1 帰郷
優輝が実家へ戻ったことは、母と祖母を喜ばせた。これまで立入禁止だった離れを使うことを許されたほどである。
離れは、両親が短い新婚生活を送った場所で、父亡き後、ずっと閉めきられていた。
掃除するために優輝が入ると、ぎっしり詰まった本棚や、小型のテーブルがそのまま残っていた。
父が読書家だということは聞いていた。優輝が本を読むのは仕事に関係する時だけである。捨てるのも面倒で勿体無く、父の本棚はそのままにして、自分の本棚を脇に並べることにした。優輝の本棚には、法律関係の書籍がぎっしり詰まっている。
「芥川、太宰……藤村もあるのか。文学青年でしたね、ご先代様は」
「お姉ちゃんったら、本棚拭くのは後でいいから、これ運ぶの手伝ってよ」
本棚に取り付く影美に文句をつけたのは、妹の菊乃である。
青柳家の継主の例に漏れず、地元の大学を卒業と同時に結婚した。優輝が一向に結婚しないからか、まだ子どもを産んでいない。
未だに女子大生のような外見を保っている。
影美とは対照的に華やかな顔立ちで、優輝に熱を上げていた時期もあった。予備校時代ならば後先考えず付き合っていただろう。離れていて正解だった。実際には、何事もないうちに彼女の熱が冷めた。結果としてそれでよかった。
「優輝様、棚の位置はここでよろしいでしょうか……菊乃、そっちへ寄せて」
影美も青柳家へ戻って、優輝の事務所で居候弁護士をすることになった。自分で事務所を持つよう優輝は勧めたのだが、狭い地域に二人も弁護士は要らないと言われて引き下がった。人口や弁護士の数を考えれば、その通りである。
病院で対面した時には、どうなることかと思ったが、翌日には目を覚まして退院した。
双海が推測した通り、桑名美乃利はあちこちで処方された向精神薬を貯め込んで粉々にしたものをコーヒーに入れ、自分で飲んで騒ぎを起こすつもりだったということである。
美乃利自身にも薬に対する耐性があり、飲んだ量も少なかったため、双海が言った通り、すぐに意識を回復したそうである。傷害事件とすることも可能な事案だったが、結局事件にはならなかった。
影美はこの件を徹底的に利用して、桑名を退かせた。美乃利は専門の施設に入院させられ、現在のところ優輝の身の回りには出現していない。
ひとつだけ、警察も桑名も把握していないことがある。影美は、美乃利のやろうとしていることに気付いていた。表向きは客に新しく淹れたコーヒーを差し出したことになっているが、実は薬の入った方を美乃利に飲ませないために交換したのであった。
「薬じゃなくて毒薬だったかもしれない。死んだらどうするんだ」
話を聞いて優輝は蒼くなった。
「彼女が死ねば、優輝様は桑名美乃利に婿入りするしかなかったでしょう。それだけは避けねばなりませんでした。私がいなくても、双海がいますからご心配には及びません」
影美は平然と答えた。ともあれ彼女が死ななかったので、双海はそのまま京都に残って弁護士を続けている。こうなることを前々から覚悟していたらしく、異を唱えることはなかったが、表情は暗かった。
「『儀式』の時には、僕は必ず行きますからね。忘れずに呼んでくださいよ」
藤野家の当主になる十歳の儀式を、優輝はぼんやりとしか覚えていない。双海がこだわる理由がわからなかった。
「これで大体終わりました。如何でしょう、優輝様?」
影美に促されて、優輝は我に返った。使わない物は蔵に仕舞われ、家具もきちんと配置されて、とりたてて不足はないように思われた。
「ありがとう。充分だ。お茶でも飲んでいく?」
「じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「あ、私は遠慮しておきます」
姉妹の反応は対照的だった。優輝の表情から察した菊乃が、殊更軽い調子で言う。
「いいのよ。お館様はお姉ちゃんが気に入らないから、その方がいいわ」
「菊乃」
「だって、本当の事だし。御当代様もここに住むなら、知っておくべきよ」
「き、く、の」
「何故、母は影美が気に入らない?」
影美にたしなめられて膨れた菊乃は、優輝の問いに勢い込んだ。
「いつかお館様がおっしゃっていたわ。優輝様の結婚が遅れているのは、守護人のせいだって。早く孫の顔が見たいのに、お姉ちゃんがいるから、結婚する気が起きないって。まあ、お父さん後で文句言っていたけど」
「それは、違う。僕は弁護士として一人前になるまで結婚を考えられなかっただけだ。もう独立したから、すぐにでも結婚する」
そんなことは私にではなくお館様に言ってください、と菊乃は苦笑した。言いたいだけ言って、気持ちが落ち着いたようであった。
母に宣言するまでもなく、山のような見合い写真が優輝を待ち受けていた。
引越が一段落すると、食後に母の解説を聞きつつ写真と釣り書きを見るのが優輝の日課となった。
「そのお嬢さんはね、お茶も生け花も習っているし……」
揃って着物姿で微笑んでいるせいか、優輝にはどれも同じように見えた。釣り書きの文句も判で押したように、お茶と生け花が趣味とあり、誰に会っても同じではないかと思いもした。
それでも見合いをする気持ちは本気であったので、どうにか候補を選び出し、順番に会ってみることにした。
影美に縁談の予定を告げると、早速スケジュール帳をめくり始めた。
「ではその日は私、お休みをいただきます」
「来てくれるんじゃないの」
「そんな毎回付き合ってはいられません。第一、優輝様が希望してお見合いなさるのに、私の出る幕でもないでしょう。お館様もいらっしゃるでしょうから、私がいても邪魔なだけです」
言うことがもっともなので、反論もしかねた。
当日、県内随一の高級ホテルのレストランで、コース料理を食べながらの見合いとになった。相手は、優輝より五つも年下で、短大を卒業して事務を取っている女性で、伊奈恵梨花といった。母の通う日本舞踊の先生からの紹介である。
今日は釣り書きと違い、淡い色のスーツを着ていたが、写真から受けた印象は変わらず、可愛らしかった。
趣味は例によってお茶と生け花と、日本舞踊である。両親は共働きで普通のサラリーマンということであった。
「お仕事は大変ですか」
まともな見合いは人生初である。弁護士として顧客と面談するのとは調子が違う。何を話したら良いのか思い浮かばない。優輝は世間話のような調子で始めてみる。
「はい。でも、ちゃんとお休みもいただけますので、何とか」
緊張しているのか、俯き加減に小さめの声で答える。ナイフとフォークを持つ手が白くなっている。日本舞踊の先生が気を遣って、一同に料理を勧めた。
それからも頃合を見計らって恵梨花に話しかけたが、会話は弾まなかった。先生と母たちの方がよほど盛り上がっていた。誰の見合いかわからない。
それだけに、縁談を進めたい、と先生から連絡を受けた時には意外に思った。
「農業を手伝ってもらって、うちで同居して欲しいという話、先方に伝えてあるの?」
「言ってあるわよ、もちろん」
影美にも見合いの結果を伝えた。ついでに写真も見せた。
「ああ、好みのタイプですね。優輝様の」
「そうかな」
「修行されていた頃、付き合っていらした方たちは大体こんな感じでしたよ」
予備校時代のことを言っている。次回恵梨花と会う日にも、影美は休みをもらうと言い出した。
「今度は二人きりで会うんだよ」
「いきなり遠出をしたり、暗い場所へ連れ込んだりしませんよね。私がいないことに、少しずつ慣れた方がいいですよ」
もっともな言い分だった。




