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優輝と影美  作者: 在江
第一章
5/13

5 ミシェル来日

 翌朝、影美は双海に事務所の仕事を任せ地元へ向けて旅立った。

 京都からは、新幹線を乗り継いでも移動だけで一日かかる。最低でも三日は戻ってこない計算であった。これほど遠く影美と離れるのは久し振りである。何も起こらなければよいが、と優輝は漠然と不安を覚えた。


 大阪の事務所へいつもより早目に出勤すると、後輩達が先に来ていて机の上を拭いたり床を掃いたりしていた。優輝も手伝おうとしたが、もう終わりますからと言われて止めにした。ほんの少し前までは、優輝も朝早く出勤して後輩達と同様に机を拭いていたのだ。イソ弁も潮時だな、改めて優輝は思った。


 仕方ないので机に向かって事務仕事をしているうちに、塩原や桑名が出勤してきた。全員揃った所で簡単に打ち合わせをする。最後に桑名が、意味ありげな様子で優輝を自室へ呼んだ。

 優輝にとっては渡りに舟である。自分から出向くのは気分が重かった。


 「最近、ケロは藤野さんがごひいきですね」


 ボス達の姿が見えなくなるや否や、長尾が囁いた。ケロとは桑名のことで、他にヒキなどで表されることもある。優輝は苦笑した。


 「すぐに飽きて放り出されるよ」

 「何や揉めてはるようですな」


 すぐ下の後輩の村下がわざとのんびりした口調で言う。村下は優輝と同年だが、司法修習の期は優輝より下なので、互いに気を遣っている。

 ええっ、と大袈裟に長尾が驚く。後輩達の好奇心を満たさず、優輝は桑名の部屋へ向かった。

 さすがの桑名も、娘と優輝の結婚話を事務所にまでは吹聴していないようである。塩原に告げたのは、おそらく牽制だろう。しばらく前に塩原から皆のいる場所で、冗談めかして結婚相手を紹介しようか、と言われた事がある。

 優輝は冗談のつもりで断ったが、こういう事になるのならば、本気にして紹介してもらった方がマシだったかもしれない。


 桑名は上機嫌に席を勧めたが、優輝は断って立ったままでいた。まずは礼を言う。


 「昨日は私のために、貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」

 「いやなに。家内も娘も君のことを気に入って、今度は我が家で手料理をご馳走しようと張り切っておるのや」

 「お断りいたします」

 「まあ、手料理は結婚したらいくらでも食えるさかい、君の方で美術館へでも連れて行ってもらえるなら、それでも構わん」


 思い切って礼儀としての前置きなしに言ったつもりだったが、桑名は気に留める様子もなく、交際の青写真を描いて見せた。


 「桑名先生、私は二度と美乃利さんとはお会いするつもりはございません。申し訳ございません」

 「何やて? よう聞こえんかったな」


 優輝は、もう一度繰り返した。桑名は豹変し、相手を威嚇する時に使う恐ろしげな顔になった。


 「こんなええ話はないやろが。もう母上も土地家屋一切合財処分してしてもうたのに、今更勝手なことを言うておるのや。面倒見てやった恩も忘れおってからに。娘の心を弄んでおきながら、ようもまあ言えたものやな。今からでもええ、一言謝れば、許してやる。謝れ」


 ここで謝ったら桑名の思う壺だ。怖い顔と怒鳴り声で巧みに誤魔化そうとしているが、謝って許されるのは美乃利との交際である。弁護士が敵に回ると厄介だ、と思いながら優輝は努めて冷静な口調を選ぶ。


 「お言葉ですが、母には土地家屋を売る予定はございません。今までこの事務所で数々の教えを受けましたことは大変ありがたく思っておりますが、それと娘さんとの結婚は別の問題である筈です。娘さんと私は昨日を除き、一度たりとも二人きりで会ったことはございません。昨日も最初から最後まで衆人環視の場所で話をしただけで、お調べになればすぐ分かるでしょう。従って、私に娘さんと結婚しなければならない理由も意思もございません。申し訳ございません」


 最後に一応謝っておいた。桑名は始め、優輝の言葉を遮ろうとしたが、結局止めて反撃の機会を窺っている。何でこんなに俺にこだわるのだろう。


 自分の言いなりになるという見込み違いを認めたくない自尊心からか、それとも牽制のために自慢した塩原への虚栄心からか。それとも俺に惚れたという美乃利のために必死なのだろうか、とまで考えて優輝は自分を叱咤した。相手に同情していては、勝てない。


 「なるほど。君の気持ちは、よお、わかった」


 不気味なほど静かにゆっくりと、桑名は言った。無視も恫喝も効かないと知って、また戦法を変えるつもりである。

 次に出てくるのは大方愛人問題か。この分では、顧客との面談を誰かに代わってもらう必要があるかもしれない。と、内線電話が鳴った。


 桑名は電話の表示を見て小さく舌打ちをしながら受話器を取り上げた。塩原からである。


 「はい、桑名です。え、おりますが、今忙しいので……大使館? はあはあ、わかりました。すぐ行かせます」


 受話器を置いた桑名の顔は、複雑だった。これまで立てた計画が総崩れして、次に何をすべきかわからない状態にあるといった印象を受けた。

 怒りと困惑と何故か媚びの入り混じった表情で、しかも鷹揚さを見せようと努力しながら桑名は、優輝に塩原の部屋へ行くように言った。優輝は目立たぬように用意しておいた昨日の食事代を取り出した。


 「昨日の食事代です。では失礼します」

 「おい」


 一礼した頭を下げたまま、桑名の声が聞こえない振りをして、優輝は素早く退室した。



 塩原は昨日と異なり、きちんとスーツを着て豊富な白髪頭も綺麗に撫で付けていた。優輝はまず、昨日相談に乗ってもらった件について礼を言った。


 「今日も大分桑名に責められたようやね。まあ結局のところ、結婚は両性の合意に寄らなければあかんのやし」

 「はい」


 根本的な指摘で締めて、塩原はすぐに本題に入った。何やらファイルをめくりながら、言う。


 「ところで、フランスの弁護士団体が京都大阪方面へ研修旅行に来るそうや。それで、大使館から弁護士会を通じて、語学に堪能な弁護士を紹介するよう依頼されてな。確か君は英語とドイツ語とフランス語が得意やったな」

 「フランス語は日常会話ぐらいしかできません」

 「そのぐらいでええやろ。どうせ観光旅行や。何せフランス人は英語喋れる癖に何処でもフランス語で通そうとするらしいからな。しょうもない奴らや」


 それは大阪人も同じである。何処へ行っても大阪弁で通すのみならず、大阪の言葉は標準語や、と言って憚らない大阪人も少なからずいることを、優輝は知っている。

 そんな大阪人である塩原がフランス人を批判したので、優輝は内心可笑しくなった。


 「通訳は付くのやけど、法律の専門家とは違うさかい、説明役として弁護士会の方でも押さえておきたいいうことや。それに実を言うと、あちらの弁護士から君の名前が挙がったそうやて。何やあちこちの偉い人に顔の効く弁護士さんらしゅうて、大使館はもちろん、弁護士会でも無下にできんかったらしいわ。君もえらい顔広いなあ」


 心底感心した様子で塩原は言ったが、顔が広いのは優輝ではなく影美である。優輝の守護をさぼっては資格を取りまくり、取得資格の関係で幅広い人脈を持っている。影美も英仏独語に通じ、フランス語については優輝よりも堪能である。


 「具体的な日程は決まっているのでしょうか。私は彼等が大阪にいる間だけ予定を空けておけばいいのでしょうか」

 「ふむ、来日は来週の月曜日から五日間で、大阪空港に着いて水曜日まで大阪や。まさか京都までついてこいとは言わへんやろけど、一応来週はスケジュール空けておいてや。このスケジュール表とメンバー表渡そうか」

 「では、コピーさせてください」


 書類をコピーして原本を塩原に返し、メンバー表を眺めた。ある名前に見覚えがあった。


 MICHELE BRUGER


 「ミシェル=ブルジェ? いや、ブリュガーだ」


 フランス人だけの団体と頭から思い込んでいたため、すぐには気付かなかった。

 ミシェル=ブリュガーはルクセンブルグ出身で、フランスの大学を卒業後、三ヶ月ばかり日本に留学していた。たまたま優輝は彼女を世話した教授のゼミナールを受講していて知り合ったのである。


 そんなに顔の広い人間だったとは知らなかった。当時、彼女は経済法を修得して、弁護士を目指していた。ルクセンブルクの公用語はフランス語であるが、彼女の出身地の母語はドイツ語の方言なので、彼女は英語も含めて三カ国語を話すことができ、留学している間に日本語も少し覚えていた。


 優輝に果敢にアタックしてきて辟易した思い出がある。名字が増えていないところを見ると、今だ独身らしい。自惚れる訳ではないが、また迫られるかも、と不安なような嬉しいような気持ちになる。


 「あ、さっき藤野さん宛てに国際電話がかかってきましてん。何やらよろしく言うてましたで」


 村下がメモをよこした。ドイツ語の走り書きだった。ミシェル=ブリュガーから、来週行くのでよろしく、と連絡先を添えてあった。名前の部分だけカタカナである。ミシェルはフランス語の名前だから、耳で聞いた時、表記に迷って咄嗟に書いたのだろう。


 「ありがとう」


 そう言えば村下はドイツに留学して優輝よりも後の期になったのだ。ミシェルが村下に会うことはない筈だが、言動に気をつけねばなるまい。これ以上、交際関係で問題を増やしたくない。

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