第10話:最後の音符
雪那の耳が完全に聞こえなくなってから――二週間が経過した。
二〇二七年、七月二十八日。
世界は、目に見える形でゆっくりと衰退への坂道を転がり落ちていた。
比較的安全だと思われていた日本にも、戦争の波が確実に押し寄せていた。経済は完全に停滞し、海外からの輸入は規制され、街からは灯りが消えた。宗教の自由を巡る暴動が各地で起き、僕たちが守ろうとしていた「日常」のシステムは、パズルのピースが崩れるように、少しずつ失われ……。
『ニュースをお伝えします。午前十一時、巨大な顔が世界四カ所に新たに出現しました。人類が観測を始めてから、 これで??度目の出現となります。各国政府は――』
病室の小さなテレビが、キャスターの乾いた声を響かせる。
『なお、出現した巨大な顔は、約五分後、謎の音響現象とともに消失したとのことです――』
「雪那、体の具合はどうだ?」
僕はスケッチブックに文字を書き、彼女に見せた。
雪那の顔は、二週間前よりもさらに痩せ細り、肌の白さはあの「ヤツ」の皮膚の硬質さに似てきていた。
「奏多……。耳が、痛いの。頭の奥が、割れそうに……」
巨大な顔が出現するたびに、雪那の身体は連動するように衰弱していく。
(このままだと、雪那が死んじまう! どうすればいいんだよ)
僕は病室の壁を拳で殴りつけた。
健介は、窓の外を見つめたまま、ポケットの中でスマートフォンをいじっていた。
「奏多。お前も気づいているはずだ。『ヤツ』と雪那は、完全に意識のラインが繋がっている」
「それは分かってる! だから、どうすればいいんだって聞いてるんだ!」
「……世界中で、雪那と全く同じ症状を抱えている人間が、俺がネットルートで把握している中で、一五人いた」
「一五人……?」
「ああ。巨大な顔が現れた日から、世界各地で突如として聴力を失い、謎の旋律を聞き始めた人間たちだ。……そして、現時点での生き残りは、一人だけだ」
健介が、ゆっくりと僕の方を振り返った。その目の奥には、冷徹な数字の現実が光っていた。
「雪那が……その、最後の一人だ」
「っ……! 健介、その数字の意味は……?????
他の一四人はどうなったんだよ!?」
「……」
健介は、静かに目を伏せた。
「前に、学校の通学路で雪那に遮られて会話ができなかったが……。
奏多、この『曲』の終わり ????……俺はそう考えている」
「どうしてそんなことが言い切れる!」
「一四人という数字は、『ヤツ』が地球に現れた回数、場所と完全に一致する。
『生贄』、信号を増幅するための受信機だ。……そして雪那が、その最後のパーツ。今日、彼女の頭の中で楽譜が完成すれば……世界は終わる」
「健介、ふざけるな。そんなことあるはずがないだろ」
気がついた時には、僕の拳は健介の左頬にめり込んでいた。
ドンッ!という鈍い音がして、健介の身体が病室の床に転がる。
胸の奥にずっと押し込めていた恐怖、憎しみ、怒りが、もう抑えきれなかった。
「奏多!!」
ベッドから這い出してきた雪那が、転がった健介の前に、立ちはだかった。
立ち上がるのもやっとのはずの彼女が、必死に両手を広げて、僕と健介の間を裂いたのだ。
「私は、あなたたちが何を言っているのか聞こえない! ……だけど!」
雪那の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「お互いに、すごく苦しい顔をしていることだけは、分かるよ……っ! お願いだから、喧嘩はやめて!」
我に返った僕は、自分の拳を見た。赤く腫れた拳が、激しく震えている。
「……ごめん。雪那。……ごめん。健介。」
僕は、自分の情けなさに耐えられなくなり、病室を出た。
外に出ると、夏の終わりの激しいセミの鳴き声が、僕の脳を掻きむしった。しかし、上空を通過する戦闘機の轟音が、それを暴力的に切り裂いていく。
かつての通学路だった一般道には、自衛隊の装甲車が何台も並び、土砂嚢が積まれ、通行規制が行われていた。街は完全に、戦場へと姿を変えていた。
「君、ここは立ち入り禁止だよ。早く避難所へ行きなさい」
無線機を肩にかけた、がっしりとした体格の中年の自衛官が、僕の前に立ちはだかった。その胸のプレートには『長井』と書かれている。
「世界は滅びるんです。……こんなことしたって、全部無駄だ」
自暴自棄になった僕の口から、最低な言葉が飛び出た。女の子一人すら守れず、親友を殴った自分の無力さを、世界のせいにしたかったのだ。
長井という名の自衛官は、僕の言葉を聞いても怒ることはせず、ただ静かに僕の目を見つめてきた。
「滅ばせないために、僕たちがここにいるんだよ。……俺の名前は、長井正弘だ。君の名前は?」
「……奏多、です」
「よし、奏多。なぜ君は世界が終わると思う? あの、空に現れた『神』と呼ばれる存在のせいか? ……君は、怖いか? 奏多」
「俺は……怖くないです」
僕は、嘘をついた。ちっぽけなプライドが、自分を必死に庇おうとしていた。
「奏多。……俺は、もの凄く怖いよ」
長井さんは、苦笑いしながら自衛隊のヘルメットを少し持ち上げた。
「俺には家族がいる。ちょうど君くらいの年の子どもだ。今の世界じゃ、日本だっていつどこで戦争に巻き込まれるか分からない。そして、世界が神と呼ぶ『ヤツ』が、いつ現れるかも分からない。俺はこんな職業だから、家にもあまり帰れなくてね……。死にたくないよ、怖いさ」
その時、街中に、凄まじい大音量のサイレンが響き渡った。
『空襲警報だ』
「奏多! 逃げろ! 全員、配備! 配備につけ!」
長井さんの表情が、ガラッと変わり、部下たちに向かって叫んだ。自衛官たちが一斉に装甲車へと走り出す。
――ドンッ!!!
地響きとともに、僕の数十メートル前方に、巨大な火柱が上がった。ミサイルの直撃だ。
アスファルトが粉々に砕け散り、凄まじい爆風と砂塵が僕を襲う。鼓膜が引き裂かれそうなほどの耳鳴りの中、僕は泥の中に伏せながら、ただ一つのことだけを考えていた。
(雪那……! 健介……!)
僕は立ち上がり、自衛官たちの静止を振り切って、再び病院の方向へと狂ったように走り出した。
背後から、さらに二発、三発と轟音が響き、地面が激しく震える。
「奏多! そっちへ行くな! 」
長井さんの叫び声が遠くで聞こえたが、僕の足は止まらなかった。
病院の敷地にたどり着いた時、僕の目に飛び込んできたのは、幾つもの砲撃を受けて、無惨に崩落しかけている白い建物の姿だった。窓ガラスは一枚も残らず割れ、黒煙が吹き出している。
「雪那――っ! 健介――っ!!」
心臓が早鐘のように打つ中、僕は崩れかけた階段を、一段飛ばしで駆け上がった。
雪那の病室のドアは、爆風で完全に歪んでしまっていて開かない。僕は近くのトイレの掃除入れからモップを取り出し、その柄をドアノブの隙間に無理やり突っ込んで、テコの原理で横へとスライドさせた。
バキッと音がしてドアが開く。
けれど、室内のベッドの上には、誰もいなかった。
「ボーン……ボーン……ゴン……ゴン……」
脳内で鳴り響く音色が、ピアノ、ドラム、ストリングス、あらゆる楽器を混ぜ合わせたような、完全な「狂気のオーケストラ」へと変貌していく。
二〇二七年、七月二十八日。「
楽譜が、今まさに完成しようとしていた。
僕は、割れた病室の窓から上を見上げた。
病院の屋上のヘリに――「ヤツ」の巨大な顔が、すぐ目と鼻の先にまで降りてきていた。
「雪那……っ!」
僕は、屋上へと続く非常階段を駆け上がった。
鉄の扉を蹴破って屋上に出ると、激しい風の中、雪那がフェンスの側で、目を閉じてぐったりと横たわっていた。
その横には、健介が立っていた。
「健介……! 雪那は、雪那は無事なのか!?」
「よう、奏多。……待っていたよ」
空を埋め尽くす巨大な顔は、まるで舞台の幕が上がるのを待つ観客のように、不気味な笑みを浮かべていた。
そして、健介もまた、それと全く同じ「笑み」を浮かべていたのだ。それは狂気でも、恐怖でもない。世界のすべてのシステムを理解してしまった人間の、虚無の笑みだった。




