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第1話 『悪夢のような現実』

 ――ピコン。


 そんな音を鳴らして震えたスマートフォンを手に取り、通知を確認する。

 緑色のアイコンをしたメッセージアプリ、その通知には『七海ななみ』と書かれている。


『動画を送信しました』


 名前の下には、そんな文言も添えられていた。


 七海は、俺の幼馴染であり、そして人生でできた初めての彼女だ。

 小学生の頃からずっと好意を寄せていたのだが、中学の卒業式の時に覚悟を決めて告白し、見事成功した。


 そして今日は、付き合ってからちょうど二年目の記念日。

 これから七海の家に行って、デートの予定がある。

 どこにも行かず、ただ家で二人きりの時間を過ごすだけの、通称『おうちデート』だ。


 ……と、その前に通知を確認しておくか。

 通知を見る限り、何かの動画を送ってきてたみたいだが。


 「これからデート、楽しみだね!」、みたいな動画か?

 いやいや、付き合いたての中学生カップルじゃないんだからそんなことするわけ……


「――ぇ」


 通知をタップし、動画を開いた俺は言葉を失った。

 意識がみるみる遠のいていき、聴覚が機能を失っていく。


『おーい、彼氏くーん! 見ってるゥ~?』


 気色の悪い、聞いたことのない男の声。

 カメラが映しているのは、細く華奢な体が露わとなった七海の姿。

 長く艶やかな黒髪を激しく揺らし、片手で目元を隠しながら上下に動いている。


 一定のリズムを刻む乾いた音の合間からは、七海の甘美な嬌声が聞こえる。


「こ、ぇ……なん、ぇ……」


 上手く舌が回らず、俺は言葉に詰まる。

 スマートフォンを握る右手はひどく震えており、今にも取り落としてしまいそうなほど力が抜けていく。


『君の大事な彼女ちゃん、オレのもんになっちゃった。ねー、七海ちゃん?』

『ごめん、ごめんねぇ、れいぃ……! 私、この人のでしか満足できなくなっちゃったぁ……♡』


 そう言っているのは分かる。

 だが、脳が明確に理解を拒んでいた。


 これは悪い夢だ。

 だって、あんなに俺の隣で楽しそうに笑ってくれてたんだぞ。

 告白を受け入れてくれた瞬間、あんなに幸せそうな顔をしてたんだぞ。


 それなのに、それなのに――、


『彼氏くんのモノじゃ、満足できなかったんだとさ~。

 ま、君の写真見せてもらったけど、見るからにヒョロガリで弱そうだし、飽きられちゃっても仕方ないだろうね~』


 俺じゃ、満足させてやれなかった……?


『だってぇ、零下手くそだったし、全然気持ちよくなかったしぃ……♡』

『だからって、俺にすり寄って来たんだもんな~。ほんと、悪い女だよな、お前ッ!』

『あっ――』


 ひときわ大きな破裂音が、画面越しに聞こえた。

 これ以上は耐えられなかったため、俺はスマートフォンの電源を切った。


 そして、何も持たずに家を飛び出した。



---



「はぁ……はぁ……」


 雨を全身に浴びながら無心で走り、辿り着いたのは、七海の家だった。

 あの動画を見る限り、あの行為が行われていたのは七海の部屋の中で間違いはなかった。


 ……何回、遊びに行ったと思ってるんだ。


 覚悟を決めて、インターフォンを鳴らす。

 ありふれた呼び鈴が鳴り、薄暗い視界の中に点灯したインターフォンの光が網膜を刺激する。


 しばらく待っても、中から応答はない。

 雨が風を切り、地面に打ちつける音、そして俺の荒い呼吸音だけが辺りに響く。


 もう一度インターフォンを押すが、反応はない。

 半ば捨て鉢になり、苛立ちながら何度も押してもやはり反応はないため、思いきって家の扉に手をかけて慎重に引いた。


 鍵は開いており、玄関の明るい灯りが俺を出迎える。

 なるべく音を立てないように靴を脱ぎ、一段上がった廊下に足を踏み出し、七海の部屋のある二階へ向かおうと階段を上る。


 ギシギシという、木材が軋む音。

 これは俺の足音によるものであるが、どこか近しいこの音は先ほどの動画をいやに想起させる。


 あり得ない。

 あの七海が、他の男のものになるだなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。

 それがあり得るなら、俺は天動説を信じるし、地球平面説を提唱する。


 ……それくらい、本気で好きだったんだよ。


 声を殺しながら空気を肺いっぱいに溜め込み、ゆっくりと吐き出す。

 部屋のドアノブに手をかけて目を閉じた俺は、扉に耳を押し当てて中の音を聞こうとする。


 中からは、何かが動いている音などは聞こえない。

 ただ、扉の隙間からは微かに煙草の匂いが漂ってきた。


 扉から耳を離し、ドアノブを強く握り――、


「七海!」


 彼女の名前を叫び、ドアを蹴破る勢いで開けた。

 一層強く匂う煙草の香り、男の汗と女の甘い香りが鼻腔を突き抜けてくる。


「――は?」


 鼻を突き刺した三つ目の匂いに気づいたのは、その光景を目に捉えてからだった。


 ベッドに腰かけている屈強な青年の傍らには、べっとりとした赤い液体が広がっていた。

 その上に乱暴に投げられているのは、刃渡りの短いサバイバルナイフ。

 最後に視界に入ったのは――、


「なな、み……?」


 虚ろな目を開いたまま動かなくなっている、七海の裸体だった。


「は、は……? どういう、こと……?」

「じゃあね、彼氏くん。この子、中々具合良かったよ」


 二本の指で煙草を吸いながら立ち上がった青年は、俺を押しのけて足早に部屋を出て行った。

 振り返って後を追うことも考えたが、それよりも先に七海の方へと足が動いた。


「七海……おい、七海!」


 まだ微かに温かい肩を激しく揺するが、まったく反応がない。

 露わになっている胸に手を伸ばし、一度躊躇って拳を握るが、割りきって胸の真ん中に手を当てる。


 ――もう、すでに息はなかった。


「ああ、あぁぁ……!」


 俺の中で、何かが崩れていく。


 これまで積み上げてきた七海との時間が、矢継ぎ早にフラッシュバックする。


 初めてのデートで、遊園地に行ったこと。

 七海は観覧車が大好きで、ゴンドラの中で初めてキスをしたこと。

 甘い食べ物が好きだった彼女に、不細工ながらもケーキを作ってやると、世界で一番可愛い笑顔を咲かせながら食べてくれたこと。


 シャボン玉のように浮かんでは消えていく記憶が、脳内を駆け巡る。


 赤く染まったシーツを握りしめ、昨日切ったばかりの爪を食い込ませて、


「あああぁぁぁぁあ!!!!」


 人生で一番大きな声で、慟哭した瞬間だった。

 まるでコンセントを引き抜かれた電子機器のように、意識がシャットアウトした。





「……ここ、は?」


 次に目を開いた時、俺はひんやりと冷たい空気にさらされていた。

 雨が降っていて薄暗かった外とは比べ物にならないほどの闇が、見渡す限り……というか、見渡せているのかすら分からないほど、一面に『黒』が広がっていた。


 辺りを探ろうと手を伸ばすと、無機質な硬い壁に指が触れた。

 不規則に突き出ていたり、へこんでいたりする岩のような手触りが、この暗闇の中だとより一層不気味に感じる。


 聞こえる音は、俺の震える呼吸音だけ。

 先ほどまで聞こえていた雨の音も、行き交う車の音も、一切聞こえない。


 まるで、『異空間』に飛ばされたかのような感覚。


 まさか――、


「――ラビリンス」


 その五文字が、ふと頭をよぎった。

 『強い負の感情』が芽生えた人間を、ごくまれに『ダンジョン』と呼ばれる異世界へと転移させるとされる一種の災害。


 俺は、強い憎悪と明確な殺意を持った。

 その瞬間に視界がブラックアウトしたこと、加えてこの明らかに異質な空間。

 間違いない。


 俺は、『ラビリンス』に巻き込まれたのだ。


「どうして、よりにもよってこんな時に……!」


 ただでさえ、メンタルがズタボロなんだぞ。

 どうやら、世界は俺のことが大嫌いらしい。


 『ラビリンス』に巻き込まれた一般人が、ダンジョン内から生きて脱出した前例はないはずだ。

 巻き込まれたが最後、ダンジョン内に蔓延るモンスターに食われるか、脱水や空腹でじわじわと死を迎えるだけ。


 そんな最期を、迎えたいはずがないだろう。

 世界が俺を嫌うなら、俺も世界を嫌ってやる。

 俺が絶望の中で無様に死にゆく様を見たいんだろうけど、悪いが俺は精いっぱい足掻かせてもらう。


 元々、ダンジョンには興味があったんだ。

 高校を卒業してから、『冒険者』として名を上げることが夢だったが、まさかこんな形でダンジョンに潜ることが叶ってしまうとは思わなかった。


 ――やってやるさ。

 どうせ死ぬなら、最後までみっともなくもがいてから死にたい。


「かかってこいよ、運命様。俺ぁもう、失うもんはなぁーんにもないからな」


 誰に向けたわけでもない独り言。

 それでいて高らかな俺の宣言が、広い回廊に響き渡った。

 読んでいただき、ありがとうございます。

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