第三十二話:若獅子の願いは、帝国を揺るがす
バルドゥア帝国の首都、帝都ヴァルハイト。
威容を誇る皇宮の北西に、帝国軍の中枢たる「軍務局」は位置する。
重厚な黒曜石で造られた軍部高官の執務室では、数人の貴族たちが、一枚の書状を前に眉をひそめていた。
「――サラウの僭主、シャハールからの密書、か」
低く冷徹な声を挙げたのは、辣腕として名高い高級将校であった。
書状に記されているのは、オルティジア辺境伯が領都レムの地下に、ミスリル鉱山と古代の魔導兵を秘匿し、密かに軍備を増強しているという衝撃的な内容だった。
「にわかには信じがたいな。オルティジアの現当主といえば、つい数ヶ月前までこの帝都で十三年間も人質生活を送っていた、あのライン・オルティジアだろう? 牙を抜かれた従順なもやしっ子、事勿れ主義の極致と言われた無能だぞ」
「左様。サラウの狐めは、我が帝国と西側諸国の争いに乗じて漁夫の利を得ようとしている狡猾な男。あらぬ流言飛語で帝国内に内乱を起こさせ、我らを弱体化させようという見え透いた罠ではないのか?」
高官たちは鼻で笑う。
彼らにとって、ライン・オルティジアという少年は「完璧な空気」であり、脅威の対象などでは到底なかった。多少士官学校での成績が良かったとはいえ、無能な人質が領地に帰った途端に帝国を脅かす軍備を整えるなど、御伽噺としても出来が悪い。
「しかし……もしこれが真であるならば、オルティジアを取り潰すいい口実となるのだがな」
軍事・経済の要所であるオルティジア辺境伯領を併合し、帝国の完全な直轄地にすべしという声は根強く、軍務局内にもその支持者は少なくなかった。
現に帝国はオルティジアに対して重税を課し、定期的に査察官を送り込むことで、彼らの不要な力を削ぎ、帝国に歯向かう牙を事前に折ろうとしてきたのだ。
そして、その冷笑が執務室に満ちた、まさにその瞬間だった。
チリチリと、卓上に置かれた帝国軍専用の『緊急魔導書簡受信用魔方陣』が、禍々しい赤い光を放って脈動し始めた。
「……む? 辺境軍管区からの緊急書簡か?」
高官の一人が、魔法の術式によって転送されてきたばかりの羊皮紙を手に取る。差出人の名を見た瞬間、その男の片眉が跳ね上がった。
「差出人は……ライン・オルティジア。あの小倅から、軍務局へ直接の請願書だと?」
「ふん、無能めが何事だ。開けてみよ」
促され、高官が封を切り、書簡に目を通す。
その中身は、ラインが涙目で書き殴った、『オルティジア領の全権利の国庫への返上、および全財産の割譲を担保に、領民、家臣の安堵を求める請願書』であった。
――それを読んだ帝国高官たちの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「な……ッ!? こ、これは……っ!!」
「どうした、何が書かれている!?」
「お、おい、見ろ……! ライン・オルティジアは、自ら『領地と鉱山、それに付随するすべての施設を国庫に返上する』と申し出ておる……!」
静まり返る執務室。だが、その沈黙は恐怖を伴った「超深読み」によって一気に爆発した。
「バカな……! ということは、サラウからの情報は……本当だったということか!?」
「そういうことだ! あやつ、ミスリル鉱山と魔導兵の存在が帝国に露見することを見越して、あえて自分から『国庫に返上する』と申し出てきたのだ!」
「なんという恐るべき男だ……! 自ら領地を差し出す姿勢を見せることで、我ら帝国内のオルティジア併合推進派に『併合の大義名分』を奪わせず、なおかつ国法に則ってオルティジアの安全を帝国そのものに保障させようという肚か!」
「それだけではないぞ! 書面には『譲渡する代わりにこれらすべてを不問とすること、地方での細々とした年金暮らしを所望する』とある! つまり、帝国を自らの『財布』代わりに使い、悠々と安全圏からこちらの出方を生温かく見物してやると、そう言っているのだ!!」
高官たちはガタガタと椅子を鳴らし、ひっくり返らんばかりに震撼した。ラインの必死の「ごめんねテヘペロ書類」は、帝国の怪物たちによって、『帝国の法を逆手に取り、併合推進派の鼻を明かす――湖上の若獅子の絶対不敵な宣戦布告』へと完全に翻訳されてしまったのである。
「おのれ、ライン・オルティジア……! 人質時代のもやしっ子という姿すら、我らを欺くための擬態だったというのか……!」
「これほどの化け物を、我らは十三年間も野放しにしていたというのか! 今すぐ皇帝陛下へ奏上せねば! 御前会議を招集せよ!!」
◇
その日の午後。帝都ヴァルハイトの中央に位置する皇宮にて、緊急の御前会議が招集されていた。
玉座に深く腰掛けるのは、バルドゥア帝国を統べる絶対の帝王、アドルフ八世。その鋭い眼光の前に、軍務局の高官たちが平伏し、必死の形相で声を張り上げていた。
「――陛下! この請願書、断じてただの領地返納と受け止めてはなりませぬ! これは、あの狡猾なる少年が仕掛けた、我が帝国への高度な心理戦に他なりませぬ!」
皇帝は手渡された羊皮紙を無表情に、だが冷徹に読み進めていく。
「……ミスリル鉱山と魔導兵の存在を自ら明かし、そのすべてを国庫に返上する、か。これほどの莫大な利権をあっさりと差し出すとはな」
「御意にございます! これこそが奴の罠! 我らが武力介入の準備を進めることを見越し、先手を打って大義名分を握り潰したのです! 『私はすべてを国に捧げる忠臣である、さあ、これでも私を攻めるか?』と、そう帝国を嘲笑っているのです!」
併合推進派の伯爵が、悔しげに拳を握りしめて床を叩く。
「奴はすでに、査察団を罠に嵌め、バルカ公国が裏で操ると噂の湖賊をも一瞬で掃討した化け物。この請願書は、『これ以上我が領を探るなら、いつでもこのミスリルと魔導兵を以て、帝国に戦争を仕掛けられる』という脅迫に他なりませぬ!」
居並ぶ貴族たちが恐怖する中、皇帝は静かに請願書を卓へと置いた。その唇が、冷酷な弧を描く。
「面白い。十三年間、我が眼の前で無能の仮面を被り続けていたもやしっ子が、そこまでの怪物を演じてみせるか。……ならば、こちらも国法に則って、奴の『望み通り』にしてやろう」
「と、仰いますと……?」
「辺境伯からの正式な請願だ。オルティジア領を直轄地として接収するため、全権を委任した『執政官』を派遣する。奴の言う通り、領地とミスリルはすべて帝国が貰い受ける。その代わり――」
皇帝の目が、昏い光を帯びた。
「執政官の任務は、オルティジアの接収だけではない。ライン・オルティジアに完全な首輪を嵌め、二度と牙を剥けぬようその戦力を解体することだ。派遣する執政官には、軍務局次官のルードヴィヒ伯爵を以てその任に宛てよ」
「ははっ! ルードヴィヒ伯であれば、いかにラインが怪物とて、毟れるだけの羽を毟り取り、完膚なきまでに追い詰めるでしょう!」
「高度な知略を持つ相手だ、油断はならぬ。――その執政官を護衛・補佐する武官として、彼女を同行させよ」
皇帝の視線が、謁見の間の隅に直立不動の姿勢で控えていた、一人の美しい女性騎士へと向けられた。
白銀の軽装甲冑に身を包み、腰に一振りの細剣を帯びている。
燃えるような真紅の髪をハーフアップに結い上げ、意志の強そうな碧眼を輝ませている彼女は、セシリア・フォン・アルテンブルク。
帝国騎士団の若き精鋭であり――かつて、帝都の士官学校でラインとともに学んだ同期であった。
「セシリア。貴官はライン・オルティジアと旧知の仲であったな」
「はっ……! オルティジア辺境伯とは、士官学校の同期にございます」
セシリアは一歩前に出ると、流麗な動作で敬礼した。凛としたその表情。だが、その胸の内は激しく乱高下していた。
(ライン……。あいつ、領地に帰ったと思ったら、いつの間にそんな恐ろしい大悪党になってるのよ……!?)
彼女の記憶にあるラインは、いつも訓練から逃げ回り、座学の時間は居眠りばかりしているくせに、なぜか成績だけは抜群に良かった、どこか掴みどころのない男だ。
士官学校を中退して領地へ帰る時だって、「セシリアが俺の代わりに領主やってよぉ」とヘラヘラ笑っていたのだ。
(湖賊を掃討して、ミスリル製の武器を密造して、帝国中央を請願書一枚で脅迫する覇王ですって……!? 嘘よ、信じられないわ。でも、もしそれが本当だとしたら……あいつ、私やみんなの前でまで『無能の演技』をしてたって言うの!?)
セシリアの白皙の頬が、怒りと別の感情で朱に染まる。
(私を騙し続けていたのね、ライン……! いいわ、今回の任務、私が絶対に同行してあいつの『本性』を暴いてやるんだから! ……それに、あの強欲なルードヴィヒ伯爵にあいつが理不尽にいじめられるのは……その、同期としてちょっと見てられないしね……)
「セシリアよ。ラインが本当に帝国に牙を剥く化け物か、それともただの哀れな道化か、お前の目で確かめてまいれ」
「御意――! このセシリア・フォン・アルテンブルク、命に代えましても!」
こうして、強欲な伯爵と、ラインの旧知の武官を擁する帝国執政官の部隊が、オルティジアへと動き出すのだった。
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