第18話 理由が追いつかないもの
翌日の昼休み。
中庭の空気は、昨日までと少しだけ違っていた。
張り詰めているわけではない。
かといって、緩んでいるわけでもない。
ただ、全員が一度言葉を交わしたことで、表面だけの牽制では済まなくなった――そんな空気だった。
神代悠真は、ベンチに腰を下ろしながら小さく息を吐く。
「……最近、ここ来ると毎回疲れる気がする」
「気のせいじゃないと思うよ」
ひよりが即答した。
「そうですわね」
麗華も続く。
「否定はできない」
凛も短く言う。
「でも、やめる気はないわよね?」
最後にセレスティアが笑った。
全員が、当然のように否定しない。
その事実が一番疲れる。
◇
今日は妙に静かだった。
ひよりも、麗華も、凛も、それぞれに考え込んでいるような顔をしている。
昨日の喫茶店での会話が尾を引いているのだろう。
曖昧なままでいられない。
けれど、今すぐ答えを出せるわけでもない。
その中途半端な状態が、そのまま場の空気になっている。
「……こういうの、苦手なんだよな」
悠真がぽつりと漏らすと、セレスティアが少しだけ首を傾げた。
「“こういうの”って?」
「説明しにくい空気」
「なるほどね」
セレスティアは小さく笑う。
「それなら、今日は少し整理できるかもしれないわ」
「やめてください」
「まだ何も言ってないわよ」
「その言い方でろくな話じゃなかったことがない」
それには、凛まで小さく頷いた。
◇
だが。
そのとき、ベンチの後ろから聞き慣れた声がした。
「ほんと、アンタ達って飽きないわね」
全員の視線が同時に動く。
そこに立っていたのは、神代沙夜だった。
「……また来たのかよ」
悠真の口から、反射的に本音が漏れる。
「その言い方ひどくない?」
「昨日あれだけ引っかき回しておいて?」
「失礼ね。親切に忠告してあげただけよ」
沙夜は呆れたように息を吐きながら、悠真たちの顔を順に見る。
「で?」
短く言う。
「少しは進んだ?」
「……何がですの?」
麗華が問い返す。
沙夜は肩を竦めた。
「決まってるでしょ。アンタ達が、こいつの何に引っかかってるかって話」
その一言で、空気が静まった。
◇
「また随分と核心から入るのね」
セレスティアが楽しそうに言う。
「回りくどいの嫌いなのよ」
沙夜は即答した。
そして、そのまま続ける。
「アンタ達さ、こいつの何がいいの?」
誰もすぐには答えない。
ひよりが少しだけ目を瞬かせる。
麗華は言葉を探すように視線を伏せる。
凛は黙って沙夜を見る。
セレスティアだけが、わずかに目を細めた。
「……言語化しろってことですの?」
麗華が聞く。
「そう」
沙夜は頷く。
「できる?」
問いはシンプルだった。
それだけに、逃げ道がない。
◇
最初に口を開いたのは、ひよりだった。
「……優しいから」
ぽつりと言う。
だが、言ってから自分で少しだけ困ったように笑った。
「いや、違うかも」
「違うの?」
沙夜が聞く。
「優しい人なんて、別に悠真くんだけじゃないし」
ひよりは、小さく息をついた。
「ちゃんと話聞いてくれるし、否定しないし、一緒にいると楽なんだけど」
そこで止まる。
「……でも、それだけじゃないんだよね」
それ以上が出てこない。
言葉が、届かない。
「なるほどね」
沙夜は特に評価を下さず、今度は麗華を見る。
◇
「わたくしは説明できますわ」
麗華は背筋を伸ばして言った。
いかにも彼女らしい入り方だった。
「ほら、やっぱり理屈で来る」
沙夜が小さく呟く。
麗華は気にせず続けた。
「人に合わせるのが上手い。空気を読む。無駄に踏み込みすぎない。だから、こちらも警戒しすぎずに済む」
そこまでは流れるようだった。
だが。
「ただ」
そこで、麗華はわずかに言葉を切った。
「それを全部並べても……なぜ気になるのか、なぜ放っておけないのか、そこまでは綺麗に説明できませんわね」
認めた。
それは彼女にしてはかなり珍しいことだった。
「説明は可能ですわ。ですが――」
一度、視線を悠真に向ける。
「納得できる形には、なりません」
それが今の精一杯だった。
◇
「分析はできる」
次に言ったのは凛だった。
コーヒーの缶を指先で少し回しながら、淡々と。
「多分、誰よりもできる」
「そうでしょうね」
沙夜が頷く。
「でも?」
凛は短く息を吐いた。
「でも、それで止まらない理由は説明できない」
静かな声だった。
「観察対象として興味があった。それは本当。でも、見てるだけじゃ足りないと思った瞬間から、理屈だけじゃ追えなくなった」
そこまで言ってから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……これ、かなり厄介」
「そういうものでしょ」
沙夜の返しは冷たく聞こえるのに、不思議と突き放してはいない。
◇
「私は簡単よ」
最後に、セレスティアが言った。
全員の視線が集まる。
「理由なんて、後付けでいいの」
笑みを崩さず、あっさりと言い切る。
「登る人は、山があるから登るんじゃないわ。気づいたら登ってるのよ」
ひよりが小さく目を見開く。
麗華も、凛も、黙ったままその言葉を受け止めていた。
「好きになる理由を綺麗に説明できる人なんて、そんなにいないわ」
セレスティアは肩を竦めた。
「好きになったあとで、理由を探してるだけ」
その一言は、妙に静かに刺さった。
◇
「……登山家みたいな話ですわね」
麗華がぽつりと漏らす。
「そういうことよ」
セレスティアは頷く。
「“なぜ登るのか”って聞かれても、本当に深いところは本人にも分からない」
「でも、登るんだよね」
ひよりが小さく言う。
「ええ」
セレスティアは笑う。
「そういうものでしょ?」
◇
そこで、沙夜が小さく息を吐いた。
「まあ、そんなところよね」
そして。
全員を見渡したあと、最後に悠真へ視線を向ける。
「こいつはね」
その声は、昨日より少しだけ低かった。
「勝手に拍動する心臓みたいなものなのよ」
悠真が顔をしかめる。
「……どういう例えだよ」
「そのままの意味」
沙夜は即答した。
「止めようと思って止まるもんじゃない。意識してなくても、そこにあるだけで勝手に影響を与える」
そして。
「外にあるように見えて、気づいたら内側に入り込んでる」
ひよりが、息を止めたように静かになる。
麗華もまた、目を逸らさない。
凛の指先が、ほんの少しだけ止まる。
セレスティアだけが、どこか満足そうに目を細めていた。
◇
「だから厄介なのよ」
沙夜は続ける。
「理由があるから選ばれるんじゃない」
「選ばれたあとで、理由を探される側」
その言葉を聞いて、悠真自身はますます意味が分からなくなった。
「……全然分からないんだけど」
「分からなくていいわよ」
沙夜はあっさり切り捨てる。
「アンタが分かってたら、もっと面倒だもの」
「今でも十分面倒なんだけど」
「今はまだ浅い方」
即答だった。
ひどい。
◇
「……勝手に拍動する心臓、か」
ひよりが小さく繰り返す。
その声は、自分に言い聞かせるようだった。
「たしかに、ちょっと分かるかも」
「あなたは早いわね」
沙夜が言う。
「感覚で掴むタイプでしょ」
「そうかも」
ひよりは笑う。
「だって、理由を並べるより先に、もう隣にいたいって思ってたし」
その言葉には、もはや迷いがなかった。
◇
「……癪ですが」
麗華が静かに言う。
「わたくしも、否定はできませんわね」
全員の視線が向く。
「心臓などという比喩は大げさですけれど」
「でも?」
セレスティアが促す。
麗華は少しだけ視線を逸らしてから戻した。
「意識の外で影響されていた、という意味なら……確かに、近いかもしれませんわ」
それは、彼女なりの降参に近かった。
◇
「私は、まだその比喩は嫌い」
凛が言った。
意外な言葉だった。
「嫌いなの?」
悠真が聞く。
「うん」
凛は短く頷く。
「心臓って言われると、制御不能すぎるから」
少しだけ間を置く。
「でも」
その“でも”は静かに重かった。
「制御できない部分があるっていう意味なら、納得はできる」
やはり、完全には否定できないらしい。
◇
「ほらね」
セレスティアが笑う。
「結局、全員“分かる”側に寄ってる」
「寄せたの、あなたでしょう」
麗華が冷たく返す。
「私は言葉にしただけよ」
「それが一番厄介なのですわ」
その応酬に、少しだけ空気が緩む。
◇
だが、その中心で。
悠真だけが、本気で取り残されていた。
「……いや、本当に待ってくれ」
全員がそちらを見る。
「なんでそんなに納得してるんだよ」
真顔だった。
ひよりが吹き出す。
麗華は額に手を当てる。
凛は小さく息を吐き、セレスティアは声を出して笑った。
「アンタだけよ、分かってないの」
沙夜が呆れたように言う。
「それが一番問題なのよ」
「問題なのか?」
「大問題」
全員分の空気で言われたような気がした。
◇
少し離れた場所で、今日もまた何人かの生徒が中庭を見ていた。
「なんか今日は静かじゃない?」 「いや、逆に深くないか……?」 「神代の姉、また来てるし……」
もちろん、内容までは聞こえない。
だが、見ているだけでも分かることがある。
あの中心にいる五人の関係は、もう表面の取り合いだけではなくなってきている。
◇
予鈴が鳴る。
昼休みの終わり。
沙夜は立ち上がった。
「じゃ、私は帰るわ」
「毎回言いたいことだけ言って帰るな」
「効率的でしょ」
「最悪の効率だよ」
だが、沙夜は特に気にした様子もなく踵を返す。
その背中を見ながら、ひよりが小さく呟いた。
「……やっぱり、好きだな。あの人」
「珍しいなお前」
「でも、怖い」
「それは分かる」
悠真が即答すると、ひよりは笑った。
◇
一方で、麗華は黙って考えていた。
理由が追いつかないもの。
勝手に拍動する心臓。
どちらも、自分の感情を説明するには不本意な比喩だった。
けれど、否定もできない。
「……厄介ですわね」
ぽつりと漏れる。
その声に、凛が小さく頷いた。
「同意」
「あなたに同意されると複雑ですわ」
「事実だから仕方ない」
妙に息が合っていた。
◇
教室へ戻る途中。
セレスティアが、悠真の少し前を歩きながら言う。
「いいお義姉さんね」
「またそれですか」
「ええ」
彼女は振り返って笑う。
「少なくとも、あなたを“現象”としてちゃんと理解してる」
「現象って何だよ」
「そのままよ」
楽しそうだった。
「人ってね、たまに“人”として理解するより、“そういうもの”として受け止めた方が早いときがあるの」
「俺を自然災害みたいに言うな」
「心臓の方がまだ近いわね」
それには、もう反論する気力がなかった。
◇
放課後。
悠真が一人で教室の窓を開けると、少し冷たい風が入ってきた。
今日の会話を思い返す。
誰も、自分を褒めていたわけではない。
むしろ面倒だとか厄介だとか、そういう言葉ばかりだった。
なのに。
「……なんで、あんなに真面目なんだよ」
分からない。
本当に分からない。
けれど。
分からないままでは、いられないところまで来ている。
そんな予感だけは、はっきりしていた。




