第八話「体育とかいう地獄イベント、サキュバスには難易度高すぎました」
メイベルが、まるで意味の分からない呪文でも聞いたかのように、その単語を繰り返した。
「うん、体育」
「……」
沈黙。
思考停止。
完全にフリーズしている。
「依夜」
「なに」
「この子、止まってる」
「仕様です」
澄鈴が淡々と分析するな。
「……動ける?」
「む、むりです……」
「即答だね」
「だ、だって……体を動かすなんて……! そんなの、日常的にやることじゃないです……!」
「人間はやる」
「わたしは人間じゃ――」
「ストップ」
反射的に一歩踏み込んで、口元を手で押さえた。
一瞬、空気が張り詰める。
メイベルの目が見開かれる。
「……今のはセーフですか?」
「ギリギリアウト寄り」
「す、すみません……!」
「謝らない」
「は、はい……!」
危なかった。
この子、緊張すると口が軽くなる。
でも――ちゃんと止まったのは偉い。
◇ ◇ ◇
更衣室。
ロッカーの開閉音、布の擦れる音、女子たちのざわめき。
日常的な光景の中で――
「……」
「……」
メイベルだけが、完全に異物だった。
ぴたりと固まっている。
「……依夜さん」
「なに」
「こ、ここで……着替えるんですか……?」
「そうだよ」
「み、みんなの前で……?」
「そうだよ」
「む、むりです……」
知ってた。
むしろ予想通りすぎる。
「大丈夫、誰も見てない」
「み、見てます……!」
「見てないって」
「さっきから三人くらい……!」
「それはまあ……見るよね」
正直に言ったら、目に涙が溜まった。
「うぅ……」
泣く一歩手前。
ここで崩れると余計目立つ。
「……こっち」
ロッカーの端、人の視線が通りにくい場所へ連れていく。
「ここなら多少マシ」
「……ほんとですか?」
「多分」
「た、多分……」
不安しかない返答。
「あと、後ろ向いてるから」
「え」
「見ない」
「……」
じっと見られる。
「……依夜さん」
「なに」
「やさしいです……」
「今それ言う?」
「でも……」
「いいから早く」
「は、はい……!」
後ろを向く。
しばらくしても音がしない。
「……終わった?」
「ま、まだです……!」
声がひっくり返っている。
「どこで詰まってるの」
「ど、どうやって着たらいいか分からなくて…!」
なるほど。
メイベルからしたら、こういう服そのものがまだよくわからないのか。
「……貸して」
振り返ると、顔を真っ赤にしたメイベルが固まっていた。
「うごかないで」
「は、はい……!」
指先が少し震えているのが分かる。
「……」
「……」
妙に静かな空間。
「……近いです……」
「作業中」
「は、はい……」
ジャージのチャックを閉めて、一歩下がる。
「はい、完成」
メイベルが自分の姿を見る。
「……なんだか」
「うん」
「すごく……普通の人みたいです……」
「それが目的」
少しだけ、安心したように笑った。
◇ ◇ ◇
グラウンド。
「今日は準備運動してからバレーなー」
先生の声が響く。
「……ばれー……?」
「ボール飛んでくるやつ」
「むりです」
「まだ始まってない」
「でも飛んできます……!」
「飛ぶね」
顔色が一気に悪くなる。
「転校生、大丈夫か?」
「……だ、大丈夫です……!」
「無理そうなら見学でもいいぞ」
「や、やります……!」
「そうか。じゃあ東、少し見とけ」
「なんであたし名指し」
「一番見てるからだ」
先生に気を遣われても、メイベルの顔色は全然戻っていなかった。
「とりあえず準備運動」
「じゅ、準備……」
ラジオ体操が始まる。
「……」
メイベル、再び停止。
「動いて」
「ど、どうやって……」
「見て真似する」
「み、見て……」
周りを見て、ぎこちなく動き出す。
関節がぎくしゃくしている。
ほぼロボット。
見よう見まねで人型を動かしてる初心者みたいな動きだ。
でも――
「……できてる」
「ほ、ほんとですか……?」
「うん、だいぶ変だけど」
「変なんですね……」
「でも動いてる」
「……!」
ほんの少しだけ、表情が明るくなる。
その瞬間。
「はいペア作ってー」
終了のお知らせ。
「……ぺあ……?」
「二人組」
「……」
また固まる。
「一緒にやるよ」
「え……」
「嫌?」
「い、いえ……! むしろ……」
「むしろ?」
「安心します……」
素直すぎる。
ボールを受け取る。
「軽くパス」
ぽん、と投げる。
「……」
見ているだけ。
「取って」
「む、むりです……!」
「飛んでるよ」
「こ、こわいです……!」
ぽす、と地面に落ちる。
「……もう一回」
「は、はい……!」
二回目。
目をぎゅっと閉じる。
「開けて」
「むりです……!」
「開けないと当たるだけ」
「ひぃ……」
恐る恐る目を開ける。
ボールが近づく。
手を出す。
――ぽす。
「……当たりました……」
「それでいい」
「……!」
三回目。
今度はちゃんと見ている。
手も出ている。
――ぽす。
「……!」
「取れた」
「と、とれました……!」
顔がぱっと明るくなる。
「すごい」
「す、すごいですか……?」
「初日でそれなら十分」
「……!」
その時。
「いい感じじゃん」
クラスメイトの声。
「最初めっちゃビビってたのに」
「普通にできてる」
メイベルがびくっとする。
一瞬、逃げそうになる。
でも――
「……が、がんばってます……」
小さいけど、はっきりした声。
逃げなかった。
ちゃんと答えた。
「……ちゃんと返せたじゃん」
思わず口に出た。
「えへへ……」
照れた笑顔。
少しだけ、誇らしそう。
「依夜」
「なに」
「この子、将来有望」
「どこの基準?」
でも、間違ってはいない。
不器用で、怖がりで、すぐ止まる。
それでも――ちゃんと前に進んでいる。
それは、思ったよりずっとすごいことだ。
その時。
「次、試合やるぞー」
先生の声。
「……しあい……?」
メイベルの顔が、再び絶望に染まる。
さっきまでの成長が嘘みたいに消える。
目が震えている。
「依夜さん……」
「なに」
「わたし、しぬかもしれません……」
「大げさ」
「本気です……」
ボールをぎゅっと握りしめる手が震えている。
逃げたいのが丸分かりだ。
でも。
「……やるよ」
あたしは短く言った。
「え……」
「ここまでできたんだから、続きもやる」
「で、でも……」
「大丈夫」
震えてる手を見て、少しだけ息を吐く。
それから一歩、近づいた。
「隣にいる」
メイベルが、少しだけ目を見開く。
「……はい……」
小さく頷いた。
完全に怖がってる顔のまま。
それでも――逃げなかった。
その瞬間、ホイッスルが鳴る。
――地獄、第二ラウンド開始。




