第三十四話:天敵は、青き波濤の彼方
大陸の中央に位置する広大なマルマラ湖。
そのエメラルドグリーンの美しい湖水を蹴立てて進むのは、帝国陸軍省の軍旗を掲げた最新鋭の戦列艦であった。
その豪華な甲濯の上で、今回の接収任務の全権を握る執政官――ルードヴィヒ・フォン・バウアー伯爵は、傲慢に鼻を鳴らしていた。
「ふん、オルティジア辺境伯領か。あのもやしっ子のラインが、ミスリルだの魔導兵だのを隠し持っているなどと……。どうせサラウのシャハールが、我らを使ってオルティジアを脅し、利権を掠め取ろうとした狂言に決まっている」
ふくよかな顎を撫でながら、ルードヴィヒは冷笑する。
彼にとって、今回の任務はただの「美味しい出張」だった。泣きついて領地を差し出してきた無能な少年から、剥ぎ取れるだけの財産を毟り取り、中央での自らの出世の足がかりにする――その程度の認識しか持っていなかったのだ。
だが、その背後に直立不動で控える真紅の髪の武官、セシリア・フォン・アルテンブルクは、険しい表情で湖面を見つめていた。
(ライン……あいつが本当に、帝国中央を脅迫するほどの化け物になったというの? もしそれが本当なら、私はあいつに何を見せられていたのよ……)
そんなセシリアの思考は、船の行く手に「それ」が現れた瞬間、完全に吹き飛んだ。
「――お、おい。あれは……何だ?」
ルードヴィヒの声が、引きつったように裏返る。
抜けるような青空の下、エメラルドの湖の向こうに姿を現したのは、眩いばかりの純白の石材で築かれた、巨大な白壁の城壁。
その城壁の内側には、美しいオレンジ色の屋根を持つ洗練された街並みが広がっているが、何より異常だったのは、港を取り囲むように点在する無数の小島だった。
「な、何なのだ、あの島々は……っ!?」
ルードヴィヒが驚愕に目を剥く。
湖上に浮かぶすべての小島には、天を突くような堅牢な灯台が築かれ、その最上部には、巨大な固定バリスタが配置されていた。
それらはすべて、一分の隙もなく外海へと照準を合わせており、それぞれの島は、軍隊の迅速な移動を可能に出来るよう、橋で連結されている。有事の際には橋を切り離し、独立した砲台として使うのだろうか。
ヒュオォォォ、と湖上を吹き抜ける強い風に、白壁の城壁から、これでもかと誇らしげに掲げられたオルティジアの『獅子の軍旗』が激しく、雄々しくはためいた。
「これが、西側諸国の猛攻から我ら帝国を守り続けてきた最強の盾……。」
ルードヴィヒの額から、ドッと冷や汗が噴き出す。
流石の海上防衛網、帝国の第一級要塞をも凌駕している。
島々を結ぶ橋は、どの角度から敵が来ても十字砲火を浴びせるための「キルゾーン」の配置に他ならない。
「実際この目で見るのははじめてだけど、これがラインが治める街……」
セシリアは碧眼を鋭く光らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
船は、その圧倒的な威容を誇る要塞港へと、吸い込まれるように接岸していく。
◇
港は、信じられないほどの活気と熱気に満ち溢れていた。
まもなく開催されるという『銀冠祭』の飾り付けが街中に施され、領民たちは皆、一様に生き生きとした表情で笑い合っている。
タラップが下ろされ、ルードヴィヒとセシリア、そして帝国の兵士たちが港へと足を踏み入れた。
そんな彼らを迎えたのは、豪奢な領主服に身を包み、この世の春と言わんばかりの満面の笑みを浮かべた――オルティジア辺境伯、ライン・オルティジアであった。
「執政官ルードヴィヒ伯爵閣下!帝都から遠路はるばるようこそお越しくださいました!」
俺は本気で嬉しかった。
執政官一行の顔色が悪いのが少し気になるが、まぁ、船酔いでもしたんだろう。辛いもんね。わかるよ。
それよりも、ついにこの面倒な領主仕事を国に引き渡せる、その喜びで胸がいっぱいだった。
(さあ伯爵! このクソ面倒な領地を早く引き取ってくれ! 俺を早く隠居させて、年金暮らしさせてくれ!!)
その輝かんばかりの笑顔と、一切の物怖じもしない堂々とした態度(※もちろんただのニート願望である)。
それを見たルードヴィヒは、
「これほどの要塞を背景にして、この余裕……! 我ら帝国軍など、いつでも返り討ちにできるという脅しか!」
と、恐怖で足が震え始めていた。
完璧な先制パンチを決めた(と帝国側が勝手に思い込んでいる)俺は、ふと、ルードヴィヒの背後に控える人物からの視線に気づいた。
白銀の甲冑のその人物は、身なりから武官に見える。
ハーフアップに結われた、燃えるような真紅の髪の美女
この人物は記憶の片隅にある。
士官学校時代に毎日毎日「また居眠りして!」「訓練から逃げるな!」と突っかかってきた、あの超ド級に口うるさかった天敵の姿が、目の前の人物と完全に重なった。
(――げぇっ!? な、なんでセシリアがあそこにいるんだよぉぉぉぉ!!!)
俺の心臓が恐怖で跳ね上がる。
よりによって、自分の「もやしっ子ぶり」を一番よく知っている天敵が、帝国の刺客として同行してきたのだ。
ここでヘタなことを言えば、隠居計画どころか、過去のサボり癖まで全部ルードヴィヒにチクられて年金が減額されるかもしれない。
(やばい、目は合わせるな! 気づかれてない、絶対に気づかれてない! 俺は今、威厳ある辺境伯なんだから、他人の空似ってことでスルーだ、スルー!!!)
一瞬目が合った後、俺は必死に、不自然なほど露骨に視線をキョロキョロと右斜め上へと逸らした。
しかし――その必死の現実逃避が、セシリアに気づかれないはずがなかった。
セシリアの碧眼が、鋭く細められる。
「――久しぶりに再会した同期の顔を見て、露骨に目を逸らすとは何事ですか?ライン辺境伯」
凛とした、だが確実に怒りの篭った声が港に響く。
一歩前に出たセシリアの、冷徹な美しさと圧倒的な威圧感を前に、俺は完全に硬直した。
こうして、俺の「穏便なクビ(年金隠居)計画」は、旧友との最悪の再会によって、初手から雲行きが怪しくなっていた。
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