第六十四話:嵐の前の静けさと、積まれし過大評価
あの「水門干拓・座礁作戦」による大勝利から数日が経過した。
湖底から漂っていた鼻を刺すようなドブ臭さは、澄んだ湖水の還流とともに綺麗に消え去り、かつての美しく静かなオルティジアの景観が戻ってきていた。
雲ひとつない青空。心地よい微風。
俺は今、王城の庭園の中央に置かれたフカフカのサマーベッドの上に寝転がり、お気に入りの麦わら帽子を目深に被って、全身で陽光を浴びていた。
「ふぁぁぁ……あたたかい……最高だ……」
体の芯から温まる感覚に、思わず全細胞が歓喜の声を上げる。
これだ。
俺が求めていたのは、まさにこの「何にも脅かされない静かな時間」なのだ。干拓作戦のドブ臭さが、まるで遠い昔の出来事のように思える。
「お兄ちゃん、温かい紅茶とお菓子を持ってきたよ〜ん」
「ライン、日焼け止めオイル塗ってあげる。……まあ、君が黒コゲのゴキブリみたいになっても誰も気にしないだろうけど」
ニナが可愛らしい笑顔でトレーを運んできてくれ、アルテが毒を吐きながらも丁寧に日傘をセッティングしてくれる。さらにはレイラまでが、俺の足元で大の字になってすやすやと寝息を立て始めていた。
「ありがとな、ニナ、アルテ。……はぁ、幸せだ。俺の人生で今が一番平和かもしれない」
「よかったねお兄ちゃん! お兄ちゃんがまったりしている姿を見ると、ウチも嬉しくなるよ」
「ふん、まあ……これまでの過労死寸前の働きぶりを見れば、少しは休んでもいいかもね」
アルテが横を向きながらも、甲斐甲斐しくカップに紅茶を注いでくれる。
(……そうだ。俺は頑張ったんだ。急に親父から継いだ領主だったけど、領地からは謎の鉱石やら何やら色んなものが勝手に見つかり、挙げ句に独立するハメになり、聖導国と不可侵条約を結び、西側十二カ国による対帝国同盟まで作った。おまけに湖の防衛戦で帝国軍を一兵の犠牲も出さずに撃退したんだ。……ってか今思えば、一つだって俺の思い通りに行ってないじゃないか……! 何が聖王だ裏ボスだ! 俺はただのんびり暮らしたいだけなのに!)
俺は紅茶を一口啜り、今までの理不尽な出来事を噛み締めて、深く目を閉じたのだった。
◇
一方、その頃。
王城の執務室では、重々しい雰囲気の中で側近たちによる「総括会議」が行われていた。
円卓を囲むのは、ギルバート、騎士団長レオン、内政官のマルコ、そして聖女セシリア。
その手元には、これまでラインが成し沸かせてきた「偉業の記録」がまとめられた分厚い羊皮紙の束が置かれていた。
「……こうして改めて振り返ってみると、震えが止まらんよ」
ギルバートが眼鏡の位置を直し、感極まった声で呟く。
「思えば、ライン様がこのオルティジアの地に立たれた当初は、財政は火の車、領民は困窮し、帝国の圧政に喘いでおった。それがどうだ……?」
「ええ。ライン様は帝国や周辺国の目を『無能のフリ』で見事に欺き、特産品の開拓と内政改革によって瞬く間に領地の財政を立て直されました。まさに神算鬼謀の領主としての第一歩でありました」
レオンが胸に手を当て、深く頷く。
マルコもまた、感涙にむせびながら言葉を繋いだ。
「そして怒涛の快進撃です。泣く子も黙る聖導国との交渉では、相手の弱みを完璧に見抜いて無血での不可侵条約を締結。さらに西側十二カ国を束ねる対帝国同盟をあっという間に結成してみせた。同盟の盟主の座すらルニア王へ譲ることで、自らは影から世界を操る立場に就かれた……!」
「それだけではないわ!」
セシリアが頬を染め、声を弾ませる。
「西側諸国へ巨大な利権と癒やしを提供する『魔導温泉』を開発。さらには先日のバルドゥア帝国先鋒艦隊の侵攻に対し……彼は高熱で倒れ伏した病床にあっても、水門を利用した神域の作戦を提示したのよ」
「凄まじい……あまりにも凄まじい戦略眼だ……!」
マルコの手がカタカタと震える。
「ライン様がこのオルティジアの地に降臨されてより、我が軍に敗北という文字はただの一度も存在しない。無能を演じつつ、裏では常に十歩先、百歩先を読み、敵を戦わずして屈服させる……。今や西側諸国の王たちは、ライン様を『影の聖王』『絶望を退ける神子』と呼んで崇めておるそうだ」
「我が主の偉大さは、もはや世界の理すら変えつつあるな……」
四人は深く顔を見合わせ、ラインという存在の圧倒的な天才性に、改めて深い敬意と戦慄を抱くのだった。
◇
同じ頃――オルティジアから遥か遠く離れた、バルドゥア帝国の首都ヴァルバイト。
重苦しい圧迫感が漂う大玉座の間にて、皇帝アドルフ八世は、手元の報告書を力任せに握り潰していた。
「……先鋒艦隊一万が、戦うことすら叶わず座礁し、全滅しただと……?」
低く、地の底から響くような皇帝の声に、平伏する重臣たちがガタガタと身を震わせる。
「は、ははっ……! オルティジアの聖王ライン……奴は魔導を用いて湖の水そのものを一瞬で消し去り、我が軍の重装軍船を泥沼へ叩きつけたとのこと……! バルド将軍も討ち取られました……!」
「……クックック、ハハハハハ! 痛快だな! 痛快至極だ!!」
皇帝は突如として天を仰ぎ、凄まじい爆笑声を上げた。その瞳には、血のような殺意と狂気が渦巻いている。
「西側諸国を束ね、聖導国を退け、ついには我が帝国の精鋭を一瞬で呑み込んだか……! だが奴らは我が軍の中でも最弱! 戦う間もなく全滅とは帝国艦隊の面汚しよ!」
「あいや暫く! それ以上は危険な打ち切りフラグですぞ、陛下っ!?」
興奮して捲し立てるアドルフを、側近が必死の形相で嗜める。
「……む、ムホン」
我に返ったアドルフは慌てて咳払いをして襟を正すと、気を取り直して玉座から立ち上がり、重厚な剣を床へ叩きつけた。
「ゴホン! 小細工はもはや不要! 西部方面軍のガルシア軍集団を以てオルティジア討伐の任に宛てよ! 西側諸国ごと、あの生ぬるい島国を平らげ、ラインの首を我が玉座に飾ってやる!!」
「「「ははっ!! 皇帝陛下万歳!!」」」
帝国の総力を挙げた、かつてない規模の大侵攻作戦――「血の湖作戦」が、ここに発動したのだった。
◇
「……ふぁ〜あ、よく寝た」
陽が少し傾き始めた頃、俺はサマーベッドの上で身体を伸ばした。
実に有意義な一日だった。
静かで、暖かくて、誰も俺に理不尽な命令や報告を持ち込んでこない。これぞまさに、俺が夢にまで見た「勝ち組の引きこもり生活」である。
「よし、そろそろ部屋に戻って、夕飯までゴロゴロ読書でもするか――」
俺が麦わら帽子を抱えて立ち上がろうとした、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ!!
慌ただしい甲冑の音とともに、レオンが息を切らせて庭園へ駆け込んできた。その顔は感動と、そして並々ならぬ緊張感に満ち溢れている。
(……ん? なんだ? また何かあったのか?)
胸に一抹の不安がよぎるが、俺は努めて穏やかな笑みを浮かべた。
「どうしたんだい、そんなに慌てて。何か美味しいお菓子でも届いたのかな?」
「ライン様……! 朗報にございます!」
レオンが感極まった様子で膝を突いた。
「ライン様が先日の戦いで見せつけられた神域の軍略に感銘を受け、西側十二カ国よりさらに膨大な援軍と物資が、我が国へ続々と集結しております! 今や我がオルティジアは、西側連合軍の対帝国の拠点として完成されつつありますぞ!」
「……へ? 援軍? なんで? だって敵の先遣隊は追い払ったんだろ?」
俺が首を傾げると、レオンが神妙な面持ちで叩頭した。
「何を仰いますか、ライン様……! 全てはライン様のご見識通りにございます! 敵の先鋒を完璧に粉砕したことで、ついに敵の本隊が動き出しました!」
「……はい?」
「帝国西部方面司令のガルシア将軍が指揮を執る軍集団十万が、我が国へ向けて進軍するとの由! 今まさに、大湖を覆い尽くすほどの超巨大艦隊が、こちらへ向かって進軍中にございます!」
レオンの目が、ギラギラとした崇拝の光で輝く。
「ライン様が日向ぼっこをしながら待たれていたのは、この帝国軍十万を完膚なきまでに叩き潰し、世界に永遠の平和をもたらすための『決戦の刻』だったのですね……ッ!」
「……」
じゅうまん。
さっきまでポカポカと温かかったはずの全身の血が、一瞬にして凍りつくのが分かった。
十万って……なに?
一万ですら泥沼の奇跡でギリギリだったのに、その十倍……??
俺は手に持っていた麦わら帽子を、ポロリと地面に落とした。
「お、お兄ちゃん……? 顔色が真っ白だよ……まさか、またお熱出ちゃった……!?」
ニナが心配そうに寄ってくるが、俺の耳にはもう何も届いていなかった。
(俺の……俺の平和で静かな日向ぼっこ生活……たった一日で終わったんだけどーーーッ!?)
青空を見上げながら、俺の心の中の叫びは、虚しく秋の風に吹き消されていくのだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
これにて、第五章「対帝国同盟&オルティジア防衛編」は完結となります!
高熱の寝言から湖を干上がらせ、敵一万を完封してしまったラインですが……
まさかの「引きこもり日向ぼっこ計画」はたった一日で崩壊。
次章では、いよいよ帝国が本気を出し、ガルシア将軍率いる十万の大軍勢が押し寄せてきます!
「一万でも死にそうだったのに十万ってどうすんの!?」と白目を剥くラインは、果たして平和な引きこもり生活を取り戻すことができるのか――!?
今夜七時からはいよいよ第五章「ガルシア十万との決戦編」がスタートします!
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それでは、今夜もお会いできるのを楽しみにしています!




