第九話「試合って聞いてないんですけど、って顔してももう遅い」
第九話「試合って聞いてないんですけど、って顔してももう遅い」
「……しあい……?」
メイベルが、世界の終わりでも見たみたいな顔でそう呟いた。
「うん、試合」
「む、むりです……」
「知ってる」
「じゃ、じゃあなんでそんな落ち着いてるんですか……!」
「あたしが慌てても増えるのは混乱だけだから」
「つ、つよい……」
「君が弱すぎるだけだよ」
グラウンドの向こうで、先生がネットの高さを調整している。がたがたと支柱が鳴って、白いネットがぴんと張られていく。その向こうでは、クラスメイトたちがすでに、やる気があるのかないのかわからない温度感でチーム分けを始めていた。
「東ー、そっち人数足りてる?」
「足りてない」
「じゃあ転校生ちゃんこっち?」
「待って」
即答した。
「その振り分け方は危ない」
「えー、なんで?」
「なんでって……」
見ればわかるでしょ、と言いかけてやめる。
うちの、っていうか今のメイベルさん、今にも砂になって崩れそうなんだけど。
「依夜さん……」
「なに」
「うちの、って……」
「心の声漏れてた?」
「はい……」
「忘れて」
「む、むりです……」
なんで頬を赤くしてるの。
そこ照れる要素あった?
澄鈴が隣から真顔でこっちを見た。
「依夜」
「なに」
「今のは不用意」
「監査報告みたいに言わないで」
「事実」
「はいはい」
でも実際、その通りではある。
この子に不用意な言葉を投げると、妙に大事そうに胸の中へしまいこんで、あとで一人で勝手に赤くなったり青くなったりするから危ないのだ。扱いが難しい。繊細というか、反応が全部大きい。
先生がパン、と手を叩いた。
「よーし、じゃあ適当に六人ずつ! 勝ち負けは気にしなくていいからな!」
その“勝ち負け気にしなくていい”っていうの、だいたい気にする人がいる時に言うやつなんだよね。
「よっしゃー、絶対勝つ!」
「いや体育くらい気楽にやろうよ……」
「負けたくないじゃん」
「わたしサーブ苦手なんだけど」
「じゃあ後衛やる?」
ほらいた。
あたしはため息をついて、隣のメイベルを見る。顔色が朝より悪い。というか、もはやほぼ白い。
「とりあえず」
「は、はい……」
「ボールが来たら、避けるより先に手を出す」
「いきなり難易度高いです……!」
「じゃあ顔だけで避けない。避けるなら体ごと」
「それも怖いです……!」
「怖い怖い言ってても始まらないから」
「ひぅ……」
ひぅ、じゃないのよ。
でもこの子、追い詰めすぎると本当に処理落ちするから難しい。
強く押したいのに、押しすぎると固まる。薄いガラスか何かでできてるのかな、と思うくらい繊細だ。
「依夜さん」
「うん」
「もし、わたしが死んだら……」
「バレーで死ぬことはまずない」
「でもボールが顔に……」
「せいぜい痛いだけ」
「痛いんですよね!?」
「そこを今更確認する?」
泣きそうな声で言われても困る。
そんなやり取りをしているうちに、メイベルは結局、あたしと同じチームになった。正確には、あたしが同じチームにした。目の届かない場所に放り込むのはさすがに危険すぎる。
「東と転校生ちゃん同じねー」
「依夜、保護者みたい」
「否定はしない」
クラスメイトに笑われる。
まあ、否定できないのが悲しいところだ。
実際、今のメイベルを一人で野に放つのは、子鹿を大型犬の群れに混ぜるようなものだし。
「はい、位置ついてー!」
試合開始前。
メイベルはコートの後方で、完全に借りてきた猫みたいになっていた。いや、猫の方がまだ肝が据わってるかもしれない。
「……そこ、もうちょい前」
「ま、前ですか……?」
「今の位置だと逆に危ない」
「えっ」
「何もわからないまま急にボール来るから」
「こ、こわいこと言わないでください……!」
「事実なんだよなあ……」
澄鈴が隣の位置で軽く膝を曲げる。
「メイベルさん」
「は、はいっ」
「ボールは予測不能に飛ぶ」
「ひゃっ」
「でも恐怖に支配されると判断が鈍る」
「た、たしかに……」
「だからまず腰を落とす」
「こ、こうですか……?」
ぎこちない。
生まれたての小鹿が見よう見まねでスポーツを始めたみたいな動きだ。
でも、やってる。
「うん、さっきよりいい」
「ほ、ほんとですか……?」
「ほんと」
「……!」
顔がちょっと明るくなる。
単純というか、素直というか。褒めると目に見えて元気になるから分かりやすい。
ピッ、と笛が鳴る。
サーブが飛んだ。
「ひっ」
メイベルが小さく悲鳴を上げる。
でも、逃げなかった。
ボールは前衛の子が受けて、なんとかラリーになる。ぽん、ぽん、と続いた三球目が、ふわりとこちらの中央へ落ちてきた。
「メイベル!」
思わず声を張る。
「えっ、えっ」
視線が泳ぐ。足が止まる。まずい、と思った瞬間――
メイベルが、目をつぶりながら腕を突き出した。
ぼすっ。
変な音がした。
でも、ボールは上に跳ねた。
「ナイス!」
「……え?」
近くの子がすぐに繋いで、相手コートへ返す。点にはならなかったけど、ちゃんとラリーにはなった。
「メイベル、今の!」
「……あ、あたりました……」
「うん」
「と、飛びました……」
「うん」
「……」
「うん」
数秒の間のあと。
「で、できましたぁ……!」
泣きそうな声で言うな。
「泣くほど?」
「だ、だって……!」
「感動してる暇ない、次来る!」
相手は情け容赦なく返してくる。
感動の余韻に浸れるほど、球技はやさしくない。
今度のボールは、わりと本気でメイベルの近くへ飛んできた。
「ひゃあっ」
しゃがみこむ。
「あっ」
ぽす、と後ろに落ちる。
「ドンマイ!」
「おしいおしい」
「今の反応よかったよー」
助かる。
今みたいな場面で責めるタイプがいないのは、本当に助かった。
今みたいな場面で責めるタイプがいないのはありがたかった。体育の空気がもっと殺伐としてたら、この子は開始三分で消し炭だったと思う。
「……すみません」
「謝らなくていい」
「でも……」
「今のは怖いのわかるから」
「依夜さん……」
「なに」
「やさしいです……」
「試合中にそれ言うのやめて」
すぐそういうこと言う。
でも、メイベルはちゃんと立ち上がった。
逃げずに、また構える。
それは本当に偉いと思う。
◇ ◇ ◇
一試合目の途中で、私はだんだん気づき始めていた。
――この子、反応速度そのものは悪くない。
むしろ、ボールが来た瞬間のびくっとする速さはかなりのものだ。問題はそのあと。“怖い”が頭の中を埋め尽くして、せっかく動いた体を止めてしまう。
「……」
なら、やることは一つだ。
「メイベル」
「は、はいっ」
「次、来たら“怖い”って思う前に手」
「えっ」
「考えなくていい。とにかく手」
「そ、そんな無茶な……」
「今まで全部、考えて止まってるでしょ」
「う……」
「だから止まる前に動く」
「……」
メイベルは少し考えて、それからこくりと頷いた。
「……やってみます」
「うん」
次のラリー。
相手のレシーブミスで、ボールが高く浮いてこちらの後方に流れてきた。
メイベルの方だ。
「手!」
叫ぶ。
「っ」
メイベルが反射で両腕を出す。顔は引きつってるけど、ちゃんと目は開いてる。
ぼんっ。
今度は、きれいに前へ飛んだ。
「おおっ」
「今の普通にナイスじゃん」
「最初めっちゃ危なかったのに」
「ちゃんと前に飛んだ」
メイベルが目を見開く。
そのまま前衛の子が返して、一点入る。
「……」
「……メイベル?」
「……いま」
「うん」
「わたしのせいで、いいことが起きました……」
「言い方」
「で、でも……!」
「そうだね。今のはナイス」
「……っ」
その顔を見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ただ世話が焼けるとか、放っておけないとか、そういうのと少し違った。
「……うれしいです」
「うん」
「すごく……」
「うん」
「……うぅ」
「なんで泣く」
「うれしくてぇ……」
「感情が忙しい!」
周りの子たちまで笑っていた。
「転校生ちゃんかわいすぎ」
「リアクション全部でかい」
「守りたくなるってこういうことか……」
わかる。わかるけど、本人の前で言うとさらに固まるからやめてほしい。
澄鈴が隣で小さく頷く。
「依夜」
「なに」
「この子、褒めて伸びる」
「犬のしつけみたいに言わないで」
「でも事実」
「それはそう」
実際、わかりやすいくらい顔に出る。
褒められると動ける。不安になると止まる。
危なっかしいけど、扱い方が見えてくると少し楽だ。
――その時。
「よし、じゃあ次サーブお願い!」
「……え?」
空気が止まった。
全員の視線が、一人に集まる。
メイベルである。
「……わたし?」
「うん、順番」
「……」
「……」
終わったかもしれない。
さっきまでラリーに混ざれたのは、相手から飛んできたボールだったからだ。
でもサーブは違う。自分から打つ。自分で始める。受け身じゃない。それだけで、この子にとっての難易度は一気に跳ね上がる。
「依夜さん……」
「うん」
「てが……」
「うん」
「ふるえて……」
「見ればわかる」
「むりです……」
「……」
正直、あたしもちょっとそう思う。
でも、ここで免除したら、多分この子は一生、“自分から何かする側”に回れない。
「一回だけ」
「え」
「失敗してもいいから、一回だけ打ってみな」
「で、でも……」
「どうせ誰も完璧なんて求めてない」
「……」
「ネット越えなくてもいい。前に飛べば合格」
「合格、低いですね……」
「君には今それくらいでちょうどいい」
メイベルが、ボールを受け取る。
両手で抱えるみたいに持ってる。赤ちゃんか。
周りが少し静かになる。
なんとなく、みんな気づいてるのだ。この子にとって、今の一球がやたら重いことを。
メイベルが息を吸う。
「……えいっ」
声が小さい。
すごく小さい掛け声と一緒に、ボールが上がる。そのまま、おそるおそる手を振る。
――ぽす。
ネットに当たって、手前に落ちた。
「……」
「……」
メイベルの顔が、一瞬でしおれる。
「……だめでした」
「うん、失敗はした」
「うぅ……」
「でも」
私は一歩近づいて、落ちたボールを拾ってメイベルに渡す。
「打てたじゃん」
「……え」
「逃げなかった」
「……」
「それ、さっきのあんたならできなかったでしょ」
「……!」
はっとした顔になる。
たしかに失敗した。
でも、立って、構えて、自分で打った。
それは、ほんの少し前のこの子にはできなかったことだ。
澄鈴も静かに言う。
「一歩進んでる」
「すみれさん……」
「次、もう少しだけ強く」
「……はい」
メイベルが、もう一度構える。
今度は、さっきより少しだけ目が前を向いていた。
「……えいっ」
ぽん。
ボールがふわっと上がる。
ネットの上端にかすって――向こう側へ落ちた。
「入った!」
「えっ」
「うそ!」
「いや本人が一番びっくりしてる!」
本当にびっくりしていた。
メイベルは口を半開きにしたまま、向こう側に落ちたボールを見つめている。
「……はいった」
「うん」
「わたしが?」
「うん」
「……」
「……」
次の瞬間。
「は、入りましたぁぁぁ……!」
泣いた。
「やっぱり泣くんだ」
「うれし泣きならセーフ」
「何その判定基準」
周りも笑って、でもちゃんと拍手してくれた。
その光景を見ながら、私は少しだけ肩の力を抜く。
危なっかしい。
手はかかる。
放っておいたら五秒で不安になる。
でもこの子、ちゃんと前に進めるんだなと思った。
少しずつでも。
ものすごく不器用でも。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、ちょっとだけ……」
「うん」
「体育、きらいじゃないかもです……」
「それは盛りすぎ」
「そ、そうでしょうか……」
「でもまあ」
「……はい」
「ちょっとだけなら、十分すごい」
メイベルが、泣き笑いみたいな顔で頷く。
その時だった。
「東ってさ」
相手チームの子が、なにげない調子で言った。
「転校生ちゃんの扱い、妙に慣れてない?」
――ぎくっとした。
「なんかもう“保護者”通り越して、“飼い主”っぽいというか」
「ちょっと待って」
その表現は訂正したい。
「いやでもわかる」
「めっちゃ面倒見いいよね」
「指示が的確すぎるんだよなあ」
「『手!』で動かしてたのちょっと笑った」
好き勝手言いやがって。
あたしは否定しようとして、隣を見る。
するとメイベルが、なぜか顔を真っ赤にしていた。
いや君、そこで照れるのは違うから。
「め、めいわく……でしたか……?」
「なんでそうなるの」
「飼い主さんというのは、その……」
「だからその単語を受け入れないで」
「で、でも依夜さんになら……」
「待って話を広げないで」
頭が痛くなってきた。
澄鈴が淡々と補足する。
「依夜」
「なに」
「火に油」
「見ればわかる」
「しかも高純度」
「化学実験みたいに言わないで」
クラスメイトがにやにやし始める。
ああもう、嫌な流れだ。
「えー、なになに?」
「転校生ちゃん、東のことめっちゃ信頼してる感じ?」
「なんか懐いてるよね」
「さっきから距離感が独特」
違う。
違うと言いたいのに、メイベルが横でふにゃっと頬を緩めるせいで、説得力がどんどん死んでいく。
「依夜さんがいると……安心するので……」
「ほら見ろって顔するのやめて」
クラスメイトたちの視線が完全に面白がる方向へ向いている。
まずい。
この話題、たぶん一回火がついたら止まらない。
ものすごく面倒な方向に転がる。




