6 不審者
次の日、桑名は出勤して優輝の顔を見ると渋い顔をしたが、再び呼び出して美乃利との結婚を迫りはしなかった。今日は市民無料法律相談の当番日だったので、優輝は打ち合わせが終わるとすぐ外へ出た。
幸か不幸か、深刻で有料につながるような相談もなく当番を終え、昼食を済ませると携帯電話が鳴った。影美からであった。
「町の方で手頃な物件を見つけたので、私が代理で賃貸契約を結びました。取り敢えず机と椅子だけ入れる予定です。いつこちらへ来られるかわからないので、県の弁護士会には本年度中ということで一応根回しをしておきました。今まで町には弁護士が不在でしたので、縄張りの心配はなさそうです。あと時間があれば、お館様と大お館様にご挨拶して戻ります。他にこちらですることはございますか」
「いや、ない」
「もし急ぎの用があれば、什器は後回しにして、これからすぐ帰りますが」
「いや、ない。折角帰ったのだから、少しそっちでゆっくりすればいいのに」
「そちらに仕事を残しておりますので」
「わかった」
電話は切れた。今の様子では、青柳家には顔を出しそうにない。優輝と違って影美には菊乃という妹がおり、さほど両親を心配する必要がない。菊乃は影美と違って明るく華やかな性格で、しっかり者だった。菊乃に任せておけば青柳家は安泰である。
影美が地元へ戻る手筈を整えた。後は、優輝の方の準備だけである。ちょうどミシェルが来る間、スケジュールを空けているので、そのまま引っ越してしまうのはどうだろうか。
それでは事務所も人数が足りなくて困るだろう。次の居候弁護士が決まって入れ替わりに優輝が独立するのが一番自然ではある。少なくとも、誰か一人入るまではやめられないかもしれない。事務所へ戻って書類仕事を片付けながら、優輝は頭の片隅で独立を告げる時期について考えていた。
午前中事務所を留守にした分、たまった書類を片付けるのに時間がかかり、優輝は外で夕食を取って夜遅く帰宅した。留守番電話にメッセージが残っていた。
双海からであった。電話をください、とあるので掛けてみた。双海は起きていたようで、すぐ電話に出た。
「後をつけられませんでしたか」
のっけから言われて、優輝は反射的に部屋を見回した。もちろん、誰もいない。
「多分。どういうことだ」
「この間の娘がうちの事務所に来たんです。もし差し支えなければ、これからそちらへお伺いしてご説明申し上げたいのですが。念の為、侵入された形跡がないかどうかも調べたいので」
優輝は了解した。双海はすぐにやってきて、無駄口ひとつ叩かずに部屋を調べて回った。部屋の鍵は複製できないタイプのもので、まず素人に侵入は無理である。思っていた通り、誰も入った形跡はなかった。
双海の調査が終わるのを待って、優輝は冷蔵庫から缶コーヒーを二つ出しソファを勧めた。双海は缶を二つとも調べてから、席に座って説明した。
影美がいない間、双海は一人で弁護士事務所を切り盛りするので、大変忙しかった。外回りの仕事を終え、昼食もついでに済ませて事務所へ戻ってくると、妙に着飾った女性が事務所の中を覗き込んでいた。
「うちの事務所に何かご用でしょうか」
女性はびくっとして振り向き、急に尊大な態度で自己紹介した。
「桑名美乃利と申します。こちらに青柳影美という人がおると伺いまして」
双海には後姿だけで美乃利だということはわかっていたが、美乃利は日曜日に双海が同じレストランにいたことに気付いていないようなので、初対面の人間として応対した。
「青柳は出張中です。もし急ぎのご依頼がございましたら、私が承ります」
出張中と聞いて、美乃利の表情が翳った。
「私は、青柳影美という人とお話ししたいのです。いつごろ帰るのですか」
「来週の月曜日にはこちらに出勤している予定ですが、仕事次第なので、戻りましたらこちらから桑名様にご連絡を差し上げるよう申し伝えましょうか」
美乃利は少し脅えた表情になったが、尊大な態度を崩すまいと努力していた。
「結構です。また来ます」
くるりと背を向けて歩み去った。双海がじっと見送っていると、途中で振り返り、双海の視線に気付いて慌てて角を曲がっていった。美乃利の姿が消えたのを確認してから事務所の鍵を開けようとして、鍵穴がいじられているのに気付いた。
素人がクリップか何かを差し込んで開けようとしたような感じである。
双海は、来客を事務所へ入れないことで美乃利に怪しまれるかと内心迷っていたが、鍵穴を見てやはり入れなくてよかったと思い直した。
その後、事務所の中が荒らされていないか一通り確認した。荒らされた形跡はなかった。
机に向かって仕事を始めると、影美から電話があった。桑名美乃利が来たことを話すと、優輝の郵便受けと部屋に注意するよう指示を受けた。
通話をしながらふと外を見ると、美乃利が素早く事務所の前を横切っていくところだった。慌てて電話を切り、事務所に施錠してマンションの入り口へ行ってみたが、美乃利の姿はなかった。
マンションの入り口はオートロック方式で、来訪者は訪問先とインターフォンで話し、訪問先が鍵を解除しないと入れないようになっている。
しかし、片端からインターフォンを押していけば、誰かが開けてくれることもある。
双海は辺りを見回した。美乃利が双海に気付いて姿を隠していることも有り得る。気配は感じられなかった。
既に入っているのか。マンションの各部屋もオートロックなので、鍵の掛け忘れということは有り得ない。
たとえ知らない人が入口から中へ入っても、そうそう部屋へは侵入できない。
双海は、中へ入って確認するのはやめて、郵便受けだけ見て事務所へ戻ることにした。郵便受けは入口の外にあるが、一つ一つ鍵がついており、大人が普通外から手を入れて郵便物を取り出すことはできない。
優輝も影美も双海も、郵便受けには部屋番号しか表示していない。優輝の部屋の郵便受けには、誰かが手を入れようとしたり小扉を開けようとした痕跡が残っていた。小扉にはちゃんと鍵がかかっていた。双海は視線だけ動かして、影美の郵便受けも観察した。同じような痕跡が残っていた。
「桑名美乃利は優輝様と影美様が同じマンションに住んでいることを知っています。父親が弁護士ですから、名簿で調べたのでしょう」
双海は缶コーヒーには手をつけずに説明を終えた。優輝は眠気を飛ばすために缶コーヒーを飲みながら話を聞いていた。もう時刻は深夜を回っている。
「影美はいつ頃帰る?」
「朝一番で戻るそうですから、接続がよければ昼過ぎには」
「桑名の娘は日曜日に影美の顔を見ている。まずいな」
恐らく、優輝に断られた桑名が娘を説得するのに、影美を愛人に仕立てたのだろう。事実はともかく、見合いの席に愛人が来ていたとなれば、美乃利も面白くあるまい。
「変装していましたから、ちょっと見ただけではわかりませんよ。見違えるほど綺麗でした。いつもああいう恰好をしていればいいのに」
双海がうっとりとする。塩原の家から帰った時には、もう影美はいつもの地味姿に戻っていたので、優輝は変装した姿をじっくり見ていない。
こちらが蛙のような桑名と無理矢理向かい合っている間、こいつは綺麗な影美を眺めながらおいしい食事を楽しんでいたのだと思うと、眠気も手伝って優輝は不機嫌になった。
「ついでに禁煙してくれればなお結構だな」
楽しい記憶を追っていた双海は、ようやく優輝の冷たい視線に気付いた。
「影美様は優輝様の守護人ではありますが、藤野家のことも考えておられます。個人に嫌われようとも、全体の利に資することになるならば、全体を取るお方です。影美様は意味のないことはしません」
喫煙に藤野家の利益があるなら説明してもらいたい、と優輝は思ったものの、眠気が差してきたので、反問するのは止めた。双海の方は、すっかり目が覚めた様子であった。
「優輝様の気持ちさえ固まっていれば、桑名美乃利がどういう手を使おうとも、僕と影美様で何とかします。ただ、部屋と郵便受けの戸締り、あと出入りの際には気をつけてください。入口の扉を開けた時に飛び込んでくることも考えられます」
本当に影美が愛人の方が断り易いだろう。いっそのこと、影美と結婚すれば、弁護士も農業も心配ない。ただ、母も青柳家もこぞって反対するだろうし、そもそも互いに恋愛感情を持っていない。
翌日、朝の打ち合わせが終わった後、優輝は塩原と桑名にそれぞれ独立の意向を伝えた。二人とも急な話に驚いていたが、引継ぎも含めて今月いっぱいで辞めることに同意した。
「新人さんが入るまでは、長尾くんと村下くんには頑張ってもらわんとな」
塩原は予定表を繰りながら、送別会の日程を調べ始めた。
桑名は、優輝が帰郷すると聞いてほっとした様子であった。昨日マンションに美乃利が来た事を告げると、たちまち渋面になり、低くうめいた。
「愛人がいるから止めておけ、とわしが説得した筈なのやが」
優輝は愛人の件について敢えて訂正しなかった。桑名は、娘に独立の件を可能な限り伏せておく、と約束した。ミシェル=ブリュガーのお蔭かどうかわからないが、桑名もあれ以来、優輝に美乃利との交際を迫ったり、嫌がらせをすることはなかった。時間をおいて冷静に考えてみると、美乃利も気の毒な状態にあって、親としては遣り切れない思いに違いない、と優輝は桑名に同情した。




