第2話 『砕く一撃』
ダンジョンには、上層・中層・下層、そして冒険者としてのエリートしか立ち入りを許されていない深層が存在する。
上層は比較的明るい階層が多いが、深く潜るにつれて闇も濃くなっていく。
ここは右も左も分からないほど暗いわけでもないが、十メートル先がよく見えないくらいには暗い。
これまでダンジョンに潜った経験はないため何とも言えないが、こういう時は最悪の事態を想定しておいた方がいい。
つまり、俺は今深層にいると仮定して動いた方がよさそうだ。
ダンジョン内では当然電波が飛んでいないため、携帯は繋がらない。
というかそもそも、部屋に置いたまま飛び出してきたんだった。
水もなければ、食料もない。
このままここにいては生きて出るどころかこの中で骨になってしまうため、とにかく上を目指さなければならない。
「……ん?」
違和感に気づき、俺は足を止めた。
何か音がしたわけでもないが、肌で感じる。
――何かに、見られていると。
「はっ……!」
後ろを振り返った俺は、掠れた吐息を漏らす。
暗闇に浮かび上がる二つの宙に浮く光が、俺を強く睨みつけていた。
……モンスターだ。
俺の目線よりも上に浮かんでいる赤い光は、みるみるうちに薄くなっていく。
だが、それは見逃されたという合図ではなく、すぐにそれは暗闇に溶けていたその図体を露わにした。
俺よりもはるかに大きな、クマのような姿をしたモンスター。
「……アサルトベアーか」
ダンジョンオタクをしていたから分かる。
このモンスターは、下層から深層にかけてしか現れない『Aクラス』モンスターだ。
並の冒険者ではもちろん、手練れでも手こずるような圧倒的な力を持つアサルトベアーは、のっそりと、だが着実に俺に詰め寄ってくる。
「クマに出くわした時は、背中を向けずにゆっくりと立ち去れば大丈夫、なんだっけかぁ?」
脂汗をにじませながら、引き攣った笑顔を取り繕う。
ゆっくりと、足音すら立てないように、アサルトベアーから目を逸らすことなく後ずさりをしていくが――、
「――あがっ」
気づいた時には、俺は冷たい地面に押しつけられていた。
倒れた拍子に頭をぶつけたことで視界がチカチカと点滅する中、涎を垂らしながら咆哮をあげるアサルトベアーを睨む。
「速……すぎだろッ……!」
とてつもない重圧に耐えようと歯を食いしばりながら、包丁のような鋭い牙をガチガチと鳴らすアサルトベアーの腕に噛みつく。
だが人間の歯ごときでは堅牢で分厚いクマの皮膚を食い破れるはずがなく、アサルトベアーはさらに体重をかけて俺を地面に固定しようとする。
――死ぬのか?
「くた、ばれッ……!」
丸太のように太いアサルトベアーの腕を目がけて右腕を振りかぶり、すべての感情を込めて拳をぶつけた。
しかしやはり俺の力では到底通用せず、むしろ俺の腕の方にダメージが跳ね返ってきた。
――こんなところで、終わりなのか?
アサルトベアーの生臭い涎が、俺の顔に滴り落ちる。
匂いと恐怖感から顔を歪めた俺は、隆起した岩の床を握りしめた。
掌の皮が剥がれ、鮮血が無機質な地面に飛び散っていくのを横目で見ながら、俺は目尻に涙を溜める。
何で、俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。
ただ普通に生きて、大好きな彼女のために精いっぱい尽くしてただけじゃないか。
何か罪を犯したわけでもなく、誰かを嫌な気持ちにさせた自覚もない。
なぁ、神様。
俺の何が、そんなに気に食わないんだよ。
「――なぁ、教えてくれよぉぉぉ!」
自暴自棄になって叫び散らした、その時だった。
俺の脳内――いや、辺り一帯に、カチッ、カチッという音が響き始めた。
まるでこの空間からその音以外の一切の音がなくなったかのように静まり返り、俺にのしかかっているアサルトベアーでさえ違和感に気づき、落ち着かない様子を見せている。
腹の底に響く、秒針が一秒を刻むような音。
それが、『五度』響き渡った直後。
「……ッ!?」
今度は、甲高い音叉のような音が脳内を蹂躙し始めた。
思わず顔をしかめていると、続いて右腕が炎にさらされたかのような熱に包まれているのを感じた。
見ると、目を突き刺すような青白い光が右手を覆い尽くし、火花が弾けているかのような小さな破裂音を鳴らしている。
「――――ッッッ!!」
アサルトベアーはしびれを切らしたのか、太い豪腕を振り上げた。
そして咆哮をあげながら、俺の頭を圧し潰そうとそれを振り下ろし――、
「――クソがァァァァッ!」
マグマのように熱い右腕を、アサルトベアーの胴体に打ち込んだ。
そして俺とアサルトベアーの周りに、すさまじい突風が吹き荒れ始めた。
先ほどとはまったく違う、明らかな『殴った』という手応え。
その証拠に、メキメキと音を立てながら骨が砕けていくのを感じる。
振り下ろされた腕を押し返すことはせず、俺の頭に到達するよりも先に拳が胴体を捉えたため、俺の頭は潰されずに済んだ。
「……へ?」
風が止み、間の抜けた声をこぼした俺の目の前に、既にアサルトベアーの姿はなかった。
……否、ひしゃげて天井に張りついていたアサルトベアーは、黒い灰となって散っていった。
「助かった、のか――うぐっ……!」
安堵のため息をつこうと両手を地面につくと、右腕に冷たい痛みが走った。
脳を蹂躙し、全身を駆け巡る痛みに、視界が白濁する。
「な、んだよッ……これッ……!」
痛みでほとんど開いていない目を右腕に向けると、袖が肩口まで破けてその間から血が噴き出していた。
腫れているなんて次元じゃなく、毒に侵されているかのような青紫色に染まっている俺の腕。
明らかに不自然な方向に曲がっており、洞窟に吹き抜ける冷たい風にあてられて力なく揺れている。
「バケモン一体殺すだけで、こんなッ……!」
垂れ下がる右腕に左手を添え、よろめきながら立ち上がる。
微塵も痛くない足を引きずりながら、何とか前に進もうと踏み出すが、一気に力が抜けて倒れてしまった。
立たなきゃ。
立って、ここから生きて出なきゃ。
そう頭では分かっているが、体が言うことを聞かない。
残った左手を前に伸ばし、這うように前進するが、ついにそれすらも叶わなくなった。
「こんな、ところで……」
そう呟いたのを最後に、まぶたが重くなっていく。
そして、首がこくんと落ちたその時。
――フワッと、体が何かに抱きかかえられるような感覚に陥った。




