第2話:調律が狂うとき
どれだけの時間が経ったのだろうか。
数秒だったかもしれないし、数時間だったかもしれない。
時間という概念そのものが、あの巨大な存在によって引き伸ばされてしまったかのようだった。
視界を埋め尽くしていたはずの、あの「ヤツ」の青白い顔は、いつの間にかどこにもなかった。
雲の裂け目は、何事もなかったかのように再び混ざり合い、どんよりとした灰色の空へと戻っている。
「……あ、……あ、う……」
誰かの震える声が聞こえたのを合図に、教室の中に一気にパニックが弾けた。
泣き叫ぶ女子生徒、腰を抜かして床にへたり込む男子生徒。
教壇の上では、先生が真っ青な顔で「落ち着け! 全員、廊下へ出ろ!」と、裏返った声で叫んでいる。
だが、僕の耳にはそのどれもが遠くの出来事のようにしか聞こえなかった。
目の前の光景に、心臓が凍りついていたからだ。
「雪那……っ!?」
キラキラと不吉に光るガラスの破片が散らばる床の上。そこに、雪那が倒れていた。
机から投げ出されたような不自然な体勢で、ピクリとも動かない。
「おい、雪那! しっかりしろ、雪那!」
僕は机の下から這い出し、ガラスで膝や手のひらを切るのも構わずに彼女の元へと駆け寄った。
彼女の白い制服の袖が、割れたガラスで小さく裂けている。
「先生! 雪那が、雪那が倒れてます!」
「天野、落ち着け!」
いつの間にか目を覚ましていた健介が、僕の肩をがっしりと掴んで引き剥がした。彼の目つきは、いつもの気の抜けたものとはまるで違い、冷徹なほどに鋭かった。
「奏多、声をかけるな。意識はある。……雪那、俺の声が聞こえるか?」
健介が雪那の顔を覗き込む。すると、彼女の長い睫毛がかすかに震えた。
うっ、と小さな呻き声を漏らしながら、雪那がゆっくりと、重そうに瞼を持ち上げる。その瞳には、いつもの気の強さはなく、深い困惑と恐怖の色だけが浮かんでいた。
「……かな、た……? 私、どうしちゃったの……」
「良かった……! 気がついたか、雪那!」
僕はへなへなと、その場に崩れ落ちそうになった。
駆け寄ってきた先生が、雪那の体に大きな怪我がないかを確認し、僕たちの顔を見回す。
「頭を打っているかもしれない。天野、宮本(健介)。二人で藤原(雪那)を保健室に連れて行け。他の生徒は避難誘導に従うんだ!」
「わかりました」と健介が短く答え、雪那の身体を支える。僕も慌てて彼女の反対側の肩を抱え、僕たちは騒然とする教室を後にした。
校舎の廊下は、どこもかしこも割れたガラスと、避難する生徒たちの足音で混沌としていた。
不思議なのは、これだけの事件が起きたというのに、外からは救急車やパトカーのサイレンが一切聞こえてこないことだった。ただ、重苦しい静寂だけが、街全体を包み込んでいるような、そんな奇妙な違和感があった。
保健室のベッドに雪那を寝かせると、彼女はひどく疲弊した様子で、すぐに浅い眠りに落ちてしまった。保健医の先生は他の負傷者の対応で部屋を空けており、静まり返った室内には、僕と健介、そしてベッドに横たわる雪那の三人だけが残された。
窓の外からは、いつの間にかしとしとと静かな雨が降り始めていた。さっきまで空を割っていたあの巨大な顔の痕跡は、雨雲の奥に完全に隠されてしまっている。
「……なぁ、健介」
パイプ椅子に腰掛け、自分の手をじっと見つめながら僕は呟いた。ガラスで切った手のひらから、じわりと血が滲んでいる。
「お前も、見たよな。あの、顔」
「ああ」
健介は窓枠に寄りかかり、腕を組んだまま雨空を睨みつけていた。
「見間違いようがない。夢の続きにしちゃあ、随分と痛烈なリアリティだ」
「夢……? お前も、あの夢を見たのか?」
僕が顔を上げると、健介は静かに首を縦に振った。
「七月九日の夜。つまり昨夜だ。巨大な顔が空から俺たちを見下ろしている夢。奏多、お前も同じものを見たんだな?」
「ああ。嘘だろ、なんでお前まで……」
その時、ベッドのシーツが擦れる音がした。
振り返ると、雪那がゆっくりと身体を起こし、虚ろな目で窓の外を見つめていた。
「ねえ、奏多……。健介くん……」
彼女の声は、消え入りそうなほど小さかった。
「私も……見たよ。あの顔。夢じゃなかったんだね……」
雪那の言葉に、僕の背筋が冷たく凍りつく。三人とも、同じ日に同じ夢を見て、そして今日、同じ怪異を目撃した。これが偶然であるはずがない。
僕は窓の外を見上げる。雨雲の奥、世界の境界線が、ほんの一瞬だけぐにゃりと歪んだような気がした。
――――☆
二〇二七年、七月十〇日。
あの「窓ガラス破損事件」の翌日、ニュースやSNSでは、日本中、いや世界中で起きた「謎の局地的気圧の変化とガラスの破損」について報道されていたが、誰も「巨大な顔」については触れていなかった。
「起きろ、奏多! 学校に遅刻するぞ!」
朝、僕の部屋に飛び込んできた雪那の声は、いつも通りの張りのあるものだった。
僕はベッドから跳ね起き、彼女の姿を凝視する。
「雪那……! お前、もう大丈夫なのか? 体の具合は……」
「は? 何言ってるのよ。元気そのものよ。ほら、早くしないと置いていくからね!」
いつものように、頬を少し赤くしてぷいと顔を背ける。
僕はホッと胸をなでおろした。いつもの日常が戻ってきたのだと、自分を納得させようとした。
「……なぁ、雪那。昨日のことなんだけどさ」
「昨日のこと?」
靴を履きながら、雪那が不思議そうに小首を傾げた。
「昨日って……何かあったっけ?」
「え……?」
僕の手がピタリと止まる。
「何かあったっけって、お前、忘れたのか?
学校の窓ガラスが全部割れて、お前が倒れて、保健室で――」
「ちょっと、何冗談言ってるのよ。学校のガラスが割れた? 私が倒れた? そんな大きなニュース、あったら覚えてるに決まってるじゃない。変な夢でも見たんじゃないの?」
雪那はクスクスと笑いながら、先にドアを開けて外に出ていってしまった。嘘だろ。
あんな恐ろしい出来事を、忘れるわけがない。
僕は昨日の自分の手の傷を見た。そこには、確かにガラスで切った赤い跡が残っている。なのに、雪那の腕を見てみると、昨日ガラスで引き裂かれたはずの制服の袖は綺麗そのもので、傷一つ残っていなかった。
あの事件を境に、雪那の中から「何かが失われている」。
それに気づき、恐怖に震えているのは、たぶん‟世界で僕だけだった“。
「雪那、暑いな……。雪でも降らせてくれないか」
通学路を歩きながら、僕はわざと、彼女の「雪那」という名前にかけた冗談を言ってみた。いつもなら「名前で遊ぶな!」と怒るはずのセリフだ。
「もう、無茶言わないでよ、奏多。……あ、でも、なんかその名前いじり、ちょっと懐かしいかも」
「え……?」
「まったくもう、何ぼーっとしてるの。ほら、学校に行くよ!」
雪那は笑っていた。けれど、その笑顔を見るたびに、僕の胸の奥の空洞が大きくなっていく。彼女の記憶のピースが、一歩歩くたびに、ポロポロと崩れ落ちているような気がしてならなかった。
人類はまだ知らない。「ヤツ」がすぐそこにいて、僕たちの何かを、少しずつ削り取っているということを。
「よぅ、お二人さん。朝から熱烈なデート中か?」
後ろから、気の抜けた、けれどどこか緊張感を孕んだ声がした。
高校の友人であり、あの事件のもう一人の目撃者――宮本健介だった。




