第11話:終止線
「奏多。……最後の、答え合わせだ」
吹き荒れる暴風の中、健介の声だけが、僕の鼓膜に妙に冷たく、そして酷く鮮明に張り付いた。
屋上の防護フェンスを背にして立つ彼の制服が、バタバタと狂ったように羽ばたいている。その姿は、まるで今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうなほど、どこか現実味を欠いていた。
「健介……何の話をしてるんだよ。答え合わせって、一体……」
僕の声は震えていた。尋常ではない胸騒ぎが、心臓を内側から激しく打ち鳴らす。
「お前は、まだ気づいていないのか? お前が『ヤツ』と呼んでいるあの存在は……この地球の『観測者』。地球という名の隔離病棟を、外側からただ眺めているだけの、絶対的な超越者」
健介は、ゆっくりと天を仰いだ。
彼の視線の先――あの青白く巨大な『ヤツ』の顔だった。感情という概念が一切抜け落ちたガラス玉のような双眸が、ぎちぎちと歪な音を立てて空間を歪め、僕たちを見下ろしている。その顔を見るだけで、脳髄が恐怖で沸騰しそうになる。
「俺も……七月九日の夜に、夢を見たんだ。今日、この日、この瞬間に至るまでの出来事を、全部な。秒単位で、克明に、あらかじめ決められたスコアのようにな。……すべては、『ヤツ』が仕組んだことなんだよ。俺たちの運命も、何もかもな」
「嘘だ……」
全身の血が足元から引いていくのが分かった。あまりの衝撃に、僕は言葉を失いかける。
「じゃあ、あのバッティングセンターで響いた奇妙な音も、雪那の記憶が少しずつ消えていったことも、雪那の耳が聞こえなくなったことも……お前は最初から全部知ってたのか!? 知っていて、何も言わずに見ていたのか!?」
「奏多、お前は本当に察しが悪いな」
健介は首を傾げ、一歩、僕の方へ歩み寄った。
その顔には、いつも学校の休み時間にくだらないオカルト話をしていた時と同じ、締まりのない薄笑いが張り付いている。けれど、その瞳の奥を覗き込んだ時、僕は息を呑んだ。
そこにあったのは、冷酷さなどではない。狂おしいほどの絶望と、今にも溢れ出しそうなほどの深い悲しみだった。
「俺がわざわざお前に電話をして、仮説を話したのも。雪那の病状を、今日という最後の日までお前に隠し続けたのも。……すべては、このため。観測者は、雪那だけじゃなく、お前の存在も求めているんだよ。これで、最後の楽譜の『音符』が、全部揃った」
健介は両手を頭上へ、空を埋め尽くす怪異に向かって大きく広げた。狂風が彼の髪を乱暴に振り乱す。
「観測者よ! 俺は、お前の言う通りにすべてをやったぞ! お前が求める最高のフィナーレを、極上の舞台を用意してやった!」
その言葉に、胸を掻きむしるような怒りと裏切りの悲しみがせり上がり、喉の奥に鉄のような血の味が広がった。掴みかかろうとした僕を、健介の鋭い眼光が射すくめる。
「……奏多さんよぉ。俺がここを最後の場所に選んだ理由、周りを見てみろよ」
健介は、顎で街を指した。
僕たちは今、崩壊していく街のすべてを見下ろせる、総合病院の屋上にいる。
遠くの幹線道路では何台もの車が衝突し、火の手が上がり、黒煙が夏のどんよりとした雲を汚している。街頭スピーカーからは正体不明の警報が鳴り響き、あの巨大な顔の出現に怯え、神だ悪魔だと叫びながら、他者を踏みつけて逃げ惑う人間たちの醜い群れが、蟻のように小さく見えた。
「ここは街全体を一番高い場所から見下ろせる舞台だ。世界が滅びるフィナーレには、これ以上ない最高のロケーションだと思わないか?」
(健介、お前はそんな奴じゃ……)
「俺はな、世界を変えたかったんだよ」
健介の笑い声が、吹きすさぶ風にかき消されていく。その笑いは、涙が出るほどに乾いていた。
「見ろよ、あの無様な人間どもを。ちょっと得体の知れないデカ物が現れただけで、あっさりと理性を捨てて、結局は自分の命が惜しくて隣人と殺し合いを始めてる。人間はな、どれだけ時間が経っても変われないんだよ。結局、自分が一番かわいい。だから、やられる前に、殺る。……そんな壊れた世界なら、俺の手で終わらせてやった方がマシだろ?」
(なんだよ、その言葉)
「健介……お前、一体何者なんだよ……」
僕の知っている、不真面目で、けれど誰よりも優しかった親友の輪郭が、目の前でぐにゃぐにゃと溶けていく。その恐怖に、僕は一歩も動けなかった。
「終止線」
ぽつりと、健介が鍵をかけるような口調で呟いた。
彼はフェンスの縁へと、さらに一歩後ろに下がった。踵がコンクリートの端を捉え、その背後には、何十メートルもの虚空――遮るもののない、確実な死の空間が広がっている。
「最後の終止線だ。五線譜の終わりを告げる縦線さ。……実はな、俺の耳にも、ずっと聞こえてるんだよ。雪那と同じ、あの宇宙の悍ましい音色が。脳味噌を直接かき回されるような、狂ったメロディが」
健介の視線が、激しく揺らいだ。
彼は金網フェンスに手を掛け、慣れた動きでよじ登った。頂上まで来ると、そのまま細い縁に腰を下ろし、ぶらぶらと足を揺らしていた。
「だがな……奏多。世界は、???」
風で声が聞こえなかった。
「……え?」
「俺が死ねば、楽譜は成立しない。この観測者が地球に滅亡の信号を送るための『代償』が、俺と雪那の二人の命だから」
心臓が凍りついた。僕は慌てて足を踏み出した。だが、彼との距離は、絶望的に遠い。
「お前の言っていることが、さっぱり理解できない! 戻ってこい、健介!」
「単純な話さ、奏多。楽譜が完成しなければ、世界は滅ばない。……いや、俺が滅ぼさせない。最後に、自分の命と引き換えに世界を救うなんて……俺にしちゃあ、随分と上出来なヒーロー気取りだろ?」
健介は、最後にもう一歩、後ろへ下がった。
そして、空の巨大な顔を真っ直ぐに見上げて、ニカッと、いつもの悪ガキがいたずらを成功させた時のような笑顔で笑った。
「俺が終止線だ」
次の瞬間、重力が彼を捉えた。
健介の身体が、ふわりと宙に浮いたかと思うと、屋上の縁から完全に消失した。
僕は健介の元へ走った。途中、靴が脱げようともお構いなく。フェンスに手が届いた時には、地面に叩きつけられる寸前だった。
その間際、僕に向かってか、巨大な顔に向かってはわからない。猛烈に吹く夏の風が彼の言葉をかき消した。
――ドンッ!!!
まるで花火のような衝撃、血が散った。
地上から、肉塊が激しく叩きつけられるような、鈍くて重い衝撃音が響いた。コンクリートを伝って、僕の足の裏にまでその振動が届く。
赤黒い血だまり。瓦礫と泥の中に不自然な形に折れ曲がって倒れる、見慣れた制服の少年。ピクリとも動かない。
「嘘だ……やだ……やだ、こんなの嘘だろ!!」
頭をかきむしり、涙で視界をぐしゃぐしゃにしながら、声を限りに叫ぶ。しかし、空に浮かぶ『ヤツ』は、一人の少年がその命を散らしたというのに、まだ嘲笑うように、不気味に唇を吊り上げていた。
ゴォォォォォ――!!!
突如として、鼓膜を抉るような突風と、猛烈な引力が屋上を襲った。健介という重要な『音符』が消滅したことで、世界のシステムが狂ったのだ。あるいは、『ヤツ』が無理やり残りのパーツだけで世界を吸い込もうとしているのか。
バキバキと音を立て、病院のコンクリートの破片やカルテの束が窓の隙間から、吹雪のように空の裂け目に向かって浮き上がり始めた。建物全体が、激しく傾いでいく。
「ふざけるな……! 俺から、何もかも奪いやがって……っ!」
浮き上がる瓦礫の隙間で、意識のない雪那の身体がフェンスを越えて宙に浮きそうになる。僕は決死の思いでコンクリートの上を這いつくばり、泥まみれの手を伸ばした。彼女の細い手首を、命綱のように力強く握りしめる。
「雪那ーーーっ!!」
右手で雪那を抱え、左手だけでフェンスにしがみつく。強烈な引力が腕を引きちぎらんばかりに襲いかかり、指の骨が悲鳴を上げた。もう、限界だった。感覚が失われていく。
「クソ……クソ……っ! 離してたまるか……!」
「だから言っただろ、奏多。お前は本当に察しが悪いって」
すぐ耳元で、聞き慣れたあの気の抜けた声が、鮮明に響いた。
「健介……っ!? お前、生きていたのか!?」
あり得ないはずだった。下を見れば、彼は確かに倒れている。なのに横を見ると、そこには確かに、全身血まみれのまま僕の右手をガシッと掴み、一緒に雪那を引き上げようとしている健介の姿があった。
幽霊か、幻かもしれない。だが、僕の肌を掴む彼の掌は、ずるりと擦り切れていて、痛いくらいに熱かった。確かな魂の重みがあった。
「俺の手を掴め、奏多。……お前は、まだ終わらせるな」
「ありがとう、健介……っ!」
二人の少年の手が重なり、不協和音の満ちた世界に、決定的な「バグ」が生じた。その隙を、大地の上の人間たちが逃すはずはなかった。
――ドンッ!!! ――ドンッ!!!
地上から、天を貫く凄まじい光の束が放たれた。それは地対空ミサイルの爆炎。長井さんたち自衛隊による、人間の、ちっぽけな、けれど意地と執念のすべてを賭した総攻撃だった。
「デカ物にお見舞いしたれぇぇぇ!! 人間を舐めるなァ!!」
無線機のノイズを越えて、地を響かせるような長井さんの絶叫が街中に響き渡る。
二〇二七年、七月二十八日。
人間の放った意志の光弾が、空の怪異に直撃する。健介の消滅によって「無敵」の殻が破れていた『ヤツ』の顔は、初めて苦悶に歪み、ベリベリと音を立てて、空の彼方へと霧のように消え去っていった。
世界を支配していた狂気的な引力が消え、おぞましい不協和音が、静かに、世界から消滅した。
「……かな……た……?」
衝撃が収まり、屋上の床に倒れ込んだ僕の腕の中で、雪那がゆっくりと目を瞬かせた。その瞳に、深い霧が晴れたような、確かな光が戻っていた。
カルテの燃え滓が、夏の空を雪のように包み込んだ。
「私……耳が、聞こえるよ。奏多の声が、ちゃんと聞こえる……」
「本当か……っ!? 良かった、本当に良かった……!」
溢れ出る涙を拭うこともせず、僕は彼女の身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。その温もりに安堵しながら、すぐ横の空間を見る。
「やったな、健介! お前の言う通り、世界が滅びるなんてただの仮説に過ぎなかったんだ!」
けれど、僕が叫んだその場所には、ただ夏の生温かい風が、虚しく吹き抜けているだけだった。血の跡も、影もない。
「健介……? 健介、どこにいるんだよ?」
「奏多……? さっきから、誰の名前を呼んでいるの? そこには、最初から誰も……?」
雪那が、不思議そうな顔で僕の顔を覗き込んできた。その瞳には、一抹の不純物もない。
僕の心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。
「嘘だ……さっきまで、確かにここに健介がいて、俺たちの手を掴んで、一緒に戦って……っ!」
「二人とも、怪我はないか! 本部、こちら長井! 屋上で生存者二名発見!」
非常階段の鉄扉を破って、長井さんたち自衛官が血相を変えて突入してきた。
「長井さん! 健介を見ませんでしたか!? 宮本健介です! 俺の友達の、背が高くて、オカルト好きの――」
長井さんは困惑したように首を振る。
「確実にいるんだ! 俺と一緒に戦ったんだ! 探してくれ、お願いだから……っ!」
長井さんの胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄る僕を、大人の逞しい腕が優しく、しっかりと制する。
「わ、分かった。落ち着け、奏多。まずは避難だ!」
ウゥゥゥゥゥ――。
遠くで、再び空襲警報のサイレンが重々しく鳴り響いた。
「クソ、こんな時に……。二人とも、ここは一時避難だ!」
「ヤダ……ダメだ! まだ、健介が……そこに……置いていけない……」
長井さんに抱き抱えられ、引き剥がされる。夕闇に染まる空を見上げながら、僕の視界は、急激な疲労と絶望によって、真っ暗な闇へと塗りつぶされていった。
――その後の記憶は、世界のどこを探しても、残っていなかった。




