8 服毒
嵐のようにミシェル達が去ると、優輝は本格的に退職の準備を始めた。
自分の顧客は村下と長尾に割り振り、それぞれと一緒に挨拶回りをした。
桑名や塩原の補助として働いていた仕事についても、引き続き補助が必要な分は他のものに割り振って引き継ぎをした。長尾の父親の精一にも挨拶に行った。
「元気な顔が見られて良かったわ。青柳さんにもよろしう」
数年ぶりに会ったが、冴えない秘書に至るまで全く変わっておらず、懐かしさで胸が詰まった。自分の机を整頓して、事務所のものと自分のものを分けた。不要になった書類や新聞記事などのコピーも沢山出てきて、全部処分した。
桑名美乃利は、しばらく姿を見せていなかった。優輝が桑名に事情を説明して、専門医にかかるよう勧めたのである。
「可哀想やけど、家に閉じ込めておるんや」
送別会で、それとなく尋ねた時に、桑名が漏らした。美乃利は家で大人しくしているらしい。送別会はふぐちり鍋を囲んで大いに盛り上がった。
桑名は途中で店の人に呼ばれて、一旦戻ってきたが、いつのまにか中座していた。
長尾と村下に誘われ、優輝は二次会まで付き合った。割烹で行われた一次会とはがらりと雰囲気を変えて、今度は村下の行きつけのバーが会場になった。
「ミナミにもこんな洒落た店があるんですわ」
村下は自慢した。表からは想像もつかないが、広い店内にはカウンターのほかにテーブル席もいくつかあり、それぞれが充分な間隔をおいて配置されていた。適度な暗さの照明が、同席者同士の親密さを増す。さりげなく飾られているオブジェも、作り出す影まで計算されているように感じられた。自慢するだけのことはある。
「親元に帰るのやから仕方あらへんけど、あそこは相当田舎やと聞いとります。寂しいのやありまへんか」
ドライマティーニを気取って光にかざしながら、村下が言う。優輝は水割り、長尾は村下に乗せられてレインボーカクテルに挑戦している。
暗い照明の中でも、七種の酒がきれいに七層に分かれているのがわかる。強い酒ばかりで、カクテルとしては量も多い。優輝には飲み干せる自信がない。長尾はもの珍しそうにカクテルを眺めていたが、優輝と村下の話も聞いていたようである。
「大学時代に一緒にアルバイトしていた女性と一緒に帰郷するいうて、親父から聞きましたがな」
「え、そんな女がおったんかい。この間の外人姉ちゃんといい、手が早いというか、女に困らんやっちゃな」
「手は出してへん」
村下に決めつけられ、優輝は釣られて怪しい関西弁で反論した。一次会で皆いい加減酔っていて、影美やミシェルについて細々説明するには至らず、話は別の方向に逸れていった。
「田舎にいったらな、誰でもええ、はよ結婚して落ち着いた方がええで。俺らの同期でも、もうお父ちゃんしとる奴おるでな。都会は遊ぶとこも女もぎょうさんおるけど、田舎はそうもいかんからな」
村下は酔いが深まるにつれて、くどくどと同じ事を繰り返した。
「村下さん、付き合うてる人が九州の出身で、一人娘なんやて」
長尾が優輝に耳打ちした。村下自身は、長尾と同じく大阪の出身である。結婚はしたいが婿養子になって九州へ行くかどうかで揉めているらしい。村下は悪酔いし、優輝と長尾に両脇から抱えられて、タクシーへ放り込まれた。
マンションに戻った優輝は、双海からの伝言を聞いて酔いが吹っ飛んだ。
慌てて病院へ駆け付ける。面会時間外ではあるが、救急で運ばれたせいか、完全看護ではないせいか、弁護士バッジを見せたせいか、ともかくも中へ入れてもらえた。
迎えた双海は憔悴している。
「こんな状態だから、慌てて来なくたってよかったのに」
ベッドには、影美が目を閉じて横たわっている。消灯時間をとうに過ぎて、枕もとだけ照らしているのだが、眩しさに目を開ける様子はない。双海は、手真似で優輝をベッドから遠い部屋の隅へ導いた。個室だから、他に人はいない。
「そんなことを言ったって、『影美様が入院しました。命に別状はありません』だけでは何が起きたかわからないだろう」
「桑名先生から何か聞いていない?」
優輝は、あっと思った。
「いや。そう言えば中座していた。美乃利が何かしたのか」
「僕も肝心な所は見ていなくて……今日の夕方、彼女が事務所へ来たんだよ」
双海に仕事を続けるように言い、影美が応対したのだという。影美はいつものように、先ずは普通の来客と同様、客の分だけコーヒーを淹れて美乃利に差し出した。
「シュークリームを買うてきましたので、コーヒーもご一緒にいかがですか」
と、美乃利が言い、影美は新たにコーヒーを淹れるために席を外した。美乃利は手間取りながらも箱を開いてシュークリームを並べていた。影美が戻ってきて、美乃利のコーヒーを新しく淹れたコーヒーと交換し、がぶりと飲んだ。
美乃利は呆然とした。
「で、ご用件は?」
影美の声に美乃利ははっとして、素早く影美が口をつけたカップを取り上げ、残りを一気に飲み干した。
ごん、と乱暴にカップをテーブルに置き、立ち上がって甲高い声で笑い出した。
「私の方が多くいただきましたわ」
美乃利はソファに崩れ落ちた。影美はさっと立ち上がった。
「双海、救急車を呼べ」
あいにく双海は電話に応対していた。影美は自分で救急車を呼び、何とか電話を終わらせた双海に警察へ通報するよう指示すると、その場に蹲ってしまった。救急隊員が到着した時には、応答ができない状態だった。
「『多分、睡眠薬か鎮静剤だ』と言い残してくれたから、先に到着した救急車の方に状況を伝えて、僕も付き添いたかったけど警察への説明もあって、一通り片付いた後で影美様が運ばれた病院を問い合わせてもらって、さっき来たばかり」
「推測だけど、桑名美乃利は影美様に薬物を飲まされたと騒ぎを引き起こして、優輝の注意を自分に向けようとしたんじゃないかな。家で自殺未遂をしてみせても、優輝様は来ないってわかっていたんだよね」
美乃利の方は、すぐ意識を取り戻し、その後も飲んだ薬物の悪影響はないようである。
桑名は警察から連絡を受けた家の者に呼び出されたに違いない。自分にも声をかけてくれればよかったのに、と優輝は恨む。
「影美様は、守護人として薬物に対する耐性をつけている。桑名先生から、娘の処方薬について情報提供があって、当直の先生が胃洗浄で応急処置を施したから、あとは目が覚めるのを待つしかない。明日には、警察が事情を聞きにくると思う。とりあえず帰って寝た方がいいよ」
影美に意識があれば、今の双海と同じ事を言ったであろう。優輝は胸がモヤっとした。飲みすぎたかもしれない。
「俺はもう抜けるし、うちの事務所で一人くらい欠けても仕事は回るが、お前の事務所は影美とお前がいなくなれば困るじゃないか。今までついていてくれただけで充分だ。俺は従兄妹だし、後は引き受ける。お前こそ帰って休め」
双海は、無言で優輝を見つめた。その探るような視線に、優輝はたじろいだ。だが何か言う前に双海は、
「では、影美様を宜しくお願いします」
と頭を下げ、静かに病室を去っていった。
足音が遠ざかるのを待たず、優輝は影美の枕もとへ近付いた。普通に眠るのと変わらないように見えた。
双海が座っていたと思しきベッド脇の丸椅子に、腰を下ろす。
しばらく観察したが、影美は寝返りも打たず行儀良く眠っている。
髪を解かれ、眼鏡も外されて目を閉じる影美は別人のようである。手を顔の前にかざして動かしてみた。枕もとの灯りで、手は濃い影となって影美の顔をまだらに染める。ぴくりとも動かない。
「苦労をかける」
言葉が漏れた。自分の声に驚いて影美の様子を窺うが、やはり目を覚ます様子はない。微かではあるが、規則正しくかけ布団が上下するところを見ると、深く眠っているのだろう。
歴史ある家同士の決まりごととはいえ、命の危険を冒してまで守らなければならないほどの伝統とは何だろう。
優輝は、自分がそれほどまでの犠牲を払ってまで守られる存在とは、どうしても思えなかった。




