第3話:不協和の周波数
「健介……。お前、なんでこんなところにいるんだよ」
振り返った僕は、怪訝な声を隠せなかった。
健介の家はここから完全に駅を挟んで反対側だ。僕と雪那の通学路に、彼がひょっこり現れる理由なんてどこにもない。
「家は反対側だろ。わざわざ遅刻のリスクを冒してまで、こっちのルートを選ぶメリットがどこにあるんだ?」
「奏多、良い質問だ。実に合理的で、かつ視野の狭い疑問だな」
健介は制服のポケットに両手を突っ込んだまま、大袈裟に肩をすくめてみせた。いつものニヤついた表情。だが、その目の奥だけは、じっと僕の反応を観察するように爛々と輝いている。
「実はな、調査しに来たんだよ」
「健介……。何のだよ、一体」
僕が眉をひそめると、健介は周囲を一度ぐるりと見回し、それからわざわざ僕たちの距離を詰めて声を潜めた。まるで国家機密でも漏らすかのような仕草に、僕の喉が思わずごくりと鳴る。
「耳の穴をほじって、よく聞けよ? ……『宇宙』だ」
「はあ?」
呆れたような声を上げたのは、僕ではなく隣の雪那だった。彼女は完全に冷め切った目で健介を睨みつけている。
「健介くん、ついにこの暑さで頭がいかれちゃったのね。宇宙の調査って何よ。あなた、いつからJAXAの職員になったわけ?」
「雪那たん、それはないぜ。俺の頭脳はいつでも標準の最高温度をキープしてるさ。確かに、朝から登校するお前ら二人を見てると、別の意味で脳みそが溶けそうにはなるけどな」
「健介、どういうことだよ!」
僕がツッコミを入れると、健介は「ごめんごめん」と両手を上げておどけてみせた。
「奏多も雪那も、ちょっと落ち着けって。からかってるわけじゃない。」
「……それでだ、健介。宇宙の調査って、具体的にどういうことだよ。昨日の『あれ』と関係があるのか?」
僕が真剣なトーンで問いかけると、健介の目が一瞬だけ、キラリと鋭く光った。
「俺の持ってる無線機とオーディオの解析ソフトを使って、昨日の騒ぎの最中に録音されて……???」
「???……お前、そんなことしてたのか?」
「オタクの執念を舐めるな……???……結論から言うと……???」
「二つの音……?」
「そう。何かしらの理由で『二つの音が交差した』結果、空間の位相がズレた。つまり、宇宙への扉――『???』
健介は一気にまくしたてた。その内容はあまりにも荒唐無稽で、アニメや映画の観すぎだと笑い飛ばせるはずのものだった。
――だけど、僕には笑えなかった。
なぜなら僕の頭には、今もあの青白い巨大な顔と、世界の音が消えた「静絶」の瞬間が焼き付いているからだ。
「あんた、朝から本当に何を言ってるのよ。バカバカしい」
雪那は全く相手にしていない様子で、ため息をついた。
「ほら、奏多。こんなオカルト男の相手してたら本当に遅刻しちゃう。学校に行こう」
「ひどいよ、雪那たん! 俺のロマン溢れる世紀の仮説をバカバカしいの一言で片付けるなんて!」
「うわ、キモい。近寄らないで、宇宙人」
健介は「がーん」という効果音が聞こえそうなほど大袈裟に落ち込んでみせた。
いつもの、どこにでもあるような三人の掛け合い。
けれど、健介の言った言葉のいくつかが、僕の胸の奥にひどく冷たい棘のように引っかかっていた。
(二つの音が、交差した……『???』)
学校に到着すると、昨日あれだけ大騒ぎになった教室の窓には、すでに真新しいガラスが綺麗にはめ込まれていた。あまりにも早すぎる復旧作業だ。(本当に早すぎる……)昨日の今日で、まるで何事もなかったかのように授業が再開されていることに、僕は強い違和感を覚えた。
教壇に立った先生は、いつもより少し疲れた顔でパンフレットを配りながら告げた。
「えー、昨日の件だが、警察や教育委員会も含めてまだ原因究明には至っていない。突発的な局地的大気圧の変動という説が濃厚だが、念のため、生徒の諸君はしばらくの間、不要な不急の外出は避けるように」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、健介が勢いよく手を挙げた。
「先生!!」
「……なんだ、宮本。またお前か。今は授業の前だぞ」
「僕は、今回の事件には宇宙規模の超自然的な力が関係していると思います! 具体的には未知の周波数による空間の歪みが――」
「はいはい、またお前は口を開けばそれだな。SFの読みすぎだ。座れ」
教室中がドッと笑いに包まれた。いつもの「オカルト好きの健介がまた馬鹿なことを言っている」という、お決まりの流れだ。教室はすぐに、いつもの退屈で平和なざわめきを取り戻していった。
僕はひとり、窓の外に目を向けた。
空はどこまでも青く、ただ夏の太陽が照りつけているだけで、何も不審なものは見当たらない。
それでも――昨日のあの顔が、脳裏から離れなかった。そして何より、あの事件のことを「何も起きていない」と言い切った雪那の、あの無垢な笑顔が、怖くて仕方がなかった。
「なぁ、奏多、雪那。今日の放課後さ、駅前のバッティングセンターでも遊びに行こうぜ」
昼休み、健介が僕たちの席にやってきて、ノートを丸めてバットに見立てながら言った。
「あんたバカ? さっき先生が不要な外出は避けろって言ったでしょ!」
雪那が呆れたように、お弁当の卵焼きを口に運びながら返す。
「いやいや、雪那君。君のほうがルールに縛られすぎたマジメウサギさんだね。そんな大人の建前、律儀に守る奴なんかこの学校に一人もいないだろ。なぁ、奏多?」
「え? ああ……まあ、そうかもだけど。いや、そうだ!」
「よし決まりだ! じゃあ、雪那君は大人しくおうちの『住処』に帰るみたいだから、俺と奏多の男二人で熱い汗を流しに行こうじゃないか!」
健介がニカッと笑う。その挑発的な物言いに、案の定、雪那の額にピキッと青筋が浮かんだ。
「……誰が帰るって? あんたたちが二人で行ったら、どうせまたろくでもないオカルトの話ばっかりするんでしょ。分かったわよ、私が監視役としてついて行ってあげる!」
「よし、釣れた。行くか、奏多!」
健介が親指を立てた。
バシッ!!!
雪那の容赦のない拳(今度は手のひらのビンタに近かったが)が、僕の右頬に綺麗に直撃した。
「ぶへっ!? ……って、なんで俺まで殴るんだよ! 健介が言い出しっぺだろ!」
「あんたが健介くんの言葉に鼻を伸ばして、ちょっと嬉しそうな顔をしたからよ! あなたたち二人が悪いの。ほら、行くわよ!」
「へいへい……」
「ほんと、調子いいんだから。奏多、もう一発いっとく?」
「いえ、なんでもありません、雪那様」
僕は両手を上げて降伏した。
頬の痛みは確かに本物なのに、世界のどこかが少しずつ狂い始めている。僕たちは、その狂気の足音に気づかない振りをしながら、無理やり「日常」という楽譜を演奏し続けようとしていた。




