第1話:世界が、暑かった頃……
異変に気が付いたのは、耳の奥を震わせる「音」だった。
じっとりとした湿気と、むせ返るような草木の匂いが立ち込める、夏。
僕はその場所で「奇跡」を見ていた。
――いや、奇跡なんていう、手垢のついた綺麗な言葉では到底物足りない。
それは圧倒的な暴力であり、理性を狂わせる怪異そのものだった。
視界のすべてを覆う、鈍色の空。
その果ては、まるで古びたキャンバスのようにベリベリと音を立てて引き裂かれる。
暗黒の裂け目から覗いたのは、巨大な、あまりにも巨大な人間の「顔」だった。
肉的な温かみを感じさせない、大理石のような青白い皮膚。都市一つを丸ごと飲み込みそうなほどに巨大な、ガラス玉に似た双眸。
その巨大な眼球が、ギチギチと音を立てて動き、地上を――僕たちのことを、明確に見下ろしていた。
全身の血液が、指先から急速に凍りついていくのが分かった。
叫ぼうとしても、喉が引き攣って空気の抜ける音しか出ない。
二〇二七年、七月九日。
人類は宇宙になど、一歩もたどり着いていなかったのだ。僕たちはただ、広大な檻の中で、大きな何かに飼育されていたに過ぎない。
「ヤツ」の巨大な唇が、音もなくゆっくりと弧を描き――。
「――ちょっと、天野 奏多! いい加減に起きなさいってば!」
鼓膜を突き刺すような甲高い声が、狭い部屋の中に響き渡った。
心臓がドックンと大きく跳ね上がる。
肌にまとわりつく嫌な汗と、胸の奥を激しく掻き乱していた絶望的なざわめきが、現実の冷たい空気によって一瞬で霧散していく。
「うわっ……! う、うるさいな……」
視界が明転する。見慣れた天井。
そして僕の視界を塞ぐようにして、すぐ目の前に迫っていたのは、幼馴染の雪那の顔だった。
馬乗りとまではいかないが、僕の布団の上に膝をつき、両手で僕の肩をがっしりと掴んで前後に揺さぶっている。彼女が動くたびに、シャンプーとリンス―の微かな香りが残る長い黒髪が、僕の鼻先をチクチクと掠めた。
「うるさいとは何よ! もう時計の針、何時を指してると思ってるの? 毎日毎日、私がこうして起こしにきてあげなきゃ、あんた今頃出席日数が足りなくて留年確定なんだからね!」
雪那は眉を吊り上げ、真っ赤な顔で怒鳴り散らす。
夢の恐怖から一転して、いつもの騒がしい朝の風景。僕は大きくため息をつきながら、まだ重い体をベッドの上でよじった。
「わかった、起きたから。……っていうか、雪那。 重い」
「なっ――!?」
雪那の動きがピタリと止まる。彼女の顔が、怒りとは別の理由でさらに赤くなっていくのが分かった。
「失礼しちゃうわね! ボランティアで幼馴染の目覚まし時計をやってあげてる美少女に向かって、第一声が『重い』の一言!? レディーを何だと思ってるのよ!」
「美少女は自分で言わないだろ……。ほら、どいてくれ。着替えて学校に行くんだろ」
僕が手を振って促すと、雪那は「ふんっ」と鼻を鳴らして僕の体から退いた。それにより、ベッドがふわりと軽くなる。
彼女が部屋を出ていくのを見届けてから、僕は制服のシャツに腕を通した。
開け放たれた窓からは、容赦のない夏の太陽が差し込んでいる。額の汗を拭いながら、僕はさっきまで見ていた夢を思い返そうとした。
空の裂け目。巨大な顔。
けれど、あの時感じた、心臓を握りつぶされるような恐怖。それは、すでに輪郭がぼやけ始めていた。ただの悪夢だ。最近の暑さで、脳が変な幻覚でも見せたのだろう。そう自分に言い聞かせた……。
廊下に降りると、玄関先で雪那がローファーの踵をトントンと鳴らしながら待っていた。
「遅い! 置いていくわよ!」
「待ってくれって。いま靴履くから」
外に出た、強烈な熱気が僕たちを包み込んだ。
まだ午前八時前だというのに、熱いアスファルトからは陽炎が立ち上っている。ジジジ、と狂ったように鳴き続けるセミの声が、余計に体感温度を上げているようだった。
並んで歩きながらも、僕の視線は自然と上を向いてしまう。
白い入道雲が湧き上がる、どこまでも高い夏の青空。
そこには――当然だが、何もなかった。引き裂かれた痕跡も、僕らを見下ろす怪物もいない。ただ、眩しすぎて目を細めるだけの、いつもの‟空“だ。
何度も空を見上げる僕の様子を、隣を歩く雪那が見逃さなかった。
彼女は歩調を緩め、怪訝そうな顔で僕の顔を覗き込んでくる。
「……どうしたのよ、さっきから」
「え? 何が?」
「何が、じゃない。空なんか見上げてボーっとして。……もしかして、誰かに恋でもしたの? 奏多」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる雪那。
からかわれたのが少し癪だった。僕は、彼女の頭のあたりをじっと見つめ、わざとらしいほど真剣な表情を作ってみせた。
「……雪那。お前の頭に……大きなクワガタがいるぞ」
「えっ――!?」
雪那の顔から血の気が引いた。彼女は虫の類が、この世で一番苦手なのだ。
「ぎゃあああああああ!? 嘘、どこ!? ちょっと、取って、早く取ってよ、奏多ぁ!」
半泣きになりながら、自分の頭を両手で激しくバタバタと叩く雪那。その必死な姿が余りにもおかしくて、僕はついに吹き出してしまった。
「あははは! 冗談だよ、冗談。いるわけないだろ、こんな街中の通学路に」
「……え?」
雪那の動きがピタリと止まる。
彼女の瞳に、ジワジワと怒りの炎が燃え上がるのが見えた。
「しばくぞ、奏多」
「あ、いや、ちょっと待って、雪那、目がマジ――」
言い終えるより早かった。
シュッ、と風を切る鋭い音がしたかと思うと、雪那の強烈な右ストレートが、僕の右頬に正確に直撃した。
「ぶはっ!?」
鈍い衝撃とともに、僕はアスファルトの上に無様に転がった。女の子のパンチとは思えないほどの威力。頰をさすりながら、涙目で彼女を見上げる。
「痛ってぇなぁ! ふざけるなよ、いくらなんでも殴ることはないだろ!」
「うるさい! からかった奏多が百パーセント悪いからね!」
(先にからかったのはどっちだよ)
赤く頬をぷくーっと膨らませ、フンと顔を背けた雪那は、僕を置いてスタスタと先へ歩き出してしまった。長い黒髪が、彼女の怒りに合わせて激しく揺れている。
「おい、ちょっと待てよ! 悪かったって、俺がすべて悪かったから!」
僕は慌てて立ち上がり、ズボンの砂を払いながら彼女の後を追いかけた。
学校の校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替える。
教室の引き戸を開けると、いつものチョークの匂いと、朝の締まりのないざわめきが僕たちを迎えた。
男子生徒がバカ話に興じ、女子生徒がスマートフォンの画面を囲んで笑い合っている。エアコンが効き始めた部屋の涼しい空気が、僕の火照った皮膚を冷やしていく。その、あまりにもありふれた空気が、今朝の夢の残滓を、さらに遠くへと追いやった。
「キーンコーンカーンコーン」
一限目の始まりを告げるチャイムが鳴り、歴史の教師が教壇に立つ。
授業が始まって三十分。ノートの端にシャーペンで適当な落書きをしながら、僕はまた、うつらうつらと眠気に襲われていた。蝉の声が遠くで子守歌のように響く。
空は入道雲は崩れ、曇り空となっていた。
「――おい、そこ。特に窓際の天野」
教壇の上から、チョークを持った先生の鋭い声が飛んできた。
「ここ、次の定期テストに確実に出るぞ!聞いてるのか、天野」
「あ、先生。すみません」
僕はガタッと椅子を鳴らして姿勢を正し、正直に頭を下げ謝った。
「完全に、何も聞いていませんでした」
教室の中に、くすくすと締まりのない笑い声が広がった。
斜め前の席に座る雪那が、呆れたように肩をすくめて振り返り、口パクで『バ・カ』と動かしている。そのさらに隣の席では、親友の健介が、教科書を器用に立てて熟睡していた。
「お前なぁ、奏多……。少しは緊張感というものを――」
先生がため息混じりに僕の名前を呼び直そうとした、まさにその時だった。
――バキバキバキバキ、バキンッ!!!
世界中のすべての硝子を一度に粉砕したかのような、おぞましい轟音が教室中に炸裂した。
「うわああああっ!?」
「キャーーーッ!?」
悲鳴が上がり、教室の左側一面の窓ガラスが、内側に向かって激しく弾け飛んだ。
鋭利な光の破片が、凶器となって生徒たちの机や床に降り注ぐ。僕は咄嗟に両腕で頭を覆い、机の下へと滑り込んだ。皮膚をチクリと切る痛みが走り、生臭い鉄の匂いが鼻を突く。
だが、本当の恐怖は音の後にやってきた。
音が、完全に消えたのだ。
ガラスの擦れる音も、生徒たちの悲鳴も、外の蝉の鳴き声すらも、まるで世界が丸ごとミュートされたかのように静まった。完全なる不協和音。
恐る恐る頭を上げ、割れた窓の外を見上げる。
そこに広がっていたのは、人間の正気を疑わせる光景。
重く垂れ込めていた灰色の雲が、まるで巨大な刃物で引き裂かれたかのように、音もなく左右に二つに裂けていた。
そして、その暗黒の裂け目の向こう側から。
ぬうっ、と。
建物の何十倍、いや、街全体を覆い尽くすほど巨大な、あの青白い人間の「顔」が、じっとこちらの教室を覗き込んでいたのだ。
感情の一切を排除した、ガラス玉のような巨大な眼球が、ゆっくりと動き――僕と、視線がぶつかった。
――夢で見た、あのヤツの顔だ。
砕け散ったガラスの海の中、僕はただ、呼吸をすることすら忘れてその顔を見つめていた。




