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第4話:変奏曲

「ストライク! バッターアウト!」

 アーム式のピッチングマシンから放たれたボールが、健介の構えるバットの遥か下をすり抜け、小気味よい音を立てて後ろのネットに収まった。

「おいおい健介、これで十五回連続三振だぞ。お前、さっきからボールがバットに擦りもしないじゃないか」

 ネットの外から、僕はスポーツドリンクのペットボトルを片手にヤジを飛ばした。

 放課後の駅前、バッティングセンター。店内は平日の夕方ということもあって閑散かんさんとしており、金属バットがボールを弾く乾いた音と、古びた機械の駆動音だけが響いている。エアコンの効きは悪く、室内の空気はどこか埃っぽい。

「ふっ……なかなかやるじゃないか、あのピッチャー。今の決め球は、ベース直前で急激に沈み込む令和最新版のフォークボールだな。俺の動体視力をもってしても、あの軌道は見切れん」


 健介は汗を拭いながら、いかにもプロっぽい手つきでバットを肩に担ぎ、バッターボックスから出てきた。

「バカ言え。六十キロのスローボールだぞ? 沈むどころか、お辞儀するような山なりの球だ。お前、本当に野球やったことないだろ」

「うるさいぞ奏多。俺は理論派なんだ。物理法則に基づいた完璧なスイングをしている。ただ、地球の重力がほんの少し俺の計算とズレていただけだ」

「はいはい。じゃあ、次はお前の言う『完璧なスイング』とやらを俺が見せてやるよ」

 僕は健介から百円玉を受け取り、代わりに金属バットを握ってバッターボックスの中へと入った。

 打席に立ち、バットを軽く構える。

 緑色のネットの向こう、マシンのアームがぐるりと回転し、白い軟式球が放たれた。

 引きつけて、腰を回す。

 ――カキンッ!!

 芯を捉えた手応えが、両腕を通じてダイレクトに脳へと突き抜けた。

 放たれた打球は、鋭いライナーとなって一直線に奥へと飛んでいく。

 ――ガンッ!!!

 一番奥のフェンスに掲げられた、直径一メートルほどの「ホームラン」の的。そのド真ん中に、打球が弾丸のように直撃したのだ。

『ホーーームラン!!!』

 店内に、いかにも安っぽいファンファーレと機械の合成音声が鳴り響いた。

「よっしゃ!」

 思わずガッツポーズをする僕の背後で、健介がわざとらしくパチパチと手を叩いた。

「ふん……。奏多、なかなかやるな。さすがは我が永遠のライバル、俺が認めた男だけのことはある」

 ベンチの方から、雪那が呆れたような、でもどこか楽しそうな声をかけてきた。彼女の手には、自動販売機で買ってきたばかりの冷えた炭酸飲料が三本握られている。

「はいはい、二人ともお疲れ様。ジュース買ってきたよ」

「サンキュー、雪那」

「ありがと、雪那たん。俺たちの甲子園への熱いドラマは、まだ始まったばかりだからな」

「健介、また訳の分からないこと言ってるの。ほら、冷たいうちに飲みなさいって」

 雪那はプッと吹き出しながら、僕たちに缶を手渡した。

 冷たい缶を頬に当てると、生き返るような心地がした。健介のバカ話を聞いて、バットを振って、雪那が笑っている。

 学校でのガラス破損事件や、あの恐ろしい巨大な顔のことなんて、全部どこか遠い世界の出来事のようだった。このまま、何事もなく、また明日も普通の高校生として過ごせるんじゃないか。そんな淡い希望が、僕の胸を満たしていく。

 雪那が、僕の飲みかけの缶を見て何か言葉を発しようとした……

 ――ズゥゥゥン……、ズン、ズズン。

「っ!?」

 突如として、大気を細かく震わせるような重低音が響き渡った。

 それは、昨日の学校で聞いた、あの鼓膜をぶち破るような爆発音とは違っていた。けれど、本質的な「禍々しさ」は全く同じ。鳥肌が立つような不快な音が、一定のリズムを刻みながら、まるで奇妙な「音色」を奏でるように僕たちの脳内へ直接流れ込んできた。

「やだ……なになに、この音!?」

 雪那が両手で耳を塞ぎ、顔をしかめてしゃがみ込んだ。

 店内の照明がチカチカと不規則に点滅し、バッティングマシンの電源がブツンと落ちる。

「大丈夫だ、雪那! 俺の後ろに――」

 僕は咄嗟に雪那の肩を抱き寄せようとした。けれど、僕の声は途中でかき消された。いや、違う。僕の声だけでなく、店内のファンファーレも、外を走る車の音も、すべての「現実の音」が、その謎の音色によって塗りつぶされていく。

「奏多! 雪那!」

 健介が、狂ったように点滅する自動ドアの向こう、外の道路を指差していた。


「俺、ちょっと外を見てくる!」


「バカ、何を言ってるんだ! 危ないから戻ってこい、健介!」

 僕の制止を振り切り、健介は外へと飛び出していった。

 数秒の後、ピタリと、あの脳を揺さぶる不気味な音色が止んだ。世界に、急激な静寂が戻ってくる。

「奏多! 雪那! 早く外へ来い! 空を見ろ!!」

 外から、健介の悲鳴に近い叫び声が響いた。

 僕は雪那の手を強く引き、半ば強引に雪那を立たせてバッティングセンターの外へと飛び出した。夕方の駅前広場。家路を急ぐサラリーマンや学生たちが、一斉に足を止め、呆然とした様子で天を仰いでいた。

 茜色に染まりかけていた夏の空。

 そのど真ん中に、昨日と同じ、あの巨大な「裂け目」が走っていた。

 そして、その引き裂かれた次元の向こう側から、あの青白い、巨大な「顔」が、じっと地上を覗き込んでいた。昨日の教室から見たときよりも、さらに距離が近くなっているような気がする。ヤツの虚ろな眼球が、ゆっくりと街を見回していた。

「なんなの……あれ……。嘘、嘘でしょ……」

 隣で、雪那がガタガタと激しく身体を震わせながら、その光景を見つめていた。


「雪那……見覚え、あるよな? 昨日、学校の窓が割れたときにお前が見た、あの顔だ!」


 僕が彼女の肩を揺さぶって問いかける。

 しかし、空に浮かぶ巨大な顔は、まるで夕闇に溶けていくように、奇妙な音色をかすかに残しながら、静かにスウッと消え去っていった。裂け目が閉じ、いつもの夕焼け空に戻る。

 周囲の人々が「今のは何だ?」「ホログラムか?」「テロか?」と口々に騒ぎ始める中、隣にいた雪那が、突然その場に崩れ落ちた。


「あ、ッ……頭が……痛い……!」


 雪那は両手で強く頭を抱え、アスファルトに膝をついていた。

「変な……声が、聞こえるの……。耳の奥で、ずっと……」

「雪那!? おい、しっかりしろ、雪那!」

 彼女の顔は紙のように真っ白で、額からは大量の冷や汗が流れていた。呼吸は荒く、僕の制服の裾を掴む彼女の手が、見たこともないほど激しく震えている。

「助けて……奏多……、痛い、痛いよ……っ」

「健介! スマホを出せ! 早く救急車!」

「わ、分かった! 今呼ぶ。」

 健介がポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で画面を操作し始める。

 僕はただ、苦しむ雪那の身体を抱きしめることしかできなかった。

 夕暮れの街。人々の喧騒。

 その中で、僕の耳の奥には、さっきまで響いていたあの不気味な旋律が、かすかな残響となってこびりついて離れなかった。


 人類は、この日初めて、明確に「ヤツ」の存在を公に観測した。


 そしてそれは、僕たちの壊れかけた日常が、

  二度と再生できないほど完全に粉砕される合図でもあった。


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