第8話:神無き国の楽譜
「奏多、見ろ。 そ、空が」
崖の下の茂みに奇跡的に突っ込み、泥だらけになりながらも立ち上がった健介が、天を指差した。
原付は完全に大破して黒煙を上げているが、僕たちの骨は一本も折れていなかった。まるで、世界そのものが僕たちを生かしているかのように。
「健介、行くぞ!」
僕は立ち上がり、再び走り出した。
その時、耳鳴りのような、高周波の音が骨の髄まで響き渡った。
――いや、違う。
それは、ただの雑音ではなかった。
それは、明確な意志を持った「曲」。
あの日からずっと世界を恐怖に陥れている、あのおぞましい旋律。
――けれど、何かが違う。音の密度が、より複雑に、より完成へと近づいているような、そんな悍ましい予感がした。
「健介……聞こえるか、この音」
「ああ、聞こえる」
健介は走りながら、空に浮かぶ巨大な顔を、親の仇のように睨みつけた。
「神……って、奴なのか、あれは」
健介の絞り出すような言葉には、いつもの軽薄さは微塵もなかった。全身の毛穴という毛穴から、冷や汗が噴き出す。足の先が、恐怖と電撃のような衝撃でジリジリと痺れていた。
「神か何なのか知らんが……そんなの関係ない。 健介、行くぞ」
「……奏多」
僕たちは、泥を跳ね上げながら、ただひたすらに病院への坂道を駆け上がった。
直感で分かっていた。ここで足を止めたら――僕と雪那の関係も、この世界を繋ぎ止めている最後の「何か」も、すべてあの旋律によって停止させられてしまう。
楽譜は、まだ終わらせない。最後の音符を打つのは、あの怪物でも、神でもない。俺たち。
息が切れ、肺が焼けるように痛む。
病院の白い建物が、木々の隙間から見えた。あと、少し。
「雪那――っ!!」
正面玄関の自動ドアを体当たりでこじ開け、受付を飛び越えて、僕は雪那の病室へと飛び込んだ。
だが、ベッドに横たわっている雪那は、僕の叫び声にピクリとも反応を示さなかった。その瞳は開いているのに、焦点がどこにも合っていない。
僕は彼女の元へ駆け寄り、その細い肩を激しく揺さぶった。
「おい、雪那! しっかりしろ! ……いつもみたいに、俺を起こしに来いよ! 重いって言わせてくれよ!」
「……かな……た……?」
雪那の唇が、かすかに動いた。
けれど、その瞳は僕の顔を見ているはずなのに、鏡のように何も映していない。
「ヤツ」は、ついに雪那から、日常を認識するための「音」を奪い去っていたのだ。
「雪那! 俺だ、奏多だ! 健介と一緒に、崖から原付で飛び越えてここまで来たんだぜ! まるでアメコミのスーパーマンみたいにさ……お前を助けに……!」
「さっきから、何か言っているの……? ……聞こえないの。世界の音が、全部消えちゃった」
「雪那……そんな冗談、よせよ……。おい、雪那!」
喉の奥が熱くなり、胸が締め付けられるように痛む。
世界から音が消えた。いや、彼女の世界が、あの怪物の奏でる「醜曲」によって、完全に外界から遮断されてしまったのだ。
「落ち着け、奏多」
「ふざけるな、健介!」
僕は窓の外に向かって、声を限りに叫んだ。空を埋め尽くす青白い顔が、僕たちを見下ろして、確かにニヤリと笑ったような気がした。
「何が神だ……! くそくそくそ……っ!」




