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第5話:空白の旋律

 鼻を突く消毒液の匂いと、規則的な電子音が、僕の意識を現実へと引き戻した。

 壁に掛けられた時計の針は、深夜の二時を回っている。

 ここは駅前にある総合病院の、無機質な個室。窓の外は、いつの間にか激しさを増した豪雨が、ガラス窓を激しく叩きつけている。


「……ん……」


 ベッドの横のパイプ椅子で泥のように眠り込んでいた僕たちは、微かな擦れる音で跳ね起きた。白いシーツの上で、雪那がゆっくりと上体を起こそうとしていた。

 点滴のチューブが痛々しく揺れる。


「雪那……っ!? 動いちゃダメだ、まだ横になってろ!」

「……ここ、は……?」


 雪那はひどく困惑したように、自分の手の甲に刺さった針と、部屋の様子を見回した。

 その瞳には、夕方、バッティングセンターの外で激痛に悶えていた時の狂気的な色は消え、ただどこか深い霧の奥に取り残されたような、虚ろな静けさだけがある。


「病院だよ。お前、駅前で急に倒れて……そのまま救急車で運ばれたんだ。……覚えているか? 頭の痛みは? 変な音は、もう聞こえないか?」


 畳みかけるように問いかける僕に対し、雪那はただ、困ったように小さく首を傾げるだけだった。その視線は、僕のすぐ横にいる人影へと向けられる。


「奏多……。その隣にいる人は、誰?」


 何を言っているのか分からなかった。僕の横に座っているのは、健介だったから。彼は夕方から一歩も病院を動かず、僕と一緒に雪那の容体を見守り続けてくれていたのだ。


「おい……何の冗談だよ、雪那」


 僕は乾いた笑い声を漏らそうとして、それが引きつった。雪那の目は、冗談を言っている人間のそれではない。本当に、目の前にいる人間の正体が分からないという、純粋な他人の目だった。


「健介だよ……。お前の前の席の、宮本健介。毎日クラスでバカ話して、さっきまで一緒にバッティングセンターにいた、あの健介だろ……?」


 雪那はさらに深く眉をひそめ、記憶の糸を必死に手繰り寄せようとするように視線を泳がせた。


「宮本、くん……? ごめんなさい、私……高校に入ってからのこと、なんだか上手く思い出せなくて。頭の中に、ずっと白い霧がかかっているみたいで……」

 彼女は――高校に入学してからの記憶を、丸ごと失っていた。

 あの不気味な宇宙の音色とともに、健介という存在そのものが、彼女の世界から綺麗に消去されてしまったのだ。


「奏多……?」


 不安そうに僕の名前を呼ぶ彼女の声は、どこか幼く、まだ高校という新しい世界を知る前の、昔の雪那の声そのものだった。

(やめてくれ……)

 激しい眩暈めまいが僕を襲う。戻って来いよ、雪那。そう叫びたいのに、指先に力が入らず、言葉が喉の奥で硬く固まってしまう。僕たちが積み上げてきたあの騒がしくて愛おしい日常は、もう世界のどこを探しても存在していなかった。


「……か、奏多。紹介をしてくれ」


 沈黙を破ったのは、健介だった。

 彼はいつもの軽い笑みを無理やり顔に貼り付け、僕の肩にポンと手を置く。

 その手は少し震えていた。そのメッセージは深く傷つけ、日常の音階をどこか遠くにしてしまう。

「こいつは、健介。……最近、友達になった奴なんだ」

 僕たちは――嘘をついた。雪那を混乱させたくないという防衛本能と、これ以上彼女の壊れた記憶を突きたくないという恐怖が、そう言わせたのだ。


「初めまして、雪那さん」

 健介は、いつもの調子を崩さないように、大袈裟にお辞儀をしてみせた。


「宮本健介といいます。まあ、奏多とは永遠のライバルで、親友以上の熱いソウルメイトってところです。最近このマヌケな奏多の面倒を見てやってます」

「健介。余計なことまで言うな」


「おい待て、変な意味じゃないぞ!」


「え……?」

 僕たちのいつも通りの(しかし中身は張り子の虎のような)掛け合いを見て、雪那の顔にようやく微かな笑みが戻った。

「ふふ、なんだか面白そうな人」

「……奏多のことを、よろしくお願いしますね」

 雪那は、昔から変わらないあの眩しい笑顔で言った。

 でも、その瞳は健介の姿を確かに捉えているのに、

 彼女の脳は彼の……健介の存在を完全に拒絶している。

 僕は、握りしめた拳の震えを隠すために、ズボンのポケットに深く両手を突っ込んだ。


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