第16話 観察者が踏み込んだ日
翌日。
神代悠真は、教室の前で一度だけ立ち止まった。
理由は単純だ。
昨日の最後に起きたことが、今日に影響しないはずがないからだ。
篠宮凛が、自分から距離を詰めた。
それを、ひよりと麗華が見た。
つまり――
「……荒れるな、これ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、扉を開ける。
そして、予想は当たった。
◇
「おはよ、悠真くん」
一番最初に声をかけてきたのは、ひよりだった。
いつも通り、柔らかい笑顔。
だが、その笑顔の奥にあるものは、昨日までより明らかに濃い。
「おはよう」
「今日、ちょっと早かったね」
「まあ、少しだけ」
「そっか」
そこで終わらない。
ひよりは、そのまま自然な動きで悠真の机の横まで来た。
「ねえ」
「うん?」
「今日から、朝も少し一緒に話そっか」
「……今も話してるけど」
「そうじゃなくて」
ひよりは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ちゃんと、私の時間って分かる感じで」
周囲の空気が、一瞬で変わる。
近くの席にいた何人かが、明らかに息を止めた。
分かりやすい。
あまりにも。
「……ひより」
「ん?」
「言い方が悪い」
「そうかな?」
「そうだよ」
だが、ひよりは引かない。
「でも、昨日見たから」
「何を」
「“変わる”って、ああいうことなんだなって」
凛のことだ。
言外にそう分かる。
ひよりは笑っている。
けれど、その笑顔は明らかに攻めに転じた者の顔だった。
◇
「……朝から露骨ですわね」
九条麗華の声が差し込む。
教室の後ろから歩いてきた彼女は、いつも通り姿勢が綺麗で、いつも通り目立つ。
だが、今日は少しだけ温度が違った。
冷たさの中に、はっきりとした焦りが混じっている。
「おはようございます、九条さん」
ひよりはにこやかに返す。
「ええ、おはようございます」
麗華も礼儀として返したあと、悠真に視線を向ける。
「神代くん」
「はい」
「少しよろしいかしら」
「今?」
「ええ、今ですわ」
ひよりが、すぐに口を開いた。
「また二人きり?」
「問題でも?」
麗華は一歩も引かない。
「別に」
ひよりも笑顔を崩さない。
「でも、今日は私が先だったから」
言葉は柔らかいのに、内容は全然柔らかくない。
完全に牽制だ。
悠真は、朝から胃が痛くなりそうだった。
◇
「……朝から騒がしい」
静かな声。
視線を向けると、篠宮凛が教室の入口に立っていた。
それだけで、空気がまた変わる。
昨日までなら、ここで終わっていた。
観察者として、一歩引いた位置にいたはずだ。
だが、今日は違う。
「おはよう、悠真」
名前で呼ばれた。
教室が、一瞬で静まり返る。
「……は?」
誰かが小さく漏らした声が、やけにはっきり聞こえた。
ひよりも、麗華も、同時に凛を見る。
悠真自身、反応が一拍遅れた。
「お、おはよう……凛」
言ってから、自分でも少しだけ変な感じがした。
これまでの距離感が、たったそれだけの呼び方で一段変わった気がしたからだ。
「うん」
凛は短く頷く。
それだけ。
それだけなのに。
周囲の空気には十分すぎる破壊力があった。
◇
「……なるほど」
ひよりが、静かに言った。
笑顔は崩れていない。
だが、その目が少しだけ細くなる。
「本気だね」
「何が?」
凛は平然と返す。
「見てるだけじゃ意味ないんでしょ?」
さらりと言う。
だが、その言葉は昨日からの流れを正確に引き継いでいる。
「だから、少し変えるだけ」
「少し、ね」
麗華が呟く。
「その割には、随分と効きますわよ」
皮肉にも聞こえるし、事実確認にも聞こえた。
凛は否定しない。
「効果があるなら、別に問題ない」
淡々としている。
だが、だからこそ厄介だった。
感情的ではない。
駆け引きとして動いているようでいて、本人の中ではもっと自然な理由で動いているのが分かる。
◇
「……お前ら」
悠真が口を開く。
「朝から何してるんだよ」
「何って、距離を詰めてるだけ」
ひよりが即答する。
「当然ですわね」
麗華も続く。
「別に不自然じゃない」
凛も言う。
全員が迷いなく肯定するから、逆に怖い。
「不自然だろどう考えても」
「悠真くんがそう思うだけだよ」
ひよりが言う。
「あなたが鈍いだけですわ」
麗華が続く。
「自覚ないのが一番厄介」
凛が締める。
完全に包囲されていた。
◇
そのとき。
「楽しそうね」
柔らかい声が、場を切った。
天城セレスティア。
いつの間にか教室の入口近くに立っていた彼女は、くすりと笑っている。
「会長まで……」
悠真が頭を抱えたくなる。
「だって、面白いもの」
悪びれない。
「篠宮さんが踏み込めば、当然こうなるわよね」
「当然なんですか」
「ええ」
セレスティアは頷く。
「均衡が崩れたんだから」
その表現は、あまりにも的確だった。
◇
昼休み。
中庭のベンチには、いつも通り五人が揃っていた。
だが、“いつも通り”と言うには無理がある。
配置が違うのだ。
ひよりが先に悠真の隣を取る。
麗華が向かいに座る。
凛は少しだけ迷ったあと、悠真の反対側、だが近い位置を選ぶ。
セレスティアは、その全体を眺められる位置に自然と収まった。
「……分かりやすいわね」
セレスティアが言う。
「何がですか」
「全員の動き」
笑っている。
「昨日より、ずっと正直になってる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
◇
「悠真くん」
ひよりが弁当を開きながら言う。
「今日、放課後あいてる?」
真正面からきた。
「ちょっと待ってくださいまし」
麗華が即座に口を挟む。
「先約の確認もなしに押さえるのはどうかと思いますわ」
「まだ約束してないでしょ?」
「これからするつもりでしたの」
「じゃあ同じだよね?」
笑顔の応酬。
だが、内容は剣呑だった。
「……今日は」
凛が口を開く。
「私も少し話したいことがある」
ひよりと麗華の動きが、一瞬止まる。
悠真は、ついに箸を置いた。
「なんで全員まとめて来るんだよ」
「昨日のせい」
凛が即答する。
「私?」
「正確には、私が動いたせい」
そこは認めるらしい。
「でも、遅かれ早かれこうなってた」
「そうですわね」
麗華が頷く。
「きっかけが少し早まっただけですわ」
「私は助かったけどなあ」
ひよりは笑う。
「みんな、遠慮しなくなったし」
その言葉が、一番怖かった。
◇
「では提案よ」
セレスティアが、そこで口を開いた。
全員の視線が向く。
「放課後、全員でどこかに行きましょうか」
沈黙。
「……会長」
悠真がゆっくり言う。
「どうしてそうなるんですか」
「個別に取り合っても進まないでしょう?」
正論めいているのが厄介だ。
「だったら、一度同じ場に置いた方が早いわ」
「それ、絶対ろくなことにならないですよね」
「そうかもしれないわね」
セレスティアは微笑む。
「でも、面白いでしょ?」
「面白さ基準で動くのやめてもらっていいですか」
今さら止まる人ではない。
◇
「……別に、構いませんわ」
最初に乗ったのは麗華だった。
「逃げる理由もありませんもの」
「私もいいよ」
ひよりが続く。
「むしろ、その方が分かりやすいし」
「私も問題ない」
凛も短く言う。
全員の視線が、悠真に集まる。
「……拒否権は?」
「あると思う?」
今日はセレスティアだった。
しかも、全員がほぼ同じ顔をしている。
悠真は、深くため息をついた。
「……ないな」
「そう。じゃあ決まりね」
セレスティアは満足そうに頷いた。
◇
その少し離れた場所では、案の定、今日も何人かの生徒が中庭を見ていた。
「また何か決まったっぽくないか?」 「今度は放課後か……」 「神代、もう完全に囲まれてるだろ……」
もはや観察対象ですらなく、半分イベント扱いだった。
◇
放課後。
教室に残る人数が減っていく中、悠真は席に座ったまま窓の外を見ていた。
正直、帰りたい。
だが、逃げれば余計に面倒になる。
「悠真」
凛が声をかける。
もう、その呼び方に違和感は少し薄れていた。
「なに」
「今日のこと、嫌?」
意外な問いだった。
少しだけ考える。
「……嫌っていうか、怖い」
「怖い?」
「何が起きるか分からないから」
正直に答えると、凛は少しだけ目を細めた。
「それは、分かる」
同意されたのは少し意外だった。
「でも」
凛は続ける。
「止まらない方がいい気もする」
「なんで」
「昨日までより、全員ちゃんとしてるから」
その“ちゃんと”の意味は、なんとなく分かった。
誤魔化さない。
遠慮しない。
相手を見た上で踏み込む。
そういうことだ。
◇
「お待たせ」
ひよりが鞄を持って近づいてくる。
「待ってないですわ」
すぐに麗華の声が返る。
「でも、揃った方が都合がいいのでしょう?」
「ええ、まあ」
「なら同じことですわね」
微妙に噛み合っているようで噛み合っていない。
そこへ最後にセレスティアが来る。
「全員いるわね」
それを確認してから、楽しそうに笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
「どこに?」
悠真が聞く。
「それは着いてからのお楽しみ」
「絶対ろくな店じゃないな」
「失礼ね。普通の喫茶店よ」
少しだけ安心したが、安心できる状況ではないことをすぐに思い出した。
◇
教室を出る五人の背中を、クラスメイトたちが無言で見送っていた。
「……もう学園ラブコメの中心だろ、あれ」 「現実であんなことあるんだな……」 「神代、死なないかな……」
最後の一言だけ妙に現実味があった。
◇
廊下を歩きながら、悠真はふと思い出す。
昨日、義姉が言っていたことを。
好きになる奴は多い。
でも、壊さない奴はそんなにいない。
あの言葉の意味を、まだ全部は理解できていない。
けれど。
今、隣を歩く四人を見ていると、少しだけ思う。
誰も、簡単には引かない。
だからこそ――
「……本当に、ここからなんだろうな」
小さく漏れた独り言に、すぐ横を歩いていたセレスティアが反応した。
「ええ」
彼女は笑う。
「ここからが、一番面白いところよ」
その言葉を、今日は誰も否定しなかった。




