第三十六話:表はもやし、裏は獅子
「それじゃあ、私はこれで失礼するわ」
セシリアはどこか満足げな、それでいて「私は貴方のすべてを理解している」と言いたげな微笑みを浮かべ、優雅に一礼して執務室を去っていった。
カツ、カツ、と響く彼女の軍靴の音が完全に廊下の向こうへ消え去るまで、俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。
(……諦めないって、何をだよ。俺はマジのガチで隠居したいだけなんだけど!?)
背中に冷たい汗が流れる。
あいつのあの目は、士官学校時代、俺が「トイレに行きたいだけ」で満点を取ったあの試験の直後と同じ目だ。つまり、何かしらの致命的なバグが彼女の頭の中で発生している。
だが、俺がそのバグの正体について深く考察を巡らせる時間は与えられなかった。
バンッ!!
「……行ったね、帝都の魔女」
「ライン、今すぐ白状しなよ。あの女と二人きりで、一体どんなスケベなことしてたの?」
地獄の底から響くような声とともに、扉を蹴破らんばかりの勢いでアルテとニナが戻ってきた。その背後には、なぜか巨大な干し肉を齧りながら「ムムッ? 修羅場かっ?」とワクワクした顔をしているレイラまでいる。
「だから、ただの学校の同期だって言ってるだろ! 邪推をするな! てかスケベってなんだ!」
「邪推じゃない!」
アルテが珍しく声を荒らげ、抱えていた出納帳を机に叩きつけた。
「あのセシリアという武官、部屋から出てきたとき、まるで『悲劇のヒーローを支える覚悟を決めたヒロイン』みたいな顔をしてたよ! 完全にラインに脳を焼かれてる! 私という優秀なパートナーがありながら、帝都の女にうつつを抜かすなんて!」
「ぱぁとなぁ?ちょっとちぃねえ、さらっと何言ってんの? ……でも、お兄ちゃん。あのお姉さん、目が完全に『恋する乙女』のそれだったよ? ニナ、お兄ちゃんが遠いところに行っちゃいそうで夜しか眠れない」
「お前いつも爆睡してるだろ!」
ギャーギャーと詰め寄る身内たち。
セシリアの勘違いも怖いが、こいつらの謎の被害妄想も同じくらい胃に悪い。
俺はこめかみを痛烈に押さえながら、大声を張り上げた。
「お前ら落ち着け! そもそも、俺が軍務局に送った『請願書』は受理されたんだし、俺は隠居の身になるんだ! あいつが何を企んでいようが、帝国が俺の領地と財産を没収してくれれば、すべては円満に解決するんだよ!」
そうだ。もはや帝国のお偉方は、俺の涙ながらの「全部あげるから命だけは助けてください」というメッセージを受け取っている。
今頃は帝都で、「オルティジアの小倅がビビって領地を差し出してきたぞ、ハハハ!」と高笑いしているに違いない。
それでいい。
無能だと笑われようが、安全な生活が手に入るなら安いものだ。
――だが。
俺がそう自分に言い聞かせた、まさにその瞬間だった。
◇
「ラ、ライン様ぁぁぁーーーっ!!! 大変です、大変なことが起きました!!!」
悲鳴のような声を上げながら、執務室に転がり込んできたのは内政官のマジメ男、マルコだった。
普段は冷静沈着な彼が、髪を振り乱し、顔を真っ青にさせてガタガタと震えている。その手には、一枚の羊皮紙が握られていた。
「どうしたマルコ、落ち着け。帝都からの引き継ぎの連絡か?」
「そ、その、これはおそらく誤送信なのですが……帝都の軍務局からルートヴィヒ執政官に送られた魔導書簡が領主館に届きまして……軍務局上層部からのルートヴィヒ執政官の指示が少々……」
「え!?な、なんて書いてあるんだ!?」
俺は震えながらマルコの手から羊皮紙をひったくり、その内容に目を落とした。
――そこには、およそ正気を疑うような、帝国高官たちの『恐怖と戦慄に満ちた指示』が記録されていた。
——————————————————
軍務局甲達:帝軍務甲7455号
オルティジア辺境伯の処遇について(指示)
オルティジア辺境伯より送られた【領地および全財産の国庫返上請願書】を踏まえた同辺境伯の処遇については、下記のとおりとするので誤りのないようにされたい。
記
1 領地、財産について
(1) 領地
オルティジア辺境伯の…
(2)財産
ア 不動産
………
2…
3 オルティジア辺境伯の脅迫的言動への対処
(1)体制の確立
本国の軍備再編成と連携を……
——————————————————
相変わらず役所の文書って何が書いてあるのか分かりにくい。
つまりそこには、俺は「領地も財産もすべてくれてやる」って言ったのにもかかわらず、帝国はこれを曲解して、「帝国の法など、今のオルティジアの軍事力の前には無意味。いつでも力ずくで奪い返せる」という、事実上の【脅迫状】であると受け止められているという事。
さらに、現在、皇帝陛下および軍務局高官らは、俺のこの恐るべき告白に対し、有事の際には改めてオルティジア領の併合へ向けて動き出せるよう、体制の再構築を議論しているという事。
執政官には、領土引き継ぎを円滑に終了させ、早まった独立・挙兵だけは踏みとどまらせるようにと書いてあるみたいだ。
「……………………は?」
俺の口から、魂の抜けたような声が漏れた。
何度も、何度も、パチパチと瞬きをして羊皮紙を見直す。
だが、そこに書かれた「脅迫状」「震撼」「早まった独立・挙兵はさせるな」という不穏すぎる単語は、一切消えてくれない。
(なんで……? なんで「全部差し上げます」って懇願したのに、「いつでも力ずくで奪えるからな」っていうヤクザの脅迫に変換されてるの……!?)
「素晴らしいです、ライン様……っ!!」
絶望に白目を剥きかけた俺の横で、マルコが感極まったように涙を流して拳を握りしめていた。
「帝国が、あの傲慢な帝国の軍務局が、ライン様の一通の書簡だけで完全に恐怖し、パニックに陥っています! まさか、ただの請願書を心理戦のカードとして切るなんて……! 」
「……え、あ、いや、マルコ、これ……」
「ライン、やっぱり君は化け物だね」
アルテがフッと不敵に笑い、真紅の瞳を爛々と輝かせる。
「帝都の武官の女が警戒していた理由が分かったよ。君は最初から、帝都の上層部すべてを盤面の上で踊らせるつもりだったんだね……!」
「お兄ちゃんすごーい! よく分からないけど、帝国はビビってるんだよね?」
「うむっ! 難しい事はよく分からんが、要するに戦えば我らの勝利ということだなっ! 任せろライン殿!」
違う。
違うんだお前ら。
俺はただ、平和に、安全に、年金をもらってゴロゴロしたかっただけなんだ。
円滑な引き継ぎに全力で協力するだけなんだ…それなのに…
セシリアには「命懸けの大博打」と深読みされ、帝都の軍務局からは「脅迫状」と勘違いされ、身内からは「神の一手」と崇め奉られる。
押し寄せる勘違いの津波の前に、俺のささやかな「隠居計画」は、跡形もなく爆散していこうとしていた。
「だ、誰か……誰か俺の人生を、イージーモードに戻してくれぇぇぇ……っ!!」
夕暮れの領主館に、ラインの悲痛な悲鳴が虚しく響き渡るのだった。
今回は読んでいただきありがとうございました♪
このお話は毎週金曜日18時の更新を予定しておりますが、皆さまの応援のおかげで、執筆速度が上がっております!
ヘタレのライン共々、またのお越しをお待ちしております
このお話が気に入っていただけたら、ブックマーク、★で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!
今後とも宜しくお願いします!




