第十二話:酔うほどに、湖上に風は吹き荒ぶ
帝国の査察官、グライスト男爵をドスの効いた啖呵で追い返してから数日。
俺ことライン・オルティジア辺境伯は、自室のベッドで毛布を頭から被り、ガタガタと震えていた。
(終わった……完全に終わった……。査察官に向かって『とっととお帰りになりやがれ』なんて……。近いうちに査問会議で帝都に召集されて……俺はレイヴ川の冷たい流れにドナドナされるんだ……。もうダメだ、一生ここから出ないぞ……!)
現実逃避の引きこもりを決め込もうとする俺だったが、部屋の外から聞こえてくるのは、不条理なほどに陽気な街の喧騒だった。
窓の外を見下ろせば、領民たちが酒を酌み交わし、何やらお祭り騒ぎをしている。
「オルティジアにライン様あり!」
「帝国の圧政を真っ正面から跳ね除けた、まさに若獅子の咆哮!」
「若獅子万歳! ライン様万歳!!」
(若獅子の咆哮って何のことだよ頼むからやめてくれえええええ!! 俺はただカッとなって口が滑っただけのヘタレもやしっ子なんだよ!!)
そんな俺の叫びが天に届くはずもなく、バァン! と勢いよく扉が開け放たれた。
「ライン! 引きこもっている場合じゃないよ、緊急事態!」
飛び込んできたのは補佐官のアルテだった。数日前のしおらしい態度はどこへやら、いつものクールな表情に戻っているが、その真紅の瞳には明確な危機感が宿っていた。
アルテが差し出してきた報告書に目を落とすと、そこには深刻な被害状況が記されていた。
このレムが面する巨大なマルマラ湖の交易路には、「湖賊」と呼ばれる武装集団が出没する。彼らによって、沿岸の街や貿易船に少なからずの被害が出ており、さらにその動きがここへ来て活発化してきているという。
「湖賊どもはマルマラ湖に無数にある島々を転々としていて、神出鬼没。海軍でもなかなか実態が掴めないの」
アルテが地図を指差しながら語る。そして、すっと声を顰めた。
「噂では、マルマラ湖西岸に位置する沿岸の小国――バルカ公国が裏で糸を引いているらしいの。あそこは他国の交易を組織的に妨害するために、国を挙げて海賊行為を推奨・黙認しているきな臭い国よ。今回も、オルティジアの弱体化を狙って湖賊を支援している可能性が高いわ」
(うわぁ……何その国際情勢。めちゃくちゃ面倒くさいじゃん。関わりたくない……)
そう思って再び毛布に潜ろうとした瞬間、背後からガシャガシャと甲冑の音が響いた。
「ライン閣下! レム港に寄港予定の商船が湖賊に襲撃されているとの報せが入りました! 我が海軍、直ちに出撃いたします!」
現れたのは、浅黒い肌の海軍提督ドレイクだった。
「さぁ、ライン。初陣だよ」
キリッとした表情で、不穏なことを口走るアルテ。
「は? 初陣!?」
驚く俺の制服の裾を、アルテがきゅっと掴んだ。一歩歩み寄り、
「気をつけてね。貴方は負けない」
と、耳元で静かに囁いてくる。
(……え? この補佐官……いつもと同じなのだが、あの事件以来、ちょっと距離が近い気がする……!?)
俺が顔を赤らめる暇もなく、ドレイクは俺の襟首を、まるで子猫でも拾うかのようにガシッと掴み上げた。
「さぁ、領主としての初仕事ですぜ、閣下! 船に乗って、我ら水兵に『若獅子の咆哮』を聞かせてやってくだせぇ!」
「え? ちょっと待って俺は船なんて乗りたくな――ひえええええ!?」
こうして俺は、自身の意思を1ミリも尊重されることなく、軍艦へと強制連行されたのだった。
◇
――数時間後。広大なマルマラ湖の上。
「おろろろろろろ……っ! も、もう無理……降ろして……陸に降ろして……」
俺は最上甲板の手すりにしがみつき、白目を剥いて胃の中のものを全てぶちまけそうになっていた。
最悪だ。俺は絶望的に乗り物に弱い。湖の緩やかな揺れが、俺の三半規管を容赦なく破壊していく。
「閣下、しっかりしてくだせぇ! 敵のお出ましだ!」
ドレイクの鋭い声と共に、周囲に濃い霧が立ち込め始めた。
霧の向こうから現れたのは、数隻の俊敏な湖賊の高速舟だ。彼らは大艦隊である我が海軍に対し、真っ正面から挑むような愚は犯さない。霧の視界不良と、複雑に入り組んだ湖の地形を活かし、一撃離脱のゲリラ戦を仕掛けてきたのだ。
「チッ、すばしっこい野郎どもだ! 砲撃が当たらねぇ!」
大型バリスタの矢を次々と放つが、霧のせいで照準が定まらず、敵のゲリラ戦に海軍はいいように翻弄され、ジワジワと苦戦を強いられていく。
そんな戦況の最中、俺の船酔いはついに臨界点を迎えていた。一刻も早く、この『揺れ』を止めたかった。
「ど、ドレイク……! お願いだから……あそこに見える、岩礁地帯の影に……船を止めて……っ! 揺れを、揺れを止めてくれないと、俺が死ぬ……!!」
俺は涙目で、必死に近くの岩礁を指差して懇願した。
とにかく船の動きを止めて、少しでも身体を休めたかった。ただそれだけの、極限状態のヘタレ発言だった。
「……あそこへ、船を止める、だと?」
ドレイクは一瞬、怪訝そうな顔をした。
だが、俺が指差した岩礁地帯と、マルマラ湖の微かな空気の変化を交互に見つめた瞬間――ドレイクの目が見開かれた。
(……待てよ。この時期のマルマラ湖は、決まった時間帯に局地的な『東風』が強く吹く。そして閣下が指差したあの岩礁地帯は、その風が吹いた時、唯一『風上』に位置し、敵の高速舟の逃げ道を完全に塞ぐ形になる……!)
ドレイクの脳内で、凄まじい速度の深読み(勘違い)が炸裂していた。
(今ここで大艦隊をあえて岩礁に停止させれば、敵は『絶好の的だ』と誤認して一斉に突撃してくる。だがその瞬間、局地的な強風が吹き荒れ、敵は風下に押し流されて身動きが取れなくなる……! 閣下は、酷い船酔いを装いながら、マルマラ湖の気象の周期と地形のすべて……すべて閣下の計算の内だってのか……!?)
「なんてお方だ……! ヌハハハハハ! とんだ化け物だぜ、うちの新しい領主様はよぉ!」
ドレイクは鳥肌を立たせ、狂ったように笑った。
「ようし! 全艦、面舵いっぱい!! 閣下の指示通り、あの岩礁地帯の影に陣を敷け! バリスタの照準は風下に固定だ!!」
「え? いや、もうバリスタとかいいから、早く止めて――」
俺の制止の声は、ドレイクの怒号にかき消された。
我が海軍が岩礁地帯に文字通り「急停止」すると、好機と見た湖賊の船が一斉に牙を剥いて突撃してきた。
――だが、その瞬間だった。
ゴォオオオオッ!! と、マルマラ湖特有の凄まじい局地風が吹き荒れた。
「な、何だこの突風は!? 船が押し流される、制御できんっ!」
「馬鹿な、オルティジアの軍艦が、俺たちの逃げ道を完全に塞ぐ位置に最初から配置されているぞ!?」
霧が風で急速に吹き飛ばされ、逃げ道を完璧に遮断された状態で風下に密集せざるを得なくなった湖賊。彼らの視線の先には、最初からそこへ狙いを定めて待機していた、ドレイクの大艦隊が鎮座していた。
「ガハハハハ! 網にかかったな雑魚どもが! 閣下の深謀遠慮にひれ伏しな!! ――全艦、撃てぇーーーッ!!」
バリスタから放たれた巨矢が一斉に湖上を切り裂く。
逃げ場を失い、一箇所に固まっていた湖賊の船は大混乱に陥り、一瞬にして全艦が木端微塵に粉砕された。まさに一網打尽の鮮やかな初戦勝利だった。
◇
戦闘が終わり、湖賊を壊滅させた歓声が響き渡る中、船から降りた俺の元に、パタパタと足音が近づいてきた。
「まさか、あの短時間で湖の風の周期を読み切り、敵を罠にハメるなんて……」
アルテが俺に駆け寄り、どこか照れくさそうに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ヘタレにしてはやるじゃない。その……おめでとう」
「いや、アルテ、俺は本当に船酔いで……」
「でも、無事でよかった」
そう言って、アルテはまた俺の制服の裾をきゅっと掴む。その白い頬が、ほんのりと赤らんでいるのを俺は見逃さなかった。
「ガハハハ! 照れるんじゃねぇ、閣下! このドレイク、完全に惚れ直しましたぜ! 船酔いのフリをして敵を油断させるなんて、悪魔のような軍略だ!」
ドレイクが俺の背中をバシバシと豪快に叩く。その衝撃で、俺の引き攣っていた胃袋が、ついに本当の限界を迎えた。
「お、おろろろろろろろろ(白目)」
「おおっ!? 勝利の直後だというのに、すでに次なる戦いに向けて精神を研ぎ澄まされているのか……! なんというストイックさだ……!」
違う。本当に本当にただ吐きそうなだけなんだ!
こうして、俺の「酷い船酔い」は、家臣たちの圧倒的な深読みによって『神がかった軍略』へと昇華され、俺の初陣は、鮮やかな勝利で飾られたのだった――。
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