第十五話:若獅子の盾として
子供の頃から、あの人は理不尽の塊だった。
『らいん! そんなことでじきりょうしゅがつとまるものか! たんれんあるのみだぞ!』
それが、幼い頃のレイラの口癖だった。
幼少期の俺にとって、このレイラは完全に『恐怖の象徴』だった。
彼女は「たんれん」と称しては、まだ非力だった俺を文字通りタコ殴りにし、泣くまで容赦なく叩きのめした。
それだけではない。
無理やり高い木に登らされた挙句、俺一人を木の上に置き去りにして、下からケラケラと笑いながら去っていったり、悪戯がバレて穴の中に首まで埋められたこともあった。兎に角、彼女の暴虐ぶりは枚挙にいとまがない。
思い出すだけでも身体のあちこちが痛むような、地獄の幼少期。
けれど――それでも、彼女は俺にとっての強さの象徴であり、どこか一種、憧れのような感情を抱いていた。帝都の孤独な人質時代を折れずに乗り越えられたのも、今思えばレイラの「たんれん」の賜物だったのかもしれない。
だから……。
「全軍に指令を出せ。……レイラに指一本でも触れた奴は、肉片の一片すら湖に残すな。殺せ」
俺が冷徹に告げたその瞬間、凍りついていた戦場が、一気に沸騰した。
「御意ィァアアアアッッ!!!」
大気を震わせる咆哮と共に、真っ先に飛び出したのは騎士団長レオンだった。
ラインの覇気に圧され、左右に割れた湖賊たちの隙間を、鋼鉄の巨躯が文字通り弾丸となって突き抜ける。
「邪魔だぁあああッ!」
レオンが振るう大剣の一撃が、レイラにクロスボウを向けていた湖賊数人を、防具ごとまとめて吹き飛ばした。
「ち、チクショーッ! お前ら怯むな、撃てぇ! 撃ち殺せぇ!」
我に返った湖賊たちが動揺しながらも引き金を引く。だが、放たれた無数の矢は、虚しく地面に刺さるのみ。さらに砦の正面からは、ドレイクが率いる本隊が怒涛の勢いで押し寄せ、砦を守る湖賊の部隊を完全に蹂躙していった。
「ラ、ライン殿……」
包囲を切り裂かれ、完全に自由になったレイラが、呆然と俺を見つめていた。
その前を静かに通り過ぎ、俺は剣を構えたまま、腰を抜かして這いつくばっている湖賊の首領へと歩み寄る。
「ひ、ひぃぃぃっ! くるな、くるなぁあ!」
「なんだ!? 金か!? いいいいいくらだっ!?」
大柄で髭面の強面な首領は、巨体をガタガタと震わせながら、必死に後退りしていた。さっきまでの威勢はどこへやら、大粒の涙と鼻水を流して、実に見事に狼狽している。
「我が水域から手を引け。さもなくば……」
俺が冷たく言い放つと、首領は「ひぇっ!」と短い悲鳴をあげた。
「わわわわ悪かった! 悪かったから見逃してくれ! 俺はどうなっても構わねえ! 頼むから子分たちの命だけは助けてやってくれぇ!」
こんな状況でも真っ先に部下の命乞いをするあたり、根っからの悪党ではなさそうだ。
俺は少しだけ威圧感を緩め、剣を鞘へと収めた。
「……これ以上、俺の仲間に不快な真似をするなら、次はこの湖ごと消し飛ばすぞ。さっさと失せろ」
俺が冷たく告げると、首領は一瞬呆然とした後、激しく首を縦に振った。
「わ、分かった! わかったから! もうこれ以上はやめてくれえ!!」
首領は脱兎のごとく、砦の秘密通路らしき隠し扉へとドタバタと猛スピードで逃げ込んでいく。――が、途中でひょっこりと顔を出し、
「今日のところはこれくらいで勘弁しといてやらぁ! 覚えとれよオルティジアのブタどもぉ!!!」
と、どこか抜けた大声を張り上げながら、今度こそ風のように逃げて行った。そのあまりに潔い引き際と人間臭さに、追撃しようとしたドレイクも「あ、呆れた野郎だ……」と苦笑いして剣を収める。
首領が逃げ出し、主力を失った残りの湖賊どもも一斉に武器を捨てて降伏した。
こうして、湖賊が拠点にしていた要塞島は、わずか数刻の間にオルティジアの手によって完全に掌握されたのだった。
◇
戦後処理が始まり、砦の広場に静寂が戻る。
張り詰めていた緊張の糸が切れた瞬間、俺の身体を凄まじい疲労感と、ぶり返してきた強烈な船酔いの残滓が襲った。
「う、うぷっ……限界だ……。早く……早く揺れない硬いベッドに……」
さっきまでの覇気はどこへやら、俺はその場にヘナヘナと座り込み、またしても白目を剥き始めた。完全にいつものヘタレラインへの逆戻りである。
「……フッ」
そんな俺の前に、一人の影が立った。
見上げれば、返り血を浴びた露出度の高い軽装のまま、メイスを肩に担いだレイラが立っていた。
「ムムッ?ライン殿。さっきの威勢はどうした? 『たんれん』が足りぬのではないかな?」
「レイラ……。もういじめないでくれ……俺はただ、揺れない場所に行きたいだけで……」
幼少期のトラウマが蘇り、思わず身を縮める俺。
だが、降ってくるはずの拳は、いつまで経っても来なかった。
代わりに、俺の頭の上に、ぽんと温かい手が置かれた。
「……?」
レイラは、優しく、本当に愛おしむように、俺の乱れた髪を大きな手でゆっくりと撫で始めた。
「いつまでも、泣き虫のもやしっ子だと思っていたが……。いつの間にか、随分と逞しく成長していたのだな」
そう言って、彼女はフッと柔らかく、見たこともないような優しい笑みを浮かべたのだ。
いつもは屈託なく豪快に笑う彼女の、信じられないほど慈愛に満ちた、聖母のような微笑み。
「っ……」
レイラが見せたそのギャップに、俺の心臓がどくん、と不自然に大きく跳ね上がる。
「今回の事は貸しにしておく! 次からは、私がライン殿の盾となろうではないか!」
彼女はそう呟くと、今度はいつもの屈託ない笑を浮かべ、歩き去っていった。
残された俺は、撫でられた頭を押さえたまま、しばらくの間、真っ赤になった顔を両手で隠すしかなかった――。
◇
「……ライン、レイラ姉さんと仲良さそう。」
アルテは一人、少し離れた物陰からその一部始終をじっと見つめていた。
感情の読めないジト目に、不満げにぷくっと膨らんだ柔らかそうな頬。
ぎゅっと握りしめられた彼女の小さな拳は、微かに震えていた。
「…………負けないから」
ぽつりと溢したその呟きは、夜の湖上の波音にかき消されて消えた。
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