第七十一話:マルマラ湖、火と燃えて
天が狂ったかのように、マルマラ湖の夜空から猛烈な豪雨が叩きつけられていた。
ごうごうと吹き荒れる暴風は白く煙り、数メートル先を見通すことすら困難な極限状態。波は牙を剥いた獣のように荒れ狂い、軍用高速船の木造の船体を激しく持ち上げては叩き落とす。
(うぷっ……げ、限界……! 今度こそ、今度こそ中身が出る……!!)
船頭の手すりに文字通りしがみつきながら、俺――ラインは胃液が逆流する凄まじい吐き気と戦っていた。
視界はぐるぐると回り、大雨と波飛沫で全身が激しく濡れそぼっている。だが、死んでも手すりは離さない。離せば即座に湖へ真っ逆さまだ。
だが、そんな俺の限界っぷりを、隣に立つ騎士団長レオンはまったく別の意味で受け止めていた。
「おお……見よ、諸官! 嵐の暴力に身を晒しながらも、微動だにせず敵陣を睨み据える陛下のあの威容を! まるで荒ぶる湖の神そのものではないか!」
「「「おおおっ……!!」」」
後ろの高速船にひしめき合う一千五百の決死隊が、大雨の中で目を血走らせて感涙している。ちがう、動いたら漏れる(上の口から)から硬直しているだけだ。頼むからこれ以上声を張り上げないでくれ、振動が胃に響く。
ぴかっと、夜空を割る稲妻が敵陣を照らし出した。
近づくにつれて、帝国軍の艦隊の異様な状態がはっきりと見えてきた。
二千隻におよぶ漆黒の鉄甲船。それらが、要塞島の周囲で不自然なほど密集し、互いに身を寄せ合うようにして巨大な「鉄の島」を形成していたのだ。
「……? 陛下、敵の様子が奇妙です。あの嵐の中だというのに、船同士がほとんど離れずに静止しているように見えます」
ルークが雨の遮蔽幕を払いながら、鋭い声を上げた。
俺は船酔いの合間に、必死で目を凝らした。
見えた。
敵の艦船の隙間、そこに太く重厚な鉄の鎖が何条も絡み合い、お互いの船体をがっちりと繋ぎ止めている光景が。さらに、すべての船から巨大な錨が湖底深くへと下ろされている。
勝利を確信して泥酔していたガルシア軍集団だ。突如として襲いかかったこの大嵐に、大混乱に陥ったのだろう。船同士の衝突や隊列の乱れを恐れたガルシアが、すべての船を鎖で繋ぎ合わせ、一つの巨大な動かない水上陣地として固定するという手を打ったのだ。
――自ら逃げ道を塞ぎ、身動きを取れなくしたか。
その光景を目にした瞬間、この戦の勝機が見えた。
ここまできたら、もう引き下がれない。やるか、やられるかだ。俺は手すりを握りしめる腕に力を込め、喉の奥から決死の号令を絞り出した。
「敵は自ら退路を断ち、鎖に縛られている! 諸君、狙うは大将首ただ一つ! 敵の旗艦まで一気に駆け抜け、敵将ガルシアを討ち取るぞ!!」
「「「おおおおおおうッ!!!」」」
一千五百人の咆哮が、嵐の雷鳴をも掻き消さんばかりに響き渡った。
◇
突撃のラッパが吹き鳴らされる。
オルティジアの軍用高速船は、嵐の追い風を一身に受け、矢のような速度で帝国艦隊の外周へと肉薄した。
「火を放て! 奴らに聖王の洗礼を与えてやれ!!」
レオンの怒号と共に、高速船の甲板から、油を大量に染み込ませた魔導火炎弾や火矢が一斉に撃ち出された。強風に乗った火の玉が、雨幕を切り裂いて無防備な帝国船の帆や木甲板へと次々と着弾していく。
大雨の中だ、普通ならすぐに鎮火するはずだった。
だが、ここは鉄甲船の密集地帯。船内には泥酔した兵士たちのための祝いの酒や、ずさんに管理が行われていた兵站の燃料が大量に積載されていたのだ。さらに、吹き荒れる暴風が火の粉を猛烈な勢いで周囲へと拡散させる。
ボガァァァァン!!!
一隻の船の燃料庫が誘爆を起こし、巨大な火柱が夜空へと突き抜けた。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
「敵襲だ! オルティジア軍の奇襲だ!」
「火を消せ! 船を離せ!!」
泥酔から飛び起きた帝国兵たちが、炎に包まれた甲板で大パニックを起こす。しかし、彼らが慌てて船を離そうとした瞬間、お互いを固く縛り付けていた連環の鎖が絶望の牙を剥いた。
ガギィィィン! と重い金属音が響き、鎖に引かれた船同士が、炎をなすりつけ合うようにして衝突する。錨を深く下ろしすぎたせいで、即座に移動することも叶わない。
火は鎖を伝うかのように、一隻から十隻、十隻から百隻へと、凄まじい速度で連鎖していった。
嵐の暴風雨の中で、マルマラ湖の半分が瞬く間に真っ赤な「炎の海」へと変貌していく。大雨など関係ない。魔導の炎と爆発の連鎖は、密集した二千隻の艦隊を文字通り生き地獄へと叩き落としていた。
「鎖を切れ! 斧を持ってこい! 鍵はどこだ!?」
「ぎゃああああ! 船が燃える! 湖に飛び込め!!」
さっきまで勝利を確信していた十万の軍勢は、逃げ場のない炎の檻の中で、ただ右往左往して自滅していくカカシへと成り下がっていた。
◇
「面舵一杯! 炎の隙間を駆け抜けろ!」
地獄絵図と化した湖上を、俺たちの高速船は猛スピードで突き進んでいた。
左右からは、爆ぜる鉄甲船の破片や、崩れ落ちる燃え盛るマストが容赦なく降り注ぐ。熱風と黒煙が視界を遮り、息を吸うだけで肺が焼けそうだ。胃痛と船酔いと熱さで、俺の精神はとうに限界を超えていた。
だが、決死隊の兵士たちの目は違った。
「見よ! 炎の壁が割れて道ができる! やはり陛下にはすべてが見えているのだ!」
「聖王陛下が道を指し示してくださっている! 遅れるな、続けぇ!」
ただ単に、揺れが激しすぎて俺が指を差した(実際は手すりから手が滑りかけただけ)方向を、彼らは神懸かり的な進路指示だと盲信していた。炎のトンネルをくぐり抜けるたびに、敵の防御陣形は文字通り木端微塵に砕け散っていく。
そうして、燃え盛る艦隊の最深部――。
周囲の爆発と怒号の嵐を突き抜けたその先で、ついに「それ」が姿を現した。
他の鉄甲船とは比較にならない、城塞と見紛うほどの圧倒的な巨躯を誇る超大型船。帝国軍総司令官ガルシアが座乗する、ガルシア軍集団の旗艦である。
周囲の船が燃える中、その巨大さゆえにまだ致命傷は避けていたが、その甲板は完全に混乱の極みにあった。
「バカな……! なぜだ! なぜ我が二千隻の艦隊が、小勢に蹂躙されているのだ! ラインの奴はどこだ! もやしっ子はどこにいる!?」
甲板の手すりに掴まり、狂ったように怒鳴り散らしている髭の男――ガルシア将軍の姿が、炎の照り返しの中にハッキリと見えた。
その瞬間、俺たちの高速船が、猛烈な勢いで敵旗艦の脇腹へと突っ込んでいく。
「見つけたぞ、帝国軍総司令官ガルシアァァッ!!」
船頭で大剣を構えたレオンが、勝利を確信した咆哮を上げる。
ガルシアが愕然とした表情でこちらを見下ろし、その視線が、船頭で限界突破の据わった目をしている俺の顔と、真っ正面から交錯した。
(うぷっ……ようやく着いたぞガルシア……! 吐き気も胃痛も完全に限界だが……お前の首をもぎ取るまで、俺は絶対にゲロを吐くわけにはいかねぇんだよぉぉぉーーーッ!!!)
十万の軍勢の喉元へ、わずか一千五百の刃が突き立てられる。歴史的奇襲戦の、最終決戦の火蓋が、今ここに切って落とされたのだった。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
突如として襲いかかった大嵐! 船の衝突を恐れてお互いを鎖で繋ぎ止めた帝国軍2000隻の艦隊に対し、ラインたちの火炎弾が炸裂!
連環の鎖と大量の酒・燃料が災いし、マルマラ湖は一瞬にして逃げ場のない「炎の海」へと変貌しました!
手すりから手が滑りかけただけの動作を「神懸かり的な進路指示」と勘違いされながら、炎のトンネルを突き進むライン(笑)。
そしてついに、帝国軍総司令官ガルシアの乗る超大型旗艦へと肉薄します!
現在【毎日 朝7時 / 夜7時】の1日2回更新中!
次回は、明日朝7時に公開予定です!
吐き気と胃痛の限界を迎えた聖王ライン vs 狂乱のガルシア将軍!
1,500 vs 10万の歴史的奇襲戦、ついに決着――!? ぜひお楽しみに!
【読者の皆さまへお願い】
「連環の計からの大爆破がスカッとしすぎ!」「手すりから手が滑ったのを神指示とされるラインで腹抱えて笑った!」「次回の決着が待ちきれない!」と思ってくださった方は、ぜひページ下部の★★★★★での評価やブックマークで応援していただけると、執筆の大きなモチベーションになります!
怒涛の決着回も、どうぞお見逃しなく!




