第15話 刺さった言葉の、その後で
義姉――神代沙夜が学園に現れてから、一日が過ぎた。
たった一日。
それなのに、神代悠真には、何かが確実に変わったことだけは分かっていた。
空気だ。
視線だ。
そして何より、あの場にいた四人の反応だ。
誰も、昨日までと同じではない。
「……面倒だな」
朝、教室へ向かう廊下で、悠真は小さく呟いた。
だが、その予感は教室に入った瞬間、現実になった。
◇
「おはよう、悠真くん」
栗原ひよりは、いつものように笑った。
だが、今日は少し違う。
距離は近いままなのに、押しつける感じが薄い。
代わりに、妙に落ち着いていた。
「おはよう」
「今日、ちゃんと寝られた?」
「まあ、それなりに」
「そっか」
それだけ言って、ひよりは無理に距離を詰めてこない。
昨日までなら、ここで一つ二つ軽口が入ったはずだ。
「……何かあった?」
「ん?」
「いつもより静かだろ」
そう言うと、ひよりは少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「分かるんだ」
「そりゃ分かる」
「そっか」
それだけで、どこか満足そうだった。
「別に、悪い意味じゃないよ」
「ならいいけど」
「ちょっと考えただけ」
ひよりは、机の上に指先を軽く置く。
「沙夜さんの言ってたこと」
その一言で、悠真は少しだけ黙った。
やはり、全員に残っている。
「……あれか」
「うん」
ひよりは前を向いたまま言う。
「最初はちょっと悔しかったんだ」
「何が?」
「“誰にでも同じ”って言われたこと」
言葉は軽い。
だが、中身は軽くない。
「でも」
そこで一度、ひよりは息をついた。
「逆に考えたら、そこから先は私次第なんだなって」
「……」
「同じように優しくされても、一番近くにいられるかどうかは、私の方の問題でしょ?」
その言葉は、昨日よりずっと静かで、ずっと強かった。
悠真は、返事ができなかった。
軽く聞き流せるようなものではなかったからだ。
◇
「……朝から随分と深い話をしているのね」
冷たい声が差し込む。
九条麗華だった。
だが、彼女もまた昨日までと少し違う。
敵意はある。
けれど、それだけではない。
「おはようございます、九条さん」
ひよりが先に笑顔で返す。
「ええ、おはようございます」
麗華もまた礼儀として返す。
そこまでは同じ。
だが、そのあとが違った。
「昨日の件、少し考えましたの」
視線はひよりではなく、悠真に向いている。
「昨日?」
「あなたのお義姉さまのお話ですわ」
そこだけ妙に丁寧だった。
「……何を」
「少なくとも」
麗華は少しだけ言葉を選ぶ。
「わたくし、自分の感情を勝ち負けだけで処理していたかもしれないと、そう思いましたの」
それは、彼女にしては珍しい自己開示だった。
悠真だけでなく、ひよりまで一瞬言葉を失う。
「……意外ですわね、という顔をしていますわね」
「いや、まあ」
正直だった。
麗華は小さく息を吐いた。
「失礼ですわ」
「すみません」
「謝るのも違います」
いつものやり取り。
なのに、昨日までとは違って少しだけ柔らかい。
「ですが」
麗華は続ける。
「だからといって、引くつもりはありませんわ」
「それは変わらないんだな」
「当然です」
迷いのない即答。
「ただ」
そこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなたを“勝ち取る対象”として見るのは、やめます」
その一言には、確かな変化があった。
◇
「……いい傾向」
離れた位置から、篠宮凛が小さく呟いた。
窓際に立ったまま、こちらを見ている。
「何が?」
悠真が聞くと、凛は視線を逸らさずに答えた。
「表面の対立から、一段深いところに降り始めてる」
「それ、良いことなのか?」
「少なくとも、雑じゃなくなった」
淡々とした答え。
だが、その言葉にはどこか本気があった。
そして彼女自身もまた、昨日の沙夜の言葉を引きずっているのが分かる。
見てるだけじゃ意味ない。
その一言が、思った以上に凛の中に残っているのだろう。
◇
昼休み。
中庭のベンチには、今日も五人が集まっていた。
だが、昨日と違って妙な緊張は薄い。
その代わりに、それぞれがそれぞれの距離を測っているような空気があった。
「今日は少し静かね」
セレスティアが楽しそうに言う。
「全員、昨日の余韻を引きずってるもの」
「会長は引きずってないんですか」
悠真が聞く。
「いい刺激だったわ」
即答だった。
「家族の言葉って、外からの評価よりずっと重いのよ」
そう言って、セレスティアは視線を順に流す。
ひより、麗華、凛。
「実際、刺さってるみたいだし」
誰も否定しなかった。
◇
「……あなたは、どうだったんですの?」
麗華が唐突に聞いた。
問いの先は、セレスティアだ。
「わたくし?」
「ええ」
麗華はまっすぐに言う。
「昨日の言葉を聞いて、何も変わらなかったわけではないのでしょう?」
その問いに、セレスティアは少しだけ目を細めた。
「そうね」
短く笑う。
「一つだけ、確信したことはあるわ」
「何を?」
今度はひよりが聞く。
セレスティアは視線を悠真へ向けた。
「神代くんは、誰か一人に簡単に寄りかかるタイプじゃない」
その一言で、空気が少しだけ静まる。
「だから、押すだけじゃ意味がない」
「……」
「でも、引いても来ない」
そこで、ふっと笑う。
「面倒ね」
「今さらすぎません?」
悠真が言うと、セレスティアは小さく肩を竦めた。
「だから面白いのよ」
その答えだけは、一切ぶれない。
◇
「……神代くん」
凛が口を開いた。
「何」
「一つ、聞いてもいい?」
「またそれか」
「今度は本当に短いから」
そう前置きしてから、凛は言った。
「昨日、お義姉さんに言われたこと、どう思った?」
真正面からの問いだった。
全員の視線が集まる。
悠真は一瞬だけ黙る。
考えてから答えようとして、思ったより答えが出ないことに気づいた。
「……正直」
口を開く。
「半分くらいは意味分からなかった」
それが本音だった。
ひよりが少し笑う。
麗華も呆れたように息を吐いた。
凛だけは真顔のままだった。
「でも」
悠真は続ける。
「沙夜姉がああいう言い方をするとき、大体は本気なんだよ」
「……」
「だから、多分……俺が思ってるより、色々見えてるんだろうなって」
それは、義姉への理解としては精一杯の言葉だった。
「なるほどね」
セレスティアが小さく笑う。
「信頼してるのね」
「してます?」
自分で言っておいて、悠真は首を傾げた。
「してるわよ」
セレスティアは即答する。
「そうじゃなければ、今みたいな言い方はしないもの」
そう言われると、そんな気もしてくる。
◇
そのとき、ひよりがそっと口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「私、ちょっと分かったかも」
「何が」
「悠真くんが、なんでそういう感じなのか」
「どういう感じだよ」
少し笑いながら聞くと、ひよりは真面目な顔で返した。
「ちゃんと見てくれてるのに、自分ではそれを大したことだと思ってない感じ」
その言葉に、悠真は返事を失った。
「多分」
ひよりは続ける。
「家でずっと、それが普通だったんだよね」
義母がいて、父がいて、義姉がいて。
空気を見て、言葉を選んで、誰かの機嫌や気分の変化を先に拾う。
それが当たり前だった。
だから、自分では特別だと思っていない。
ひよりの言葉は、そこをまっすぐに突いていた。
「……かもしれない」
ようやく出た答えは、それだった。
◇
麗華はそのやり取りを聞きながら、静かに考えていた。
理解する、ということ。
近づく、ということ。
昨日まで、自分は距離を詰めることばかり考えていた。
けれど、本当に必要なのは、相手の“普通”がどこから来ているのかを知ることなのかもしれない。
「……厄介ですわね」
ぽつりと漏らす。
「誰が?」
悠真が聞く。
「あなたですわ」
即答だった。
「知れば知るほど、単純ではありませんもの」
「悪かったな」
「褒めてますのよ」
少し前なら絶対に認めなかっただろう言い方だった。
◇
少し離れた場所では、今日もまた何人かの生徒が中庭を見ていた。
「なんか昨日と空気違くない?」 「いや、逆に深刻じゃね?」 「神代の姉、何言ったんだよ……」
噂は噂のまま広がる。
だが、その中心にいる五人の間で起きている変化は、外側から簡単に見えるものではなくなり始めていた。
◇
放課後。
教室に残る生徒が減っていく中、悠真は窓の外を見ていた。
何かが変わった。
確かに変わった。
けれど、それが良い方向なのか悪い方向なのか、まだ分からない。
「……神代くん」
静かな声。
振り向くと、篠宮凛が立っていた。
「副会長」
「その呼び方、そろそろやめて」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「凛でいい」
短く、しかし迷いなく言う。
悠真が一瞬黙る。
「……急だな」
「昨日、見てるだけじゃ意味ないって言われたから」
沙夜の言葉だ。
「だから?」
「少し変える」
それだけ言って、凛はほんのわずかに視線を逸らした。
照れているのかどうかまでは分からない。
だが、彼女なりに一歩踏み込んだのは明らかだった。
「……分かった」
「うん」
短いやり取り。
けれど、それだけで空気が変わる。
そこへ。
「へえ」
教室の入口から、ひよりの声がした。
続いて、麗華の姿も見える。
「そういう感じなんだ」
ひよりは笑っている。
だが、笑顔の意味は一つではない。
「……なるほど」
麗華は小さく目を細めた。
「あなたも、ようやく線の内側に入る気になりましたのね」
凛は静かに二人を見返す。
「最初から外にいたつもりはない」
「でも、そう見えていたのよ」
ひよりが言う。
それは責める口調ではなかった。
ただの事実確認のように。
そして、その瞬間。
悠真は悟った。
義姉の言葉は、刺さっただけじゃない。
全員を、前に進ませたのだと。
それぞれ違う方向へ。
違う温度で。
違う覚悟で。
「……本当に面倒なことになってきたな」
誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが。
「今さらですわね」 「今さらだね」 「今さら」 「ええ、今さらね」
四人分の声が、きっちり返ってきた。
逃げ場は、やはりなかった。




