第9話:生贄のカウントダウン
二〇二七年、七月十四日。
何事もなかったかのように、東の地平線から静かに太陽が昇る。夏の朝の光が病室に差し込むが、僕たちの胸の中に響き続けるあの不気味な旋律は、一瞬たりとも止まらなかった。
あの日、雪那の耳は完全に聞こえなくなった。
そして世界は、本格的な「終わりのフェーズ」へと突入した。
テレビの液晶画面の向こう側では、信じられない光景が、二十四時間体制で報道され続けている。
世界の各地、合計で数カ所の「巨大な顔」が完全に定着し、出現していた。
僕たちの胸に響くあの旋律は、まるでそれらの顔と呼応するかのように、刻一刻とテンポを速めている。もはや被害状況の全体像を把握できている国など、どこにもなかった。何が起きているのか、この先どうなるのか、誰も分からなかった。
「奏多……?」
ベッドの上で、雪那が僕の気配を察して声をかける。
僕は何も言わず、震える手で小さなスケッチブックに文字を書いた。
『大丈夫だよ、雪那。俺がここにいる』
それを見せると、彼女は安心したように微かに微笑み、再び目を閉じた。
「奏多。……ニュースを見ろ」
病室の隅で、腕を組んだままテレビを見つめていた健介が、硬い声で言った。
液晶画面の中では、小国に留まらず、大国同士が出現した「巨大な顔」の領有権、あるいはそれを「神の神殿」と称して、突如として戦争を始めている映像が映し出されていた。
「まるで、最初から仕組まれていたような速さだな」
僕は画面を見つめたまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。
「健介。……お前は、この後世界がどうなると思う?」
「いずれは……世界戦争は免れないだろうな」
健介が静かに、けれど確信を込めて言った。
「一部の狂信的な連中は、あのデカ物を『神』だと信仰し始めてる。最悪の結末は、核を持つような大国がその世論に便乗することだ。神の意志を代弁すると称して、敵対国を合法的に殲滅しようとする。……だが、これはあくまで俺の仮説に過ぎない。『ヤツ』が次に何を仕掛けてくるか、俺の脳みそじゃこれ以上は想像できない」
七月十四日。この日は、世界という名の楽譜が、確実に「完成」へと向かって進んでいた。
人間のエゴと恐怖を利用して、世界を自滅させる。
あれはきっと――「ヤツ」が用意した、最も美しく、最も醜い旋律だ。
「奏多。……ちょっと、陰謀論みたいな話をしていいか?」
健介が、テレビの電源をリモコンで消し、僕を真っ直ぐに見つめてきた。
「お前は、宇宙人を信じるか?」
「なんだよ、急に……。健介、俺はそれどころじゃ……」
「俺は真剣だ、奏多」
これまでの人生で、健介から一度も見たことのないような、剥き出しの、真剣な表情だった。
「あの巨大な顔は、アニメやおとぎ話じゃない。これは現実だ。……この言葉を、絶対に忘れるな。いいな?」
「……ああ。宇宙人。信じてるよ、健介。宇宙は計り知れない世界だ」
――その時だった。
今までずっと黙って、外界の音を失っていたはずの雪那が、ゆっくりと口を開いた。
「奏多……健介さん。……変なことを言うけど、聞いてくれる?」
雪那は、自分の震える両手をベッドの上でぎゅっと押さえつけながら、僕たちの方を見た。その瞳は、僕たちの声を捉えていないはずなのに、確かに「何か」を見つめていた。
「私……音が、聞こえるの」
「え……っ?」(奏多、健介が同時に)
「今までに、一度も聞いたことがないような……とても綺麗な、でも、とても悲しい『旋律』が、頭の中でずっと鳴ってるの」
僕と健介は、息を呑んで彼女の言葉に耳を傾けた。
「雪那……それは、本当なのか!? 体は痛くないか!?」
僕は慌ててスケッチブックに文字を書こうとしたが、健介が僕の手を止めた。
「奏多、書かなくていい。……雪那は、俺たちの声じゃなく、別の『音』と同期してるんだ」
健介の表情は、さっきまでのものとはまるで違っていた。何かに気づき、そして深い絶望に直面した男の顔だった。
「雪那。その音は……怖いか?」
雪那は、健介の口の動きを読んだのか、それとも気配で察したのか、静かに首を横に振った。
「不思議な旋律。……怖くはないよ。今は、静かに、優しくリズムを刻んでる。
……奏多、健介さん、大丈夫だよ。二人の声が聞こえないのは、少し寂しいけれど」
「雪那」
健介が、ベッドの側に歩み寄り、彼女の細い手を両手で強く握りしめた。
「大丈夫。雪那の耳は、絶対に元に戻る」
「健介さん……?」
「奏多と、俺が、ここにいるからな」
僕も、健介の手の上から、雪那の手を重ねて強く握った。
彼女の手は、驚くほど冷たくなっていたけれど、僕たち三人の皮膚が触れ合った場所だけは、確かに熱いほどの温もりが宿っていた。
「雪那。俺たちがお前の耳になる。お前の音になる。だから、待っていてくれ」
僕のその声は、やはり彼女の鼓膜には届かない。
それでも、手は繋がっていた。三人の温もりを、雪那は確かにその肌で感じていた。




