第十四話:戦棍は、絶壁を駆け下りる
――マルマラ湖の最奥、濃霧に閉ざされた孤島。
地図にも載らないそこは、湖賊どもが西のバルカ公国から密輸した資材を注ぎ込み、要塞化した天然の砦だった。
砦正面には強固な防壁と、無数のバリスタが配置された砲台。まともに砦の正面の海域から突撃すれば、精強なオルティジアの軍艦といえども蜂の巣にされ、湖の藻屑となるのは火を見るより明らかだった。
「う、うぷっ……おのれ……。何が要塞島だ、ふざけるな……。こんな外洋並みに荒れる場所に砦なんて作りやがって……!」
軍艦の最上甲板で、俺はもはや胃液すら枯れ果てた状態で白目を剥いていた。
一刻も早く、1秒でも早く、この地獄の揺り籠から脱出して、硬い大地に足をつきたかった。
「閣下、砦正面の防御は硬く、一筋縄では行きませぬな。夜陰に乗じて側面から上陸を試みるべきかと」
騎士団長レオンが、甲冑の擦れる音を響かせながら眉をひそめる。だが、その程度の戦術は敵も織り込み済みだろう。
「……あそこ」
俺は、震える指先で砦の「背面」を指差した。
そこは、傾斜八十度を超える切り立った垂直の断崖絶壁だった。波が激しく岩礁に砕け散り、とてもではないが船を接岸できる場所ではない。だが、だからこそ、あの場所だけは敵の見張りも、篝火の光も一切なかった。
「あそこの、岩の隙間に……小舟を無理やり……乗り捨ててでもいいから……俺を降ろせ……!」
あそこなら、風が遮られて揺れが少ない。死ぬ、本当に三半規管が爆発して死ぬ……!!
涙目で懇願する俺。とにかく船の揺れが少ない絶壁の影に逃げ込みたかった。ただそれだけの、極限状態のヘタレ発言だった。
「……なっ!?」
レオンが息を呑んだ。その厳格な顔が、驚愕に歪んでいく。
(まさかあの険山を、重装兵を率いて駆け下りろと仰るのか……!? 確かに敵は断崖を絶対の安全地帯と過信し、防備を皆無にしている。つまりは正面の艦隊は陽動! わずかな兵で敵の背後を突くと仰るか……!)
「なんという苛烈な軍略……! 敵の心理の隙を完璧に突いている! 応、このレオン、閣下の御覚悟、魂に刻みましたぞ!!」
「いや、俺の覚悟じゃなくて胃袋の限界――」
「全軍、静粛に!! 閣下の命により、我が騎士団はこれより別動隊を編成、島の背面、あの断崖絶壁より敵に奇襲をかける! 奇襲部隊は馬の蹄に布を巻け! 鎧の鳴きを抑えよ!」
レオンの鋼のような声が、隠密の潜入命令となって響き渡る。
もはや俺の制止の声など、誰も聞いてはいなかった。
◇
数十分後。俺たちは激しい波に揉まれながらも、絶壁の麓のわずかな岩場に小舟を接岸することに成功した。
地に足がついた瞬間、俺は四つん這いになって泥土を這った。揺れない。それだけで涙が出るほど感動した。
「ライン、よくそんな這うような姿勢で足場を確かめられるね。流石だよ。……でも、ここからが本番だからね」
隣にいたアルテが、真紅の瞳を鋭く光らせながら俺の制服の裾をきゅっと掴む。
「ふっ、面白い。これほどの絶壁、武者震いが止まらんぞ、ライン殿!」
背中に身の丈ほどもあるメイスを担いだレイラが、獰猛な肉食獣の笑みを浮かべた。
彼女の服装は、重装甲の騎士たちとは一線を画している。太ももや腹筋を惜しげもなく露出させ、防御力を完全に無視して「機動性」に特化させたかのような異様な軽装。鍛え上げられたしなやかな肢体が、闇の中で妖しく光っていた。
(馬鹿なのか? 露出狂なのか? 流れ矢一本で死ぬぞと内心で頭を抱える俺を置き去りにして――)
「オルティジア騎士団、私に続けぇーーーッ! 敵の度肝を抜いてやるぞ!」
レイラが先頭を切り、信じられない跳躍力で岩肌を蹴り上げた。
それに続くのは、死を恐れぬオルティジアの精鋭二十名。馬を捨て、文字通り壁を「駆け下りる」かのような速度で、上方の砦へと肉薄していく。
「な、何事だ!? 背後の断崖から影が――」
「オラァアアアッ!!」
砦の裏口を見張っていた湖賊の叫びは、レイラが放ったメイスの強烈な一撃によって、肉ごと爆砕された。
◇
突然の天からの急襲。それはまさに青天の霹靂だった。
完全に不意を突かれた湖賊の砦は、一瞬にして大混乱に陥り、背後からの凄まじい鉄の奔流に、防衛陣地は紙切れのように引き裂かれていく。
「ふはははは! 脆い、脆すぎるぞ雑魚どもめ! まさにっ! 鎧! 袖! 一! 触! 我が弟、ライン殿の軍略の前にひれ伏すがいい!」
レイラは戦場を狂ったように舞った。
露出した白い肌に返り血を浴びながら、重いメイスを片手で軽々と振り回し、群がる湖賊を次々と鉄屑に変えていく。
だが、その武勇こそが、敵の狙いだった。
引き気味に戦う湖賊を追い、レイラは砦の最奥、不自然なほどに静まり返った広場へと単身で突入していった。
「しまった! 下がれ! レイラ!」
レオンが叫んだ――その瞬間、ガサササッ!! と周囲の物陰から夥しい数の人影が飛び出してきた。
突如として現れた湖賊の伏兵部隊。彼らは先行しすぎたレイラと、彼女が率いた二十名を瞬く間に包囲し、後方を追うレオンたち本隊との間を完全に分断したのだ。
「……む!」
レイラが足を止める。
「フハハハ! かかったな、脳筋のメスザルめが!」
松明の灯りに照らされ、幾重もの包囲網の奥から現れたのは、どこか締まらない笑みを浮かべた湖賊の首領だった。
「まさかこんな崖を降りてくるとはな! 流石に肝を冷やしたわい! しかし! ワシらを甘く見ない事だな!」
「レイラ!!!」
後方から追いついたレオンが叫ぶが、密集した敵の兵が邪魔で近寄れない。
「おっと騎士さんよ。それ以上近づけばこいつがどうなるかわかるよなぁ?」
首領がちょっと大袈裟なジェスチャーで指を鳴らすと、無数のクロスボウの照準が、退路を断たれ孤立したレイラ一人の身体に向けられた。いかに一騎当千のレイラとはいえ、遮蔽物のない閉鎖空間で一斉射撃を受ければ、ひとたまりもない。
「クッ……伏兵とはっ! 不覚……!」
レイラがメイスを構え直すが、その額には冷たい汗が伝っていた。
「終わりだ、オルティジアの羽虫ども! まずはその女の身体を蜂の巣にして――ひえっ!?」
勝ち誇り、腕を振り上げようとした首領の言葉が、妙な悲鳴に変わった。
「――おい」
気づけば、俺の口から地を這うような声が出ていた。
◇
その冷え切った響きに、レオンやアルテが驚愕してこちらを振り返るのが視界の端に見える。
さっきまで泥土にまみれて「船を降りる」と泣き言を言っていた俺は、もうどこにもいない。
帝都での長い人質時代、己を押し殺し、誰も信じられず、孤独の中でただ川の流れを眺める日々を生きてきた。だからこそ、今の俺にとって、自分を受け入れてくれたオルティジアの『身内』は、何物にも代えがたい絶対の聖域だ。
それを害されようとした瞬間、保身のための恐怖なんて、狂気的なまでの怒りで一瞬にして焼き尽くされた。
「誰の許可を得て、俺の姉さんに武器を向けている?」
俺の身体から立ち上る、尋常ではない殺気と威圧感。
その凍てつくような気配が吹き抜けた瞬間、レイラを取り囲んでいた湖賊たちが一斉に総毛立ち、恐怖に顔を引きつらせて明確に数歩後ずさった。
「ラ、ライン殿……?」
包囲の隙間から、レイラが呆然と俺を見つめる。
俺は腰の剣を静かに引き抜くと、その切っ先を迷いなく敵の首領へと向けた。
レイラを幾重にも取り囲んでいた湖賊たちは、俺の放つ圧倒的な覇気に怖れ慄き、互いの肩をぶつけ合いながら左右へと道を開けていく。その開かれた道の中心を、俺は静かに歩んでいった。
「ひ、ひぃぃ……な、何だあいつの目は……!? 俺らよりよっぽど怖い顔しとるぞ……!」
さっきまでの威勢はどこへやら、首領はガタガタと膝を震わせ、情けない声を漏らしている。
「……全軍に指令する。レイラに指一本でも触れた奴は、肉片の一片すら湖に残すな。殺せ」
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