第五十四話「姉さまが逆らえない人」
休日。
あたしは待ち合わせ場所に着いて、最初に思った。
帰りたい。
「……依夜さん」
「なに」
「帰りますか?」
「なんでわかったの」
「顔に出てます」
「出してるからね」
「わざとだったんですね……」
駅前。
時刻は午前十時。
天気は快晴。
雲もほとんどなくて。
休日を過ごすには最高の日だ。
なのに。
これから会う相手を考えると、全然気分が晴れない。
リオノーラ。
由斗のお母さん。
サキュバス。
そして。
『姉さまが絶対に逆らえない人です』
メイベルはそう言った。
ミラベルが。
あのミラベルが。
絶対に逆らえない。
怖すぎる。
「……メイベル」
「はい」
「今からでも仮病使わない?」
「だ、だめです」
「なんで」
「姉さまが」
「うん」
「『逃げたら私まで怒られるから絶対に来なさい』って」
「ミラベルも必死じゃん」
「はい……」
「じゃあ二人で逃げれば?」
「もっと怒られると思います」
「詰んでる」
そこまで言ったところで。
「おはよう」
「ひゃっ!」
メイベルが飛び上がる。
あたしも肩が揺れた。
振り返る。
ミラベルがいた。
「……姉さま」
「何よ、その反応」
「す、すみません」
「謝らなくていいわ」
最近。
ミラベルもそれを言うようになった。
少しだけ。
変わったと思う。
「おはよ」
あたしが言う。
「ええ」
ミラベルはいつも通り。
……に見える。
「……」
「何?」
「緊張してる?」
「してない」
「してるでしょ」
「してないわ」
「顔固いけど」
「元からよ」
「昨日より三割くらい固い」
「東さん」
「なに」
「黙って」
「はいはい」
絶対してる。
というか。
メイベルより緊張してない?
「……あの」
メイベルが恐る恐る聞く。
「リオノーラ様は、怖い方なんですか?」
ミラベルが黙った。
「……姉さま?」
「優しいわ」
「え?」
「とても」
「……」
「すごく」
「……」
「恐ろしいほど優しいわ」
「最後おかしくない?」
ミラベルが遠い目をする。
「怒鳴らない」
「うん」
「威圧もしない」
「うん」
「命令もしない」
「いい人じゃん」
「笑ってる」
「もっといい人じゃん」
「だから怖いのよ」
「意味わかんない」
「会えばわかる」
「その説明が一番怖いんだけど」
ミラベルは答えなかった。
代わりに。
ものすごく嫌そうな顔で。
駅前の時計を見た。
この人がここまで嫌がるなら。
本当に帰った方がいい気がしてきた。
◇ ◇ ◇
待ち合わせ場所は。
駅から少し離れた喫茶店だった。
落ち着いた店。
休日なのに、そこまで混んでいない。
ドアを開ける。
カラン。
ベルが鳴る。
「あ」
奥の席から。
女性が手を振った。
「こっち、こっち」
最初の印象。
綺麗な人。
次。
若い。
どう見ても大学生の息子がいるようには見えない。
輝く白い髪。
柔らかそうな目。
穏やかな笑顔。
服装も派手じゃない。
どちらかというと。
近所で会ったら普通に優しそうなお姉さんだと思う。
「いらっしゃい」
声まで柔らかい。
「ミラベルちゃん、久しぶり」
「……お久しぶりです、リオノーラ様」
……ん?
あたしはミラベルを見る。
背筋。
めちゃくちゃ伸びてる。
普段の偉そうな余裕が消えてる。
「そんな固くならなくていいのに」
「はい」
「最近、連絡少なかったわね」
「申し訳ありません」
「怒ってないわよ?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「私のこと避けてた?」
「いいえ」
「ほんと?」
「……はい」
「ふふ」
「……」
ミラベル。
汗かいてない?
「……依夜さん」
メイベルが小声で言う。
「なに」
「姉さまが」
「うん」
「すごく姉さまじゃないです」
「わかる」
「聞こえてるわよ」
ミラベルが小声で睨んでくる。
怖くない。
今日に限っては全然怖くない。
「まあ」
女性――リオノーラが、あたしたちを見る。
「あなたがメイベルちゃんね」
「は、はい!」
今度はメイベルの背筋が伸びる。
「メイベル=ウエストパラストです!」
「そんな面接みたいにしなくていいのよ」
「は、はい!」
「ふふ」
リオノーラは立ち上がる。
そして。
メイベルの前へ。
「会いたかった」
「えっ」
ぎゅ。
抱きしめた。
「ひゃあっ!?」
メイベルが完全に固まる。
「かわいい」
「え、あ、あの……!」
「ミラベルちゃんから聞いてた通り」
「姉さま!?」
「私は何も」
「小さい頃の話、いっぱい聞いてるの」
「姉さまぁ!?」
ミラベルが目を逸らす。
「……売ったね」
あたしが言う。
「うるさい」
「何話したの」
「別に」
「おねしょ?」
「東さん」
「なに」
「本気で黙って」
「違うんだ」
「違うわ!」
よかった。
そこは妹の尊厳が守られていた。
「メイベルちゃん」
「は、はい……!」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「はい」
「眠れてる?」
「はい……」
「無理してない?」
「……た、多分」
「多分?」
「……少しだけ」
リオノーラが笑う。
「正直で偉い」
そのまま。
メイベルの頭を撫でる。
「……」
メイベル。
完全に処理能力を超えてる。
顔が真っ赤。
目が泳いでる。
これ。
本当に怖い人なのか?
「それから」
リオノーラが。
あたしを見る。
「あなただ」
「……どうも」
「東依夜ちゃん?」
「はい」
「ふふ」
にこにこ。
「会いたかった」
「……」
距離が近い。
なんか。
普通に見られてるだけなのに。
妙に逃げづらい。
「ミラベルちゃんから、たくさん聞いてるの」
あたしはミラベルを見る。
「何言ったの」
「必要な報告だけよ」
「本当に?」
「本当」
「メイベルちゃんを召喚して、一緒に暮らしてるのよね?」
「……はい」
「お世話して」
「まあ」
「泣いたら迎えに行って」
「……」
「いなくなったら探しに行って」
「……まあ」
「一緒にいたいって言ったんですって?」
「ミラベル!」
「私は必要な報告をしただけ!」
「どこが必要なの!?」
「重要事項でしょう!」
「何の!?」
「まあまあ」
リオノーラが楽しそうに笑う。
「素敵ねえ」
「……どうも」
「青春ね」
「やめてください」
「かわいい」
「それもやめてください」
何だこの人。
まだ五分くらいしか会ってないのに。
もう帰りたい。
◇ ◇ ◇
四人で席につく。
リオノーラは紅茶。
ミラベルも紅茶。
あたしはアイスコーヒー。
メイベルは。
「ホットミルクで」
似合いすぎる。
「メイベル」
「はい?」
「そこまでキャラ通りの注文しなくてもいいんだよ」
「えっ?」
「東さん、意味不明なこと言わないで」
ミラベルが突っ込む。
いつもの感じに戻ってきた。
……と思ったのも。
数秒だけだった。
「それで」
リオノーラが言う。
「今日はね」
「はい」
ミラベルの背筋がまた伸びる。
「ミラベルちゃんとお話ししたくて」
「……私と?」
「そう」
笑顔。
「メイベルちゃんじゃなくて」
「……」
「あなた」
ミラベルの表情が。
ほんの少し変わった。
「何でしょう」
「あなた」
リオノーラは紅茶を一口飲む。
カップを置く。
それから。
笑顔のまま。
「妹をいじめたでしょう?」
「……」
ミラベルが止まる。
メイベルも止まる。
あたしも。
「……姉さま?」
「……」
「ミラベルちゃん?」
にこ。
「はい」
「いじめた?」
「……はい」
「泣かせた?」
「……はい」
「追い込んだ?」
「……はい」
「怖がらせた?」
「……はい」
「そう」
カップを置く。
「だめよ」
「……はい」
怖っ。
声。
全然変わってない。
笑ってる。
怒鳴ってない。
責める口調ですらない。
なのに。
空気だけが変わった。
あたし。
ちょっとわかった。
これ。
逃げられないやつだ。
「理由は?」
「……自立させるためです」
「本当に?」
「……」
「ミラベルちゃん」
「……はい」
「本当に、それだけ?」
沈黙。
リオノーラは急かさない。
怒らない。
答えを誘導もしない。
ただ。
待ってる。
それが。
多分。
ミラベルには一番効く。
前回。
あたしは聞いた。
ミラベルが怖かったもの。
メイベルが。
自分がいなくなったら壊れること。
「……違います」
ミラベルが言う。
「うん」
「私が」
「うん」
「怖かったからです」
リオノーラは何も言わない。
「メイベルが弱いままだったら」
「……」
「いつか」
「……」
「私では守れなくなると思って」
少しだけ。
声が震えている。
「私がいなくなった時」
「……」
「この子が一人で立てなかったら」
「……」
「それが」
一度。
息を吸う。
「怖かったんです」
「うん」
「だから」
「……」
「強くしようとしました」
「うん」
「でも」
ミラベルが俯く。
「やり方を」
「……」
「間違えました」
リオノーラは。
しばらく黙っていた。
そして。
「そっか」
それだけ言った。
責めない。
褒めない。
許すとも言わない。
ただ。
聞いた。
「……」
「ミラベルちゃん」
「はい」
「こっち来て」
「……?」
ミラベルが立つ。
警戒しながら近づく。
すると。
「えい」
「……!?」
ぎゅ。
抱きしめた。
「リ、リオノーラ様!?」
「怖かったのね」
「……」
「ずっと」
「……」
「お姉ちゃんだから、ちゃんとしなきゃって」
「……」
「メイベルちゃんより強くて」
「……」
「メイベルちゃんより正しくて」
「……」
「メイベルちゃんを守れる人でいなきゃって」
リオノーラが。
その頭を撫でる。
「頑張ったのね」
ミラベルが。
固まっていた。
抵抗もしない。
できないのかもしれない。
「でも」
リオノーラは。
そのまま静かに言う。
「間違えたら」
「……」
「謝ればいいの」
「……」
「お姉ちゃんだって」
一拍。
「失敗していいのよ」
ミラベルの顔が。
少しだけ歪んだ。
この前。
あたしと話した時よりも。
もっと。
子供みたいな顔だった。
「……はい」
小さな声。
「ごめんなさい」
「私に?」
「……」
「違うでしょう?」
リオノーラが体を離す。
ミラベルが。
ゆっくり。
メイベルを見る。
「……メイベル」
「はい」
「私」
少しだけ。
言葉に詰まる。
あのミラベルが。
何を言うか迷っている。
「あなたに」
「……」
「酷いこと、したわ」
メイベルは黙っている。
「正しいと思って」
「……」
「あなたのためだと思って」
「……」
「これくらいしないと」
「……」
「あなたは変われないって」
一度。
息を吸う。
「勝手に決めてた」
「……」
「でも」
ミラベルの手が。
少しだけ握られる。
「傷つけた」
「……」
「怖がらせた」
「……」
「あなたのためって言いながら」
一拍。
「私が怖くないようにしたかっただけだった」
静かだった。
「……ごめんなさい」
メイベルは。
すぐに答えなかった。
前なら。
きっと。
すぐに「大丈夫です」って言っていた。
姉を安心させるために。
怒らせないために。
謝ってくれた相手を困らせないために。
でも。
今は。
ちゃんと考えている。
自分がどう感じていたのか。
何を言いたいのか。
「……姉さま」
「なに」
「嫌でした」
「……ええ」
「怖かったです」
「……ええ」
「姉さまに会うだけで」
「……」
「何か言われるんじゃないかって」
一度。
唇を結ぶ。
「今でも」
「……」
「思い出すと、少し怖いです」
ミラベルの顔が曇る。
でも。
何も言わない。
否定しない。
「でも」
メイベルは続ける。
「謝ってくれて」
「……」
「嬉しいです」
「……」
「だから」
少しだけ笑う。
「すぐ全部、大丈夫にはできませんけど」
「……ええ」
「これから」
一拍。
「もっと、姉さまと話したいです」
ミラベルが。
少しだけ目を見開く。
「怒ってる時も」
「……」
「怖い時も」
「……」
「嬉しい時も」
「……」
「ちゃんと言えるようになりたいです」
ミラベルは。
少しだけ俯いて。
それから。
「……そう」
「はい」
「わかった」
小さく。
でも。
ちゃんと頷いた。
それを見て。
リオノーラが笑った。
◇ ◇ ◇
「うんうん」
満足そうに頷く。
「よかった」
「……」
あたしは思わず聞く。
「……あの」
「なあに、依夜ちゃん?」
「もしかして」
「うん」
「今日、これが目的ですか」
「半分」
「半分?」
「ええ」
リオノーラが紅茶を飲む。
「ミラベルちゃんが、ちゃんと謝れるか見るのが半分」
「……リオノーラ様」
「だって心配だったんだもの」
ミラベルが気まずそうに目を逸らす。
「じゃあ」
あたしは嫌な予感を覚えながら聞く。
「もう半分は?」
「もう半分は」
にこ。
あたしを見る。
やっぱり嫌な予感。
「あなたのこと」
「……」
「聞きたかったの」
「何を」
「もちろん」
リオノーラの笑顔が。
ほんの少しだけ。
変わった。
柔らかいのに。
妙に。
サキュバスっぽい。
「メイベルちゃんと」
「……」
「どこまで進んでるの?」
「ぶっ!」
アイスコーヒーを吹きそうになる。
「リオノーラ様!」
ミラベルが珍しく声を上げる。
「お、お母さ――じゃなくて、リオノーラ様!?」
メイベルまで混乱している。
「あら」
本人だけ。
にこにこしている。
「大事でしょう?」
「大事じゃない!」
「だって一緒に暮らしてるのよね?」
「それは!」
「毎日一緒?」
「まあ!」
「一緒に学校行って?」
「……はい」
「一緒に帰って?」
「……だいたい」
「同じ部屋?」
「……!」
「依夜さん!?」
「なんであんたが今驚くの!」
「い、いえ! 改めて言われると……!」
「メイベルちゃん」
「は、はい!?」
「依夜ちゃんのこと好き?」
「――っ!」
「リオノーラ様!」
「待って待って待って!」
あたしとミラベルが同時に止める。
「まあ」
リオノーラが目を丸くする。
「息ぴったり」
「嬉しくない!」
「同感よ!」
「姉さま……」
「メイベルは答えなくていいから!」
「は、はい!」
「あら残念」
「残念じゃない!」
「じゃあ依夜ちゃん」
「なんでこっち来るの」
「メイベルちゃんのこと好き?」
「――」
詰まる。
リオノーラの目が。
楽しそうに細くなる。
「……特別では」
「うんうん」
「あります」
「へえ」
「それ以上は」
「うん」
「まだ整理中です!」
「なるほど」
リオノーラが満足そうに頷く。
「青春ねえ」
「だからそれやめてください」
「かわいい」
「それも!」
隣を見る。
メイベル。
顔真っ赤。
ミラベル。
額を押さえてる。
リオノーラ。
満面の笑み。
その瞬間。
理解した。
この人。
怖い。
間違いなく。
怒鳴らない。
脅さない。
無理やり答えさせたりもしない。
ただ。
笑顔で。
こっちが一番答えづらいところに。
ものすごく自然に入ってくる。
「……ミラベル」
「何よ」
「ちょっとわかった」
「何が」
「あんたが逆らえない理由」
「……でしょうね」
ミラベルが。
心底疲れた顔で紅茶を飲む。
「あら?」
リオノーラが笑う。
「二人とも、何のお話?」
「何でもないです」
「何でもないわ」
また。
あたしとミラベルの声が重なった。
「ふふ」
リオノーラが楽しそうに笑う。
怖い。
本当に。
ミラベルより。
別の意味で。
ずっと怖い。
そして。
多分。
今日一番怖いのは。
この人との話が。
まだ終わった感じが。
全然しないことだった。




