第五十五話:長風呂は、災厄の予感がする。
「ふぅ……ちょっと風呂にでも入って頭冷やしてくるわ。書類は帰ってきたらやる……」
深夜。
執務室で疲労困憊となった俺は、ふらふらとした足取りで部屋を後にした。
主が不在となった深夜の執務室。
そこに、吸い寄せられるように彼女たちが集まりつつあった。
「お兄ちゃん、お夜食持ってきたよ〜……って、あれ? いない」
最初に入ってきたのは、特製スープと焼きおにぎりの盆を抱えたニナだった。
続いて、膨大な資料のタワーを抱えたアルテが「ライン、夜の勉強会だよ」と入ってくる。
「あれ? ニナ? こんな時間に何やってるの?」
「それはウチのセリフ! ちぃねえこそお兄ちゃんの部屋で何しようとしてんのさ!」
バチバチと火花を散らす二人。
そこへ、夜間警護の巡回中だったレイラが現れる。
「二人とも、深夜に騒ぐのは感心しないぞ。……む、そのお夜食、毒味は済んでいるのか?」
「ウチが毒なんて入れるわけないでしょ笑」
「ねぇライン……いる?」
最後に、ドアの隙間から申し訳なさそうに顔を覗かせたのは、オルティジアの食客になっているセシリアだった。
その手には、ハーブティーの入ったカップが二つ。
「セシリアまで!? 」
「な、なんだか眠れなくて……ちょっと作りすぎたからお裾分けよ」
こうして、ラインの留守中の執務室に、ニナ、アルテ、レイラ、セシリアの四人が一堂に会した。
沈黙。
お互いを牽制し合うような、異様な緊張感が室内を満たす。
「……ねぇ」
ニナが冷ややかな笑みを浮かべ、先陣を切った。
「ここでハッキリさせようよ。……一体誰が、お兄ちゃんの一番なのかをさ!」
「「「「……ッ!!!!」」」」
深夜の「第1回・ライン様争奪ヒロイン座談会」が、開幕した瞬間だった。
◇
「ふん! 言うまでもないけど、ラインの隣は私って決まってるから」
アルテが胸を張る。
「私は主席補佐官として、ラインの全てを管理してるの。ラインのことは私が一番わかってるんだから!」
「はいはい、部屋を散らかしてお兄ちゃんに怒られた奴は黙ってて〜!」
ニナがすかさず舌を出し、マウントを奪い返す。
「朝のあーんも、お風呂の準備も、好みの味付けも全部ウチが把握してるの! 生活の全てを支えるウチこそ、圧倒的お嫁さん枠でしょ!」
「甘いぞ二人とも!」
レイラが熱っぽい瞳で身を乗り出した。
「私はライン殿の盾となると誓った! 常にライン殿の側にあり、降りかかる火の粉を払おう!」
セシリアが「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「わ、私は……ヘタレなラインが心配だから残っただけで……だから……すき……とか……」
「じゃあなんで顔真っ赤なん?」
――だが。
この熱気あふれるマウント合戦の真上には、哀しき侵入者が息を潜めていた。
(フフフ……首尾よく潜入成功だ。ライン・オルティジア、貴様の首を貰い受けて――)
執務室の天井裏に張り付く帝国が放った暗殺者。彼が忍び込んだ瞬間、真下で始まったのは、四人の女による無制限マウント合戦だった。
(……な、なんだこのプレッシャーは……!? 息が……苦しい……っ!?)
天井裏に潜む暗殺者――帝国の影の工作員「黒死の牙」ことヴァルツは、額から滝のような冷や汗を流していた。
本来なら、領主であるラインが席を外したこの瞬間こそが絶好の好機のはずだった。
机の上に放置された機密書類を奪うか、戻ってきたラインの喉元を闇に乗じて掻き切るか。
単純で、易しい仕事になるはずだったのだ。
だが、現実は違っていた。
真下に集まった四人の女たちが発する、目に見えんばかりの濃厚な愛憎と執着のオーラ。
それが狭い執務室の中に充満し、密閉された天井裏にまで容赦なく押し寄せてくる!
(くっ……なんだこのバカバカしさは……!しかし何というプレッシャー!……魔力以上に重い……!?)
「ちょっとセシリアさん、ヘタレとか言いながらハーブティーなんて淹れてきて、本当は一番あざといんじゃないの?」
「な、なんですって!? 私はただ、ラインがいつも夜遅くまで書類仕事をしていて……体を壊したら困るから……っ!」
「あら、私はラインの体調管理のために主席補佐官としてスケジュールを完璧に組んであるんだよ。……あなたが余計なハーブティーでラインの睡眠時間を削らなければ、の話だけどね」
「ちぃねえ、それは言えてる! お兄ちゃんにはウチの特製スープと焼きおにぎりがあれば十分なんだよ!」
「……待て、ニナ。その焼きおにぎり、少し焦げているように見えるが……ライン殿の胃腸に負担をかけるのではないか? 私が毒味して検分してやろう」
「レイラねえ、それただ自分が食べたいだけでしょ笑」
(ひぃ……っ!?)
刺客は呼吸を整えようと必死にしがみついていた。彼らは鍛え上げられた暗殺者だ。どんな過酷な環境にも耐える訓練を受けてきた。
だが――
好きな男の一番を巡って乙女がバチバチに火花を散らすと言う、世界一どうでもいい空間に耐える訓練など、受けているはずがなかった。
(もうどうでもいいから…早く……早く誰か一人に決めてくれ……! 頼むから解散してくれ……っ! さもなくば俺の精神が死ぬ……!)
だが、修羅場はさらに加速する。
「とにかく!」
ニナがパンッとテーブルを叩いた。
「お兄ちゃんが一番頼りにしているのは、身の回りの世話を完璧にこなすウチ! 異論はある!?」
「あるね!」
アルテが詰め寄る。
「ラインが求めているのは知的なパートナーだよ。領地経営の複雑な計算を処理し、政治的な盾となれるのは私だけ。」
「難しい事はわからんが、ライン殿が私に向ける信頼の眼差しを、お前たちは見たことがないのか?」
レイラが腕を組み、不敵に笑う。
「う、うぅ……っ」
セシリアが涙目になりながらカップを握りしめる。
「た、確かに私は、魔法も使えないし、領地の手伝いもできないけど……でも……ラインは私と二人きりの時、すごく優しい顔で笑ってくれるもん……っ! 『君がいてくれて救われる』って言ってたもん……っ!!」
「「「……なんですって!?」」」
ピキ、と室内の空気が凍りついた。
三人の鋭利な視線が、一斉にセシリアに突き刺さる。
「……セシリアさん? それ、いつの話かな……? ウチに詳しく聞かせてくれる……?」
「ラインがそんな情緒的な発言を……? この場での虚偽の申告は「義兄」業務妨害だよ、セシリア」
「ふむ……ライン殿がそこまで心を開いていたとは。詳しく聴取する必要があるな」
「ひっ……! 違うの、今のはその……!」
空気がヤバい。
部屋の温度が3度ほど下がった気がした。
そして、その冷気と重圧の矛先は、奇しくも天井裏へと伝播していく。
(アカン……! これ以上ここにいたら、俺は殺される……! ライン・オルティジアの手にかかって死ぬならまだしも、女どものマウント合戦の余波で圧死するなど、帝国の名誉に関わる……!)
限界だった。
ヴァルツの精神はとっくにキャパシティを超えていた。
彼は逃げ出そうと、慎重に体重を移動させ――
――ミシッ……。
(あ。)
長年の暗殺者生活の中で、これほど絶望的な木材の軋み音を聞いたことがあっただろうか。
疲弊しきった刺客の集中力は途切れ、足元の天井板を踏み抜いてしまったのだ。
メリメリメリッ! バキィッ!!
「ぐわぁぁぁぁぁっ!?」
天井が崩落した。
大量の埃と木屑とともに、黒装束に身を包んだ男が、修羅場の真ん中――ローテーブルの真上に無様になだれ落ちてきた。
――ドシーンッ!!!
「あ……」
豪快な音を立てて倒れ込む刺客。
その衝撃で、ニナ特製の焼きおにぎりは宙を舞い、セシリアのハーブティーは派手にこぼれ、アルテの書類タワーは雪崩を起こした。
静寂が訪れる。
煙がうっすらと漂う中、ヴァルツは痛む腰を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ」
目の前には、自分たちが持ち寄った「ラインへの愛の結晶」を台無しにされた四人の女たち。
ニナの笑顔から完全に光が消えている。
アルテの真紅の瞳がギラリと怪しく光る。
レイラはフランジメイスを握り直す。
セシリアはこぼれたハーブティーを見て、絶望の表情から一転、静寂な怒りを宿していた。
「……ねえ」
ニナが、地獄の底から響くような低い声で呟いた。
「ウチが……お兄ちゃんのために心を込めて握った焼きおにぎりが……潰れてるんだけど?」
「私の……ラインと一緒に徹夜して仕上げるはずだった予算案が……足蹴にされたわ……」
アルテの周囲で、目に見えるほどの魔力が渦巻き始める。
「深夜の警戒を怠った私の不覚だが……それ以上に、ライン殿の執務室を汚した罪は重い」
レイラが静かに剣を抜いた。銀色の刃が月光に反射する。
「私のハーブティー……ラインが最近寝不足だって言ってたから……一生懸命ブレンドしたのに……っ!」
セシリアの掌に、超高密度の炎が灯る。
(あ、これ……アカンやつだ)
ヴァルツは悟った。
目の前にいるのは、可愛い女の子たちではない。
愛する男へのプレゼントをブチ壊されてブチ切れた、世界で最も危険な四大災厄だ。
「ま、待て! ! 命が惜しくば――」
「「「「うるさい(黙れ)!!!!」」」」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!???」
◇
数十分後。
「ふぅ……サッパリした。やっぱり疲れた時は長風呂に限るな」
髪をタオルで拭きながら、俺は執務室のドアを開けた。
「さて、残りの書類をやっつけて……って、なんだこれ!?」
部屋に入った瞬間、俺は自分の目を疑った。
天井にはでかい穴が開き、部屋の隅には……なんだこれ、全身ボロボロになって縄でグルグル巻きにされ、白目を剥いて泡を吹いている黒装束の男が転がっている。
そして、部屋の中央には。
「あ、お兄ちゃんお帰り〜! お風呂どうだった?」
「お帰りなさい、ライン。ちょっと珍しい害虫が迷い込んできたから、駆除しておいたよ」
「ライン殿、怪我はないか!? ……いや、敵は完全に無力化した。安心するといい」
「ライン、ごめんなさい……部屋、少し散らかしちゃって……」
何事もなかったかのように微笑む四人の姿があった。
ただ、ニナの服には少し焦げ跡があり、アルテの髪は少し乱れ、レイラのメイスには謎の煤がつき、セシリアの足元には焦げた天井板の破片が転がっている。
「いや……何があった??? ていうかその転がってる男誰!?」
「あ、気にしないで〜。ただの暗殺者さんだよ」
ニナが笑顔で手を振る。
「それよりお兄ちゃん! 焼きおにぎり、ちょっと崩れちゃったけど作り直すからね! ウチと一緒に食べよ!」
「いいえライン、まずは私が新しく淹れ直したハーブティーを飲んで頂戴。リラックスできるわよ」
セシリアが前に出る。
「ライン、散らかった書類の整理は私が手伝う。だから私の隣に来るべきよ」
アルテが俺の腕を引っ張る。
「待て、まずは治安維持の観点から、この刺客の取調べ方針を私と話すべきだ!」
レイラが反対側の腕を引っ張る。
「……待て待て待て! 一度に喋るな! ていうか暗殺者!? 」
俺の叫びも虚しく、四人の「ライン争奪戦」第2ラウンドのゴングが鳴り響いたのだった。
部屋の隅で意識を取り戻しかけた刺客は、争う四人と困惑するラインの姿を視界に捉え――
(……助かった……取り調べの方が……よっぽど天国だ……)
そう心の中で涙を流しながら、静かに再び意識を手放した。
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