第四十四話:祭の始まりと、泡沫の約束
――ファンファーレの甲高い音が、夜明け直後のレムの街に鳴り響いた。
それを合図に、まだ涼しい朝の空気を震わせるほどの、地響きのような怒涛の歓声が沸き起こる。
今年初開催となる、我がオルティジア領の巨額のミスリルマネーを注ぎ込んだ一大イベント銀冠祭の開幕だ。
オルティジア領が今、最も熱く、最も狂おしく湧き立つ瞬間だった。
「始まった……! ついに、ついにこの日が来たぞ……っ!」
領主館のバルコニーから、眼下に広がる目が眩むほどの賑やかな街並みを見下ろし、俺は込み上げてくる感動に身を震わせていた。
街の通りには色鮮やかな旗がはためき、朝早くから数え切れないほどの屋台がひしめき合い、領民たちが満面の笑みで行き交っている。
だが、俺がこれほどまでに感動しているのは、そんな領内の活気に対してではない。
(待ちに待った、働かなくていい『隠居生活』へのカウントダウンが、ついに始まったんだ……!!)
今回の銀冠祭は、俺にとってただのお祭りではない。
その中日に、俺の『辺境伯退任』と『新執政官のお披露目』という、最大のバトンタッチイベントが組み込まれているのだ。
帝国の軍務局に提出した「全財産差し上げますから今すぐ無職にしてください請願書」は見事受理され、派遣されてきた後任は、あの頼もしい(と俺が勝手に信じている)帝国軍務局のエリート官僚ルードヴィヒ。
彼に実権を丸投げしさえすれば、俺は晴れて合法的な自由の身。
温泉三昧、年金暮らし、毎日お昼寝確定の極上セカンドライフが、もう目と鼻の先まで来ているのだ。
あまりのウキウキに堪えきれず、思わずバルコニーで軽快なステップを踏みそうになっていた、その時だった。
「……ライン。朝からずいぶんと気持ち悪い笑顔で楽しそうに踊ってるね。何か悪いものでも食べた?」
背後から、ひんやりとしたジト目が突き刺さる。
振り返ると、そこにはいつもの制服を隙なく着こなしたアルテが、俺のあまりの浮かれっぷりに頭痛をこらえるような表情で立っていた。
「ステップだよアルテ! いやぁ、天気がいいね! 最高の祭り日和だ!」
「ねえライン。本当にその……例の執政官にすべてを譲って、自分は引退するって件、本気なの? 正気を疑うんだけど」
「当たり前じゃないか。書類も全部用意してあるし、あとは祭りの中日の調印式でサインするだけさ」
「でも……」
アルテは細い指をきゅっと握り、本気で心配そうに眉をひそめた。
「あのルードヴィヒって男、最近あからさまに様子が不審なんだけど。昨日も中央広場で、ただの『ぎんかんようかん』を煮詰めていた巨大な大鍋を見て、まるで世界の終わりを目撃したみたいに青白い顔でガタガタと震えてたよ? 何か重い病気か、あるいは頭に悪い禁忌魔法でも直撃したんじゃないかって不安なんだけど……」
「ははは! 気にしすぎだって! ああ見えて帝都出身のエリート官僚だからさ、地方の巨大スイーツの圧倒的なスケール感に感動しちゃっただけだよ、きっと!」
俺は快活に笑い飛ばした。
昨日、彼が必死の形相で大鍋を睨みつけていたのは、新体制に向けてオルティジア領の特産品を熱心に勉強していたに違いない。実に真面目で、実に頼もしい男だ。
「さあアルテ、そんな難しい顔してないで、今日は俺たちもお祭りを全力で楽しもうじゃないか!」
◇
――数時間後。
俺は、お祭りの熱気とスパイスの香りに包まれた屋台通りで、完全に己の浅はかな判断を後悔していた。
「お兄ちゃん、見て見て! この格好、どうかな……っ?」
頬をほんのり染めながら、俺の目の前でひらりと身を翻したのはニナだった。
この地域の伝統である『涼風ローブ』に身を包んだ彼女の姿は、一言で言って破壊力が歪なまでに高かった。
向日葵の柄が鮮やかに染め抜かれた一枚の布を、体に巻きつけたような異国情緒あふれる小粋なデザイン。
だが、仕立てた職人の悪ノリか、肩から鎖骨にかけてが大胆に剥き出しになっている。
おまけに、コルセットの代わりに巻かれた太い帯のせいで、彼女が誇る圧倒的な双丘が限界まで押し上げられ、薄い木綿を押し破って今にもこぼれ落ちそうだった。
「う、ううん! めちゃくちゃ似合ってるよ、ニナ! 新鮮で凄く可愛い!」
「――っ! あ、ありがとう! めっちゃ嬉しい……!」
ニナが屈託のない笑顔をパッと輝かせる。
だが、その微笑みを遮るように、横からぬるっと涼やかな影が割り込んできた。
「ちょっとニナ、ラインに無駄な肉をアピールして惑わすのはやめなよ。……ライン、私の衣装は……どう? 動きやすさと古代魔導の幾何学的な様式美を意識した素晴らしい仕立てにしてみたんだけど……」
アルテが選んだのは、月夜を思わせる深い藍色の涼風ローブだった。
その布地には、銀糸で繊細に月下美人が刺繍されており、彼女が動くたびに、夜風に揺れる花のように見え隠れする。
その凛とした佇まいは、普段のキッチリした制服とは違い、まさに夜に咲く奇跡の一輪のようで、思わず見惚れてしまう。
「うん、アルテも最高に似合ってる。…お人形さんみたいだ」
「ふ、ふん……まあ……ラインにそう言ってもらえるなら合格点だね……」
急に赤くなった顔を隠すように、ふいっとすますアルテ。
可愛いところもあるじゃないか。
と、背後から艶やかな香水の香りと共に、大人の色気をこれでもかと振りまく美女が足音もなく忍び寄ってきた。
「あら、若いお嬢さん方は初々しくて結構だねぇ。でも、ライン様の本命は、こちらの“着崩し”の美学だと思わないかい?」
そこにいたのは、シャルロッテだった。
彼女の涼風ローブには不穏な黒薔薇が刺繍され、もはや芸術的なまでに漢の浪漫が詰まった仕様だった。
胸元がかなりきわどい位置まで緩められており、歩くたびに白く艶やかな太ももがスリットからのぞく。熟れた果実のような色気に、周囲の男性領民たちの視線が文字通り釘付けになっていた。
「シャルロッテ=ローゼン!お祭りだからってちょっと露出度が高すぎんじゃね?!」
「えー? 涼風ローブってのはこういうもんさね。 そうだろ? 坊や?」
妖艶にウインクされ、俺の理性は早くも消し飛びそうになる。
右を見ても左を見ても正面を見ても眼福すぎる。
先日デート権の争奪戦で修羅場になったのだが、結局折り合いがつかずに「全員で回る」という力技の決着になった結果、俺のライフはもうゼロに近い。
そんな、顔を真っ赤にするニナや、すました顔のアルテの後ろから、ハハハと屈託なく笑いながら現れたのは、レイラだった。
いつもは露出度全開のビキニアーマーしか着ていない彼女が、今日は大輪のアマリリスが鮮やかに染め抜かれた涼風ローブを羽織っている。
「いやー、布の服ってのは風が通って気持ちいいものだな!」
本人はいつもの調子で快活に笑っているが、合わせの隙間からのぞく、鍛え上げられていながらもしなやかな肌と鎖骨、そして何より、普段は剥き出しの健康美を誇る太ももが、歩くたびに薄いローブの裾から大胆に割り込んでくる。
隠されたことで逆に強調される戦士の肉体美は、ニナの双丘とはまた違うベクトルで破壊力に満ち満ちていた。
さらに、そんな華やかな4人の後ろから、なぜか気まずそうに、しかし見事な着こなしでついてくる5人目の姿があった。
「……ちょっと。なんで、この私がこんな辺境の奇妙な民族衣装を着て、あなた達の物見遊山に同行しなければならないのよ?」
不機嫌そうに腕を組んでいるのは、執政官付きの武官――セシリアだった。
彼女の着ている涼風ローブはさすがの高貴さに満ちていた。
深紅の生地に金の刺繍があしらわれた衣装は、彼女の引き締まったしなやかな肢体と、勝気な美貌をこれ以上なく引き立てている。
「いや、セシリア。嫌なら領主館で休んでてよかったんだよ?」
俺がセシリアに向けて言うと、セシリアは真っ赤な顔で、
「バ、バカ! 私は執政官付きの武官として、この領地の『治安維持状況』と『お祭りの経済効果』を正確に視察する義務があるのよ! 別に、あんた達と一緒にお祭りを楽しみたいわけじゃないんだから……っ!」
と捲し立て、ぷいっと顔を背ける。
(ルートヴィヒ様からライン達の監視を命じられたのはいいけど…私までこんな恥ずかしい格好する意味ある?これは任務…楽しんじゃいけないのに…でも…っ)
ツンデレの教科書のような反応だが、実は帝国にはない異国情緒あふれる衣装と屋台の賑やかさに、少しテンションが上がっているのが丸わかりだった。耳の裏までほんのり赤い。完全に抜けている。
「よし、それじゃあみんなで美味しいものでも食べよう。ほら、新名物の『ぎんかんようかん』の屋台があるぞ!」
俺が指差した先には、昨日完成したばかりの、あの鮮やかな水色の羊羹が綺麗に四角形に切り分けられて売られていた。
みんなで一本ずつ購入し、さっそく口に運ぼうとした――その時、ニナが顔を真っ真っ赤にして、プルプルと震える手で自分の羊羹を俺の目の前に差し出してきた。
「お、お兄ちゃん! その……はい! あ、あーん……!」
上目遣いで、消え入りそうな声での決死の猛攻。くっ……可愛い。破壊力が凄まじい。
俺がその圧倒的な純情に気圧され、口を開きかけた、まさにその瞬間。
「うむ! それでは私が毒見してやろうではないか!」
パクッ。
なんと、横から滑り込んできたレイラが、ニナの差し出した羊羹を横から強引に丸かじりしてしまった。
「「「「あ」」」」
静止する空間。ニナが魂の抜けたような顔になり、アルテの目が一瞬で据わる。シャルロッテはフッと微笑む。
しかし、当のレイラはもぐもぐと口を動かした瞬間、その大きな目を見開いた。
「ムムムッ! 弾力があるのに口の中で上品に溶けて、この濃厚でガツンとくる、でも後に引かない完璧な甘さは……めちゃくちゃ美味っ……!! まさに味の宝せきば……んぐっ!? ぐぬぬ……っ」
慌てて頬張り感想を捲し立てたレイラは、ようかんを喉につまらせ、顔を真っ赤にして一気にお茶で流し込んだ。
「とにかく! うまい! ハハハ!」
「ちょ、ちょっとレイラねえ! それはお兄ちゃんにあげようとしてたのにー!!」
怒るニナをなだめつつ、俺たちは大騒ぎでお祭りの通りを歩いていく。
――なお、そんな俺たちの姿を、遥か遠くの建物の陰から、双眼鏡を覗き込みながらガタガタと震えている一人の男がいた。新執政官ルードヴィヒである。
(な、なんと恐ろしい男だ、ライン・オルティジア……!! あの禍々しい水色の新型化学兵器『ヨウカン』を、あえて人衆の面前で、実験体に直接摂取させて効果を測定しているというのか……! しかも食べた女のあの戦慄した表情(※ただ喉に詰まらせただけ)を見ろ! 脳の神経を狂わせる即効性の毒素まで含まれているに違いない……。くっ、なんという悪魔の発明だ……っ!!)
ルードヴィヒのクソデカ勘違いにさらに燃料が加えられ、大爆発しそうなことなど、俺たちは知る由もなかった。
◇
――やがて、賑やかだった昼間の喧騒が嘘のように、夜の静寂がレムの街を包み込んでいった。
遠くの広場からは、まだ微かにお囃子や太鼓の音が心地よく響いてくるが、領主館の高台にあるバルコニーは、静かな夜風が吹き抜けるだけの穏やかな空間になっていた。
昼間の涼風ローブ姿のまま、俺は一人で夜空に浮かぶ美しい月を見上げていた。
すると、パタパタと静かな足音がして、隣にアルテが並んで立った。彼女の手には、温かいお茶の入った湯呑みが二つ握られている。
「今日はお疲れ様、ライン。はい、どうぞ」
「お!ありがとう、アルテ。いやぁ、本当に楽しい祭りだったな」
お茶を受け取り、ズズッとすする。
温かさが五臓六腑にしみわたる。
アルテはしばらく遠くの街の灯りを見つめていたが、やがて、ぽつりと、どこか寂しげな声を漏らした。
「……色々、あったけど。ラインがこうして辺境伯として、この領地を治める生活も、もう本当におしまいなんだね」
その言葉には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
俺はふっと微笑み、アルテの頭の上に手を置いて、その柔らかい髪を優しく撫でた。
「そうだな。でも、心配いらないよ、アルテ」
「……?」
俺は真剣な、でもどこかホッとした声で語りかける。
「ギルバートや、軍を率いるレオンも、ドレイクやマルコも、他の大事な家臣たちや、それに領民たちも……みんな、俺が隠居した後の行き先は、ちゃんと書類に組み込んで保証してあるんだ。ルードヴィヒには『僕のわがままを聞いて、彼らの次のポストや雇用は100%守ってほしい』って、しつこいくらいに特約を付けておいたからな。だから、みんなの生活が悪くなることは絶対にないよ」
そう、俺が命がけで書いたあの請願書と譲渡書類には、俺の平和な隠居生活だけでなく、これまで俺を助けてくれた(あるいは勘違いで追い詰めてくれた)優秀な家臣たちや領民の生活保障を、ルードヴィヒの新体制でも完璧に維持するようガチガチの条件を仕込んであるのだ。
これこそが、サボり魔である俺が、唯一領主として果たせる「最低限の責任」であり、本気の優しさだった。
「俺はこれからさ、地方に小さな隠居領を一つもらって、毎日温泉に入って、美味しいものを食べて、誰にも怒られずに悠々自適に過ごすんだ。……もちろん、アルテも一緒に来てくれるだろ?」
俺が笑いかけると、アルテは一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、彼女のジト目は完全に消え去り、夜の月明かりの下で、見たこともないほど愛おしそうで、かつ美しい笑みを浮かべた。
「――君は私がいないと何もできないからね。仕方ないからどこへでも、たとえ世界の果てでもついていってあげるよ」
アルテは、俺の涼風ローブの袖をぎゅっと、今度は絶対に離さないとばかりに強く握りしめた。
――だが、この時、俺たちはまだ知らなかった。
俺が本気で家臣と領民を守るために用意したその「雇用保障の特約書類」が、明日、とんでもない大惨事を引き起こすことになる事を……。
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