
「それも時間の問題でしょうね」
断言されると、否定しづらい。
学園の女神。冷たい副会長。距離の近い幼馴染。なぜか敵意を向けてくるお嬢様。
今日一日だけで、悠真の平穏は目に見えて遠のいた。
「……面倒だな」
思わず漏れた本音に、沙夜は呆れたように笑う。
「アンタ、そういうところよ」
「どういうところだよ」
「自分が火種のくせに、本気で面倒そうにするところ」
そう言って、義姉は立ち上がる。
「ま、頑張りなさい。少なくとも、学園の女神に目をつけられて無傷で済むとは思わないことね」
その言葉は妙に現実味があった。
悠真は知らない。
学園で“女神”と呼ばれる少女が、あのとき廊下で何を確信したのかを。
彼女だけが見抜いていた。
神代悠真が、誰かを救う言葉を、あまりにも自然に選んでしまうことを。
そしてそれが、時に人の人生を変えてしまうほど危ういことを。
――だからこそ、天城セレスティアは最初から、彼を放っておくつもりがなかった。




