第三十話:忠義は、骨身に染みて
レイラのフランジメイスが空を切り裂き、竜をも昏倒させる必殺の一撃がカシムの脳天めがけて真っ直ぐに振り下ろされる――。
死を覚悟し、カシムがぎゅっと目を閉じた、まさにその刹那だった。
レイラの右腕が、ピキリ……と奇妙な悲鳴を上げた。
(――ッ!? しまった! これは先日のッ……!)
凄絶な激痛。
それは、先日カシムら砂眼と交戦した際、カシムの一撃によって抉られた右腕の傷が、今の激しい戦闘の負荷に耐えかねて完全に弾けたものだった。
いかにレイラが超人じみた体力を誇っているとて、所詮は生身の人間。一瞬だけ、本当に一瞬だけ、痛みのあまりにレイラの右腕の握力が緩んだ。
そのわずかな狂いが、必殺の戦棍の軌道を完全に逸らす。
ズゴォォォォォンッ!!!
カシムの耳元を、鼓膜が破れんばかりの爆音が通り抜けた。
振り下ろされたフランジメイスは、カシムの頭を僅かに掠め、背後の石壁へと直撃。分厚く強固な領主館の外壁がいとも簡単に粉砕され、激しい爆風とともに大量の石礫と土煙が夜の庭へと舞い上がった。
(……外した!? 今しかない!)
カシムは目を開いた。目の前では、レイラが顔をしかめ、右腕を押さえて僅かに体勢を崩している。
歴戦の密偵であるカシムが、この千載一遇の好機を逃すはずがなかった。
「ハァァァッ!」
カシムは残された左腕で、懐からサラウ特製の煙幕弾を地面へと叩きつけた。
直後、ボンッ!という破裂音とともに、ただの煙ではない、魔力を遮断する漆黒の濃霧が爆発的に広がり、裏庭のすべてを瞬時に包み込む。
「むっ!? 小賢しいマネを!」
視界を奪われたレイラが、勘だけでメイスを横一閃に薙ぎ払うが、そこにはもう、カシムの気配はなかった。
獣人特有のしなやかな跳躍力と、闇に溶ける隠密の技。カシムは煙の壁を蹴り、領主館の屋根へと音もなく飛び上がっていた。
(……流石はオルティジアの処刑人、私の逃げ道まで完全に読まれていたとはな。奴がバランスを崩さなければ、私は確実に死んでいた……!)
カシムは肺腑に溜まった血を吐き捨て、霧の向こうを睨みつける。
「だが、この首はまだくれてやらん。……また会おう」
そう言い残すと、彼は再び闇へと融けるように姿を消した。
◇
「何の騒ぎだ!? ん? レイラ! レイラか? どうした何があった? 無事か!?」
煙幕が夜風に流され、薄くなってきた頃。
ただ事ではない爆音と地響きを聞きつけた俺は、護衛を従え、パジャマ姿のまま裏庭へと飛び込んだ。
そこで俺が見たのは、無残に砕け散った領主館の外壁と――その瓦礫の中で、右腕を痛そうに抱えてうずくまるレイラの姿だった。
額に脂汗を浮かべ、呼吸を荒くしている。
「お前、その腕……」
俺は息を呑み、駆け寄って彼女の前に膝をついた。
「また、無茶をしたのか」
レイラは痛々しく顔を歪めながらも、無理に口角を上げた。
「これはこれはライン殿! 少々みっともないところを見せてしまったな! また逃げられてしまったわ。ハハハ!」
その乾いた笑いとは裏腹に、レイラの額には苦悶の脂汗が滲んでいる。
「怪我を……しているのか?」
俺の焦燥を帯びた声に、レイラは痛みを堪えながら、いつも通りの気高く、そしてどこか誇らしげな微笑みを浮かべてみせた。
「なに、先日の賊との戦いで少々。しかし! 心配は御無用!この程度の傷、かすり傷だ! またしても賊は取り逃してしまったが、私はライン殿の騎士。主の命を脅かす不届き者を排するは当然の務め。ライン殿のために戦い、ライン殿のために死するは、このレイラ、本望だ! ハハハハハ!」
我が主のために、命を捧げる。
騎士としてこれ以上ないほどに美しく、気高い忠誠の言葉。
――パァンッ!!!
静まり返った夜の裏庭に、乾いた、高い音が響き渡った。
「え……?」
レイラは、目を見開いたまま固まった。
自分の頬を襲った、微かな熱と衝撃。
俺は、右手を突き出したまま――怒りと、今にも泣き出しそうな悔しさに顔を歪めて、レイラを真っ直ぐに見つめていた。
◇
「ライン……殿……?」
レイラは信じられないといった様子で、自分の頬に手を当て、呆然と俺を見つめていた。
叩かれた痛みなどない。
ラインの腕力など、彼女の強靭な肉体からすれば、そよ風に撫でられたようなものだ。
だが......。
初めて主から向けられた、激しい「感情の爆発」に、彼女の心は激しく動揺していた。
「ふざけるな……っ! 何が本望だ!」
俺は立ち上がり、怒りに震える声で怒鳴りつけた。
「お前はどれだけ無茶をすれば気が済むんだ! もし、さっきの賊がお前の命を奪っていたら、俺はどうすればいいんだよ!?」
「私は……っ、私は騎士として、当然の義務を果たしようとしたまでだ! ライン殿のために命を賭すことこそが、オルティジア騎士の誇り――」
「そんな誇り、クソ食らえだ!!」
俺の烈火のごとき一喝に、レイラがビクリと肩を揺らし、言葉を失う。
俺は一歩踏み込み、レイラの強靭な、けれど今はひどく傷ついている両肩をガシッと掴んだ。そして、怯えを見せるその瞳を、正面から真っ直ぐに見据える。
「ライン・オルティジア辺境伯が、レイラ・オルティジア騎士団副長に命ずる」
「ハッ……」
「――俺のために死ぬな。俺のために血を流すな。命令だ、絶対に守れ」
「なっ、そんな無茶な主命があるか! 騎士に戦うなと言うのかっ!?」
反論しようとするレイラの言葉を遮るように、俺は掴んだ肩にギュッと力を込め、少し声を落として、胸の奥の本音を絞り出した。
「戦わなくていい。手柄なんていらない。世界がどうなろうと、俺の知ったことか……! ――姉さん。貴女は俺の部下じゃない。俺の、大事な家族だ。だから……お願いだから、ずっと生きて俺の側にいてくれ……っ!」
姉さん――。
領主と騎士という垣根を越えた、血よりも濃い絆の呼び名。
「あ……、あ……」
その言葉が、レイラの頑なな心の鎧を木端微塵に粉砕した。
幼少期から、戦うこと、傷つくこと、そして主のために死ぬことこそが自分の唯一の価値だと教え込まれてきた彼女の目から、堪えきれなくなった涙がポロポロと溢れ出し、褐色の頬を濡らしていく。
「う……うぉぉぉぉぉ!! ラインどのぉぉぉぉごめんなさいぃぃぉぉぉぉ!!」
次の瞬間、レイラは子供のように大号泣しながら、もの凄い勢いで俺の胸へと飛び込んできた。
……うん、ここまでは最高に感動的なシーンだった。少しは可愛いところがあるじゃないか、なんて温かい気持ちで頭を撫でようとしたんだ。
だが、忘れていた。
彼女は感動の極みにいると同時に、人間の限界を遥かに超越したフィジカルの持ち主。
その膂力がオーガ並みであることを。
ミシミシミシ……!!!
不穏すぎる破壊音が俺の肉体から鳴り響く。
「あばばばばばばばば!?!? 力!!! 力加減んんんん!!! アバラ! アバラがミシミシ言ってる! 折れる! ガチで折れる音が今脳内に直接届いた!!」
「らいんどのぉぉぉぉ! 私は、私はァァァ!!猛烈にぃ!感動しているうぅぅぅ!」
「レイラ……! ちょ、姉さん外して! それ抱擁じゃなくてギロチンチョークになってるから! 腕のロックを外してぇぇぇ! 死ぬ死ぬ死ぬゥゥゥゥ!!!」
「おおー!我が愛しの義弟よぉぉぉ!」
激痛に天を仰ぐと、皮肉なほど月が綺麗な晩だった。夜の領主館の裏庭には、レイラの感動の雄叫びと、俺の命がけの悲鳴が虚しく木霊するのだった。
◇
翌朝。領主館の応接室。
俺はアバラにガチガチに包帯を巻かれ、少しでも動くと激痛が走る体で、ソファに深く腰掛けていた。
その対面には、昨夜大号泣したせいで少し目が腫れているものの、どこか憑き物が落ちたようにスッキリとした表情のレイラ。そして、ギルバートとマルコが深刻な顔で控えている。
「――それで、結局、昨夜の賊の正体は分からずじまいか」
「はっ……面目次第もございません」
マルコが悔しげに頭を下げた。
「地下水路の捜索を行いましたが、現場にはいくつかの足跡と血痕が残されているのみで、奴らのアジトらしきものは発見できませんでした。……ただ」
「ただ、何だ?」
「我が領の魔導兵の包囲を潜り抜け、あのレイラ卿と正面から渡り合うほどの手練れです。ギルバート殿とも話し合いましたが、とてもただの『コソ泥』の類とは思えません」
マルコの言葉に、俺の背筋にゾクリと嫌な汗が伝った。
おいおいおい、ちょっと待て。ただの泥棒じゃない? 魔導兵を躱し、あの最強のレイラと戦って生き延びた……?
(かなりの手練れ……まさか裏で帝国が……)
頭の中でパズルのピースが、最悪の形で組み上がっていく。冷や汗が止まらない。恐怖のあまりアバラの痛みなんて一瞬で吹き飛んだ。
(待て待て待て。賊が魔導兵と戦ったってことは、魔導兵に手伝わせて絶賛稼働中の『ミスリル地下鉱山』と、『ミスリルの精製工房』……全部見られたってことじゃねえか!!)
希少金属の隠し鉱山に、武器の密造。バレたら一発で「国家転覆を狙う謀反人」としてお家取り潰し、一族郎党ギロチン台直行レベルの特大タブーである。
(もしあれが帝国の密偵だったら? 『オルティジア辺境伯、ミスリルを密使して武器を量産、謀反の疑いあり!』ってなって、帝国軍がこのレムを更地にしにやってくるだろう。百歩譲って他国のスパイだとしても、ミスリルの存在が噂になれば、東西の両大国がこの街を奪い合いに血みどろの戦争を始めるぞ……!?)
どっちに転んでも、レムの平穏は本日をもって終了。俺の「のんびりと地方領主として無難に一生をサボり倒す」という夢も完全終了である。
終わった。完全に詰んだ。
なんとか……今からでも間に合う最善の回避策はないか? 指摘を受ける前に、あっさり帝国に自首してしまうか? いや、ワンチャンただのコソ泥だって線も捨てきれないし、もしそうだったら自分からヤバい情報を漏らす藪蛇になっちまう……それだったら黙っていた方がいいのか……。
様々な破滅ルートが脳内を高速でぐるぐる巡る。
「ライン殿……? 顔色が悪いようですが、やはりアバラが……」
「いや、大丈夫だレイラ。それより……みんな、よく聞いてくれ」
俺はガタガタと震える膝を必死にクッションで抑え、限界まで悲壮な覚悟を張り詰めた表情(に周りからは見える顔)で、一同を見回した。
その今にも殉職しそうなほど緊迫した俺の様子に、ギルバートたちもゴクリと唾を飲み、背筋を伸ばす。
「この件、帝国にバレる前に――先にこっちから帝国に全部ゲロしてごめんなさいしようと思う。領地を返納しよう。俺は責任をとって隠居する」
「「「……は?」」」
その場に居合わせた者すべてが、揃って間の抜けた声を上げた。
「いやー、実はレムの地下でぇ、ミスリルの鉱脈が見つかっちゃいましてぇ、すいません! ついでにミスリル製の武器の工房もありますが、これ全部帝国のものです! 領地も全財産も全部返上しますんで、俺のことはどうか不問にして、地方で細々と年金暮らしさせてください! ごめんねテヘペロって書類を今すぐ書く! バレて処刑される前に、全部自分から差し出して安全圏へ逃げるんだよ!!」
そう、結局逃げるが勝ちなのだ。
没収されて殺されるくらいなら、最初から全部貢ぎ物として差し出して、自分だけ安全な隠居生活に逃げ込むのが一番賢い!
「何言ってるの、ライン」
突然、耳元で冷たいアルテの囁きが響き、俺はゾクゾクと背中を震わせた。
「魔導兵が見つかった時、レオン卿が謝ろうって言ったよね?君、何て言ったか覚えてないの?」
「んなっ!?」
確かに俺は、レムの地下で魔導兵が見つかった時には、騎士団長レオンの「とにかく謝る」という作戦を『そんなことをしたら土下座の姿勢のまま首を刎ねられる』と却下していた。
「うるせー! あの時と今とじゃ状況のヤバさが違うの!」
逆ギレ気味に放ったその一言に、家臣たちの目がギラリと怪しく光った。
「な、なるほど……! あえて自ら領地と鉱山を国庫に返上すると申し出ることで、オルティジアの安全を中央に確実に保障させる……。先手を打って帝国を外交的に完全制圧する布石ですな!?」
「流石はライン殿! 敵のさらに裏をかく、なんと深謀遠慮に満ちた大胆不敵な智略……!」
ギルバートとマルコが、勝手に都合よく目を輝かせて感動に打ち震え始めた。え、ちょっと待って何言ってるの君たち。
「よし、そうと決まれば大至急『領地返納および全財産割譲の請願書』を作成するぞ! 急げ! 我が領の秘密が帝国の耳に入る前に中央へ送りつけるんだ!」
マルコたちが
「ハッ! これぞオルティジアの未来を救う神の一手!」
と、恐ろしいほどの熱量で部屋を飛び出していく。それを見送りながら、俺は、
「まぁ解釈はどうあれ、これでやっと領主なんか辞めて年金暮らしができる」
と、心の底から安堵のため息を吐くのだった。
――まさか、この恐怖から生まれた必死の請願書が、帝国中央を大パニックに陥れる最悪の引き金になるとは、この時の俺は知る由もなかった。
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