2 縁談
何度か二人で会う間に、優輝は親との同居や家業を手伝う事について少しずつ恵梨花の考えを聞き出して行った。
彼女は、結婚したら仕事を辞めるつもりでいるので、何かする事がある方がよい、と理想的な答えを返した。
その手は白くて細い。実家暮らしで家事経験もさほどないのではないかと思わせる。少なくとも、いきなり農作業をさせるには忍びない手だった。
「ご両親と一緒に暮していると、お料理を作らせてもらえる機会もなかなかないでしょうね」
「いいえ。普段は勤めているので母に作ってもらっておりますが、休みの日などは、私が作って母を休ませるようにしています。今の季節ですと、肉じゃがなどをよく作ります」
五つも年が違うことから、話が合わない、という心配はすぐに消えた。恵梨花は優輝の話を興味深く聞き、優輝も恵梨花の話から新鮮な驚きを得た。一緒にいて気詰まりでもなく、飽きなかった。
結婚するならこの人、と優輝は考えを固めた。見合いは結婚前提だが、改めて恵梨花の気持ちを確認したかった。
いざとなるとなかなか切り出せず、優輝は仕事中にも、ふと恵梨花の姿や声を思い出した。影美には何となく相談する気になれず、彼女も尋ねなかった。
ある日、外回りの仕事から事務所に戻ると、恵梨花が影美と談笑していた。
「ごめんなさい。急に休みが取れたので、連絡もせずに来てしまいました。一度、藤野さんの働く職場を見てみたかったのです」
恵梨花に済まなさそうに言われると、優輝としても咎められない。それどころか、嬉しかった。
「折角ですから、藤野さんとご一緒にお帰りになっては如何ですか、とお勧めしたところです。特に急ぎの仕事もございませんし」
影美がにこやかに言った。優輝は勧めに従い、恵梨花を夕食に連れ出した。彼女に希望を聞き、新装なった駅ビルに入るイタリアンへ行く。
「伊奈さんのご実家に比べると、何もなくて驚いたでしょう。僕の実家はもっと田舎です」
恵梨花の実家は、県庁所在地にある。関東でも、首都を除けば大きい方の都市だ。優輝は、自分の家を見た恵梨花が心変わりするのではないかと懸念した。
「静かな場所は好きです。実家はマンションなので、一軒家に憧れがあります」
またも理想的な答えだった。あまりに都合よく運ぶので、本当だろうか、と不安を感じることもあった。指輪も何も用意していないが、ここでプロポーズしてしまおうか、と優輝は深呼吸した。
「あの、青柳さんとは、従兄妹なのですってね。ずっと結婚されないのですか」
質問の意図が掴めず、優輝は戸惑った。恵梨花は真剣な眼差しである。もしかして、影美との仲を疑っているのだろうか、と思い当たり、優輝は恵梨花を可愛いと思った。
焼き餅を焼かれるくらいには好かれている。
「実は、京都に恋人がいてね。どちらかの仕事が落ち着くまでは、結婚しないつもりみたいだね」
「遠距離恋愛なのですね」
恵梨花が納得した様子なので、優輝はほっとした。前々から、影美の引退後、双海が求婚するだろうと予想していた。影美がそれを受けるかはともかくとして。だから嘘にはならないだろう。
恵梨花が事務所へ遊びに来てから間もなく、影美は事務所を辞めたい、と言い出した。
「独立するのか」
「いいえ。バッジを返納します」
「そんな、勿体無い」
「以前も申し上げましたが、この地域に二人も弁護士はいりません」
「俺が困る」
「優輝様なら、一人でも大丈夫です。どうせあと十年もすれば引退します。少しずつ準備しなければ」
優輝は返す言葉がなかった。『影美様は意味のないことはしません』双海の言葉が脳裡に蘇った。
「わかった。だが、引き継ぎを終わらせるまでは勤めてくれ。給料も退職金もきちんと支払いたい」
「はい」
後任として、向坂美奈が来てくれることになった。彼女は弁護士ではないが、事務職の経験がある。結婚退職して、暇を持て余しているところだ、という話であった。
影美は美奈に事務仕事を一通り教え込んだ後、事務所を辞めると同時に弁護士会へバッジを返納した。
恵梨花はいつもの通り静かに優輝の話を聞いていた。影美が弁護士を辞めた話を聞いても、驚かなかった。
「やはり、遠距離恋愛は大変だと聞きますから、それも仕方ないのでしょう」
双海と結婚するため、影美が辞めたと理解したようであった。確かに、影美はしばらく京都へ行くと言っていた。優輝の胸の辺りがモヤっとする。学生時代を過ごした京都を訪れたい気持ちは、優輝も同じである。社会人になると、お金ができる代わりに自由が減る。気ままな旅行もできない。
「僕らも、近所とは言い難いですね」
内心を顔に表さぬよう気を付け、優輝は話を続けた。今日こそ、プロポーズをするつもりだった。
母からも急かされているし、仲人に立った日本舞踊の先生に感触を探ってもらうと、先方も早く正式に婚約したいと希望しているということだった。
両家で結納する前に、恵梨花の気持ちを自ら確かめたかった。もしプロポーズを恵梨花が受けてくれれば、すぐに婚約指輪を買えるように、今日は恵梨花の地元である大きなデパートの近くで食事をしていた。
欧米のプロポーズだと、婚約指輪を差し出して返事を待つイメージだが、優輝は恵梨花に指輪を選んでもらいたかった。
「藤野さんも、ここまで来ていただくのは大変でしょう。いつもありがとうございます」
「伊那恵梨花さん」
フルネームを呼んだ。緊張で一気に口の中が渇く。恵梨花はいつもと違う優輝の様子に気付かない筈はないのに、落ち着いている。水を一口飲み、優輝は思いきって言った。
「僕と、結婚してくださいますか」
「はい。喜んでお受けいたします」
にっこりと微笑んだ恵梨花は今までで一番可愛かった。優輝としては、もっと恰好いいプロポーズを幾通りも考えてみたのだが、いざとなると簡単な言葉しか出てこなかった。
「優輝さん、とお呼びしてよろしいですか」
「はい。では、早速指輪を買いに行きましょう」
あたふたと席を立とうとする優輝を、恵梨花は優しく引き留めた。
「そんなに慌てなくても、デザートを食べてからで間に合いますわ。優輝さん」
優輝は、名前を呼ばれただけで、飛び上がりたいほど嬉しかった。
それからは忙しかった。仲人に連絡して、互いの家と仲人の家に挨拶し、結納の打ち合わせをし、結納をし、結婚式の日取りを決め、会場を押さえ、出席者を決め、新婚夫婦の為に実家を改築し、その他諸々の事が優輝に降りかかってきた。
影美がいれば、弁護士の仕事は任せきりにできたのに、と時々思ったが、電話番の美奈もよくやってくれていた。
影美はいつの間にか京都から戻ってきているらしかった。もう逐一優輝に連絡はない。事務所を辞めて以来、全く会わなかった。形式上は、未だ優輝の守護人である。勤めを果たしているのだろうか、と優輝はたまに疑問に思いつつも、恵梨花との仲も仕事も順調に進んでおり、実際影美の助けを必要としなかった。
結婚式と披露宴は、最初に二人が見合いしたホテルで六月に行われる手筈となった。
連休が過ぎ、式まで一ヶ月を切ると、徐々に緊張感が高まってきた。既に招待状など当日に向けて動いていたが、細かい打ち合わせで恵梨花に会うと、彼女も緊張しているのがわかった。
披露宴の後、すぐに新婚旅行で海外へ行く予定で、仕事に切りをつける必要があるため、このところ優輝は恵梨花とのデートを控えていた。
恵梨花は結婚準備のため、区切りの良い時期に仕事を辞めている。仕事に忙殺される優輝と違って、色々考える時間もあり、不安も多いだろう、と優輝は打ち合わせで会う日は長く居るよう努めた。
優輝はこれまで自分を抑え、手を握る程度で我慢していた。自分なりに恵梨花を大事にしたかったのである。
恵梨花が誘う風を見せなかったのも一因であった。
式場関係者との最終打ち合わせが思いのほか早く終わったので、優輝は恵梨花と街を散策した。
大通りを少し外れると、広い公園がある。新緑が徐々に濃さを増して行く時期で、一年で最も過ごし易い季節である。
平日の公園には、幼い子どもを連れた母親達の、立ち話をする姿があった。
優輝は空いたベンチを見つけ、塵を払って恵梨花に勧め、自分も隣に腰を下ろした。
子供達は母親が話に夢中になる周辺で、勝手に遊んでいる。
「子どもは可愛いね」
「私たちにも、あんな風に」
ぽつりと恵梨花が言った。
「可愛い子に恵まれるよ、きっと」
優輝は恵梨花の手を握り締めた。恵梨花が向き直ると、思いつめた瞳が優輝を射抜いた。握り返す恵梨花の手に力が篭る。優輝は恵梨花を抱き締めたい衝動に駆られ、母親達の視線を気にしてかろうじて自制した。優輝の気持ちが伝わったのか、不意に恵梨花から力が抜けるのを感じた。
「君の考えていること、多分わかると思う。物事には順番というものがあるからね。僕は恵梨花さんのことをとても大切に思っている。信じて欲しい」
「ごめんなさい。優輝さんがあんまり優しくて、なのに何故か心配になってきてしまったの。でも大丈夫、信じる」
恵梨花は立ち上がった。優輝は実家の前まで一緒に歩いていった。入り口で、恵梨花は立ち止まった。
「式の日まで会えないのね」
「その後はずっと一緒だよ」
「そうね……あの」
恵梨花が声を潜めたので、優輝は上体を折り曲げて耳を寄せた。恵梨花の腕が首にかかった。
「ありがとう」
我に返った時には、恵梨花の後ろ姿を見送っていた。唇に柔らかい感触が残った。優輝は馬鹿みたいにその場に立っていた。それから頬がどうしようもなく弛んできた。




