第五十九話:湖の教義は、真理の向こう側に
オルティジア王国の王都レム。
ルニア王国との外交樹立以降、王宮には各国からの外交使節や有力商人の訪問が絶えない。
「陛下、ソリス聖導国からの使者が参っております。」
「うむ。苦しゅうない。通せ」
「って……聖導国だぁ?」
◇
謁見の間には、息が詰まるほどの重苦しい空気が立ち込めていた。
今日訪れているのは、大陸北方に位置する宗教国家ソリス聖導国からの使節団だ。唯一神ソリスを信仰するソリス教の総本山である彼らは、独自の教義を掲げ、少しでも異端の匂いがすれば信徒の国を動員し、「聖戦」と称して侵略を開始する、敵に回してはいけない厄介な国である。
その使節団を率いるのは、神の代弁者と恐れられる大聖女、エレノア=ヴェールだった。
隙のない純白の法衣を身に纏い、氷のように冷たい青い瞳で周囲を圧する彼女は、教義の逸脱を一切許さない絶対的カタブツとして知られている。
玉座の脇に控えるセシリアは、冷や汗を拭いながら隣のギルバートに極小の声で耳打ちした。
「ギルバート卿……しくじれば即座に聖戦の口実を与えてしまいます。オルティジアの存亡がかかっていますよ」
「ああ、重々承知している。言葉一つ選ばねば、明日には聖導国の錦の御旗の元、討伐軍が押し寄せてくるからな……」
重臣たちが胃を痛め、生きた心地もしていない中で、玉座に深く腰掛けた俺の本音はまったく別のところにあった。
(うわぁ……なんか白くて眩しい奴らが来たよ。宗教国家? 絶対めんどくさいじゃん。お祈りの時間がどうとか、寄付金が足りないとか言われて難癖つけられる未来しか見えないんだけど……。頼むから挨拶だけして早く帰ってくれないかなぁ)
俺の頭の中にあるのは、交渉をいかに円滑に進めるかではなく、いかに最短ルートでこの苦痛な時間を終わらせるか、ただそれだけだった。
「……オルティジア王、ライン陛下」
静寂を破り、大聖女エレノアが一歩前へ出た。その声は凛として澄み切っていたが、内包された威圧感は鋭い刃物のようだ。
「我がソリス聖導国は、全土の民が唯一神への絶対的な献身を捧げることで成り立っております。今般の国交樹立交渉に際し、まず確認させていただきたい。――貴国は唯一神ソリスの尊い教義を、どのように受け入れるおつもりか?」
キィン、と空気が凍りついた。
(来た……! 踏み絵だ!)
セシリアの顔から血の気が引く。
「教義を受け入れる」と答えれば国教を強制され、民の反発を招く。「拒絶する」と言えば即座に異端認定され、戦争へ突入する。二者択一に見せかけた、詰み盤面の問いかけだった。
セシリアやマルコは必死に頭を回転させ、なんとか教義を尊重しつつも自国の主体性を保つような、言い逃れの外交的答弁を必死に模索し始めた。
(どうしよう、どう答えても角が立つわ……! ライン、なんとかうまく誤魔化して……!)
セシリアが祈るような心地でラインを見上げる。
しかし、当のラインの脳内キャパシティは、とっくに限界を迎えていた。
(絶対的な献身? 教義を受け入れる? 知るかよそんなもん……。なんで他国の拝み方をうちの国に持ち込まれなきゃいけないんだ。議論するのも馬鹿馬鹿しいし、頭痛くなってきた……。もういいや、適当に言って追い返そう)
深く溜め息をつきたくなるのをどうにか押し殺し、俺は心の底からの本音――ただの「面倒くさがり」ゆえの現実逃避を、心底心底どうでもよさそうな顔で口にした。
「いや、うちの国は別に、特定の宗教を国教にするつもりはないんだよね」
「「「!??!?」」」
謁見の間全体に激震が走った。セシリアは白目を剥きかけ、マルコは卒倒しそうになる。直球すぎる拒絶。これは開戦の合図になりかねない。
しかし、俺は止まらない。一度開き直った適当さは加速する。
「うちの領土には、元々の湖信仰ってのがあってね。唯一神ソリス様を信じたい人は勝手に信じればいいし、信じたくない人は信じなくていいんじゃない? 祈りたい奴は祈ればいいし、日曜日くらい寝てたい奴は寝てればいい。お互い自分のペースで気楽に行こうよ。……以上だけど、ダメ?」
しーん、と静まり返る場内。
まぁ、俺としては「うちには合わないから余所は余所で勝手にやってね」という極めて無責任かつ投げやりな辞退の言葉のつもりだった。
(あーあ、怒って帰るかな? 帰ってくれたらラッキーなんだけど)
俺が暢気にそんなことを考えていた、その時である。
「……っ!?」
大聖女エレノアの身体が、激しく戦慄した。
彼女の顔が驚愕に歪み、その青い瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れ出し始めたのだ。
(な、なんだ……? 泣くほど怒ってるの……?)
ラインが引きつった笑いを浮かべたが、エレノアの脳内では今、人類宗教史を揺るがすレベルの勘違いの大爆発が起きていた。
(な、なんという……なんという深遠なる神理……!!)
エレノアの脳内翻訳システムが、猛烈な勢いでラインの言葉を再構築していた。
(教義という言葉の枠組みで神を縛り、形式的な戒律を守ることだけを信仰と呼んでいた我々の浅はかさよ……! 神とは万物に宿り、万人の心の中に自由として存在する存在。それを人間ごときが国教などと定義し、他者に強制すること自体が、神に対する不敬であったというのか……!?)
エレノアの全身に鳥肌が立つ。
(『信じたい者は信じ、信じぬ者は信じぬでよい』……! それこそが、全てを包み込む『神の真の愛』ではないか! 異端を排除し、他者を裁くための道具として神を利用していた我々こそが、もっとも神の真理から遠ざかっていたのだ……っ!!)
自らのこれまでの生、聖導国の歴史、そして厳格すぎた己の歩みが、ラインの一言によって木端微塵に打ち砕かれた。絶望と、それを遥かに上回る圧倒的な救済の光。
「ああ……神よ……!」
ドサッと、重い音が響いた。
大聖女エレノアが、法衣が汚れるのも構わず、俺の前に力なく膝を突いたのだ。
「エレノア様!?」
驚く使節団の者たちを手で制し、エレノアは感涙にむせびながら、玉座のラインを崇高な眼差しで見上げた。
「……恥ずかしい限りですライン陛下。神の威を借り、教義という刃で他者を裁いていた…何という己の浅はかさよ。 我々は神を信じさせることに囚われ、神が人に与えた最大の恵みである心の自由を奪っていた……!」
「へ?」
ラインの間抜けた声は、大聖女の情熱的な叫びに掻き消された。
「聖王…ライン陛下……! 陛下こそが、教義の壁を超え、神の真理――真の慈悲を体現されるお方……! 形式に囚われた我ら愚者を導く、真の神の預言者にございます……っ!」
「いや、あの、俺はただ面倒くさかっただけで――」
「謙遜なさるな! その無私にして執着なき心境こそ、神の境地! わかりました、このエレノア、自らの命に代えても本国を説得してみせます!」
そう叫ぶと、エレノアはその場で羊皮紙を取り出し、猛烈な勢いでサラサラと文書を走り書きした。
◇
結果。
ルクス聖導国とオルティジア王国の間に、「相互の信仰の自由を全面的に認め、異端認定による干渉を禁止する」という、聖導国の歴史上あり得ない異例中の異例である不可侵条約&免罪協定が締結されることとなった。
使節団が「聖王陛下の教えを本国に広めねば!」と興奮冷めやらぬ様子で去っていった後。
謁見の間には、疲弊しきったラインと、感極まった側近たちが残されていた。
「ライン……! あんた、マジですごい奴だったのね!」
セシリアが目を輝かせてラインの手を握りしめる。
「あの冷酷無比な大聖女を言葉一つで心服させ、絶対に不可能なはずの平和条約を引き出すとは……! やはりライン様は、国家の安寧だけでなく、人の魂の救済までも計算されていたのですね!」
ギルバートも深く深く頭を下げた。
「聖導国を力でねじ伏せるのではなく、彼らの信じる神の概念そのものを一段上の次元へ引き上げることで降伏させるとは……。まさしく聖王の名にふさわしい、神がかった外交手腕にございます」
「……」
ラインはただ呆然と、自分の手元にある締結された条約書を見つめていた。
ただ適当にあしらって、早く部屋に帰って昼寝がしたかっただけなのに。
なぜか自分は「大聖女を改心させた偉大な聖王」として、大陸中にその名を轟かせることになってしまったらしい。
「さ、終わったら執務室へ。今日中に決裁頂きたい書類が沢山ありますよ?ライン聖王陛下。」
アルテがニヤニヤしながら、白目を剥いて燃え尽きている俺の肩を叩く。「聖王」というフレーズがツボったらしい。
(……なんでこうなるの?)
遠い目をしたラインの深すぎる溜め息は、側近たちには「世界を憂う聖者の吐息」として、またしても尊く解釈されるのだった。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
「日曜日くらい寝てたい」という本音を言っただけなのに……なぜか大聖女を号泣させて聖王に祭り上げられてしまったライン。
勘違い外交、楽しんでいただけましたでしょうか!
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