第五十五話「サキュバス母、東家襲来」
休日の朝。
あたしは玄関に、紙を一枚貼りつけた。
『本日、来客につき兄の暴走厳禁』
我ながら完璧な注意書きだと思う。
目線の高さ。
読みやすい太字。
言い逃れのできない簡潔な文章。
これで今日の平和は守られる。
「依夜ちゃーん!」
背後から、やたら楽しそうな声がした。
「何、この貼り紙!」
「読めばわかるでしょ」
「お兄ちゃんのこと?」
「他に誰がいるの」
「ひどい! 僕、そんなに暴走する?」
「する」
「即答!?」
朝輝が胸を押さえる。
休日だというのに、髪は綺麗に整っているし、服装も妙にお洒落だ。
大学生モデルの無駄遣いである。
「……ところで依夜ちゃん」
「なに」
「今日来るのって、由斗のお母さんなんだよね?」
「そうだけど」
「楽しみだなあ」
「……あんた、会ったことないの?」
「あるよ。何度か」
「じゃあ何が楽しみなの」
朝輝がにっこり笑う。
「だって、今日はサキュバスのお母さんとして来るんでしょ?」
あたしは固まった。
「……あんた」
「ん?」
「由斗のお母さんがサキュバスって、知ってたの?」
「うん」
「いつから!?」
「結構前かな」
「なんで言わないの!」
「聞かれなかったから」
こいつ。
本当に。
「……メイベル」
「は、はい!」
ソファに座っていたメイベルが飛び上がる。
「今日の目標、変更」
「えっ」
「リオノーラさんより先に、あたしが兄さんをどうにかする」
「そ、それは……難しそうです」
「正直だね!」
朝輝だけが楽しそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
午前十一時。
インターホンが鳴った。
「来た!」
朝輝が真っ先に立ち上がる。
「待って! あたしが出る!」
「依夜ちゃん、そんなにお兄ちゃんを独り占めしたいの?」
「日本語通じてる!?」
玄関へ向かう。
ドアを開けると。
「あら、こんにちは」
リオノーラさんが、にこやかに立っていた。
淡い色のワンピース。
柔らかな笑顔。
手には綺麗な紙袋。
隣には、ミラベル。
そして。
「……どうも」
眠そうな由斗がいた。
「……由斗さん?」
メイベルが驚く。
「なんで一緒に?」
「母さんに連れてこられた」
「息子なんだから当然でしょう?」
「……昼まで寝たかった」
「もう十一時よ?」
「まだ朝」
相変わらずだ。
「いらっしゃい」
あたしが言う。
「お邪魔しますね、依夜ちゃん」
リオノーラさんが笑う。
その後ろでミラベルが小声で言った。
「東さん」
「なに」
「今日は余計なこと言わないで」
「あんた、それ毎回言うね」
「毎回心配なのよ」
「自分の心配したら?」
「……してるわ」
珍しく素直だった。
先日の喫茶店での一件以来、ミラベルはリオノーラさんの前だと妙に大人しい。
まあ、気持ちはわかる。
あの人は怒鳴らない。
無理に威圧もしない。
ただ、こちらが一番触れられたくない部分を、笑顔で正確に見つけてくる。
サキュバスって、みんなああなの?
メイベルを見る。
あたしの後ろで緊張している。
……いや。
多分違うな。
◇ ◇ ◇
「莉緒さん!」
リビングへ入った瞬間、朝輝が両手を広げた。
「あら、朝輝くん!」
「お久しぶりです!」
「相変わらず綺麗ねえ」
「莉緒さんこそ!」
二人が笑顔で近づく。
そして。
ぎゅっ。
普通に抱き合った。
「……」
「……」
あたしとメイベルが固まる。
ミラベルは顔を覆った。
由斗は欠伸をした。
「……あんたたち」
あたしは低い声で言う。
「初対面じゃないにしても距離近すぎない?」
「あら」
リオノーラさんが首を傾げる。
「久しぶりだから」
「そうそう」
朝輝が頷く。
「挨拶だよ、依夜ちゃん」
「どこの国の挨拶!?」
「サキュバスの?」
「疑問形で答えるな!」
リオノーラさんが楽しそうに笑った。
「ふふ。依夜ちゃんって、本当にかわいいわね」
「やめてください!」
「朝輝くんにそっくり」
「どこが!?」
「反応が」
「それは嫌!」
朝輝が嬉しそうに胸を押さえる。
「依夜ちゃん、僕たち似てるって!」
「喜ぶな!」
その時。
「……母さん」
由斗がぼそっと言った。
「ほどほどに」
「あら、由斗」
「依夜ちゃん、疲れてる」
「まあ」
リオノーラさんがあたしを見る。
「ごめんなさいね」
「……いえ」
助かった。
初めて由斗が救世主に見えた。
「……由斗さん」
「ん」
「ありがとう」
「……慣れてるから」
その一言に、妙な重みがあった。
◇ ◇ ◇
お茶の時間。
リオノーラさんのお土産は、綺麗な焼き菓子だった。
苺、バニラ、チョコレート。
小さな箱に色とりどりのお菓子が並んでいる。
「メイベルちゃん、どれがいい?」
「えっ」
メイベルが箱を覗き込む。
少し迷ってから。
「……これが」
「苺の?」
「はい」
「じゃあどうぞ」
「ありがとうございます!」
メイベルが嬉しそうに受け取る。
その横でミラベルが言った。
「メイベル、あなた昔から苺ばかりね」
「……好きなので」
「知ってるわ」
「……」
少し間があって。
「姉さまは、バニラですよね」
ミラベルの手が止まる。
「……そうだけど」
「これ、バニラのクリームが入ってるそうです」
メイベルが箱を差し出す。
「姉さま、どうぞ」
ミラベルは一瞬、驚いた顔をした。
それから。
「……ありがとう」
小さく言って受け取った。
あたしは、そのやり取りを見ていた。
少し前なら。
メイベルは姉の顔色を窺って、自分が食べたいものを譲っていたと思う。
でも今日は違う。
自分は苺を選んで。
姉の好きなものも覚えている。
どっちも、無理していない。
「……いいわねえ」
リオノーラさんが微笑む。
「姉妹って」
ミラベルが少し照れたように目を逸らした。
「……昔は、こんなふうじゃなかったです」
メイベルがぽつりと言う。
「そうなの?」
「はい。姉さまの前では、何を選べばいいかわからなくて」
ミラベルが黙る。
「でも、今は」
メイベルが苺のお菓子を見つめる。
「自分が好きなものを選んで、それを姉さまに言えるのが、嬉しいです」
「……そう」
ミラベルは短く答える。
でも。
その声は、少しだけ柔らかかった。
◇ ◇ ◇
「ところで」
朝輝が口を開いた。
「莉緒さん、サキュバスって恋愛相談も得意なんですか?」
あたしは嫌な予感がした。
「もちろん」
「じゃあ、ぜひ相談したいことが」
「兄さん」
「なあに、依夜ちゃん」
「あんたの恋愛相談なら外でやって」
「僕のじゃないよ」
「……」
「依夜ちゃんの」
「やっぱり!」
朝輝が満面の笑みを浮かべる。
「最近、メイベルちゃんとすっごく仲良しだから」
「普通でしょ!」
「同じ部屋で暮らして」
「事情があるの!」
「毎朝一緒に学校行って」
「同じ学校だから!」
「帰ってきたら二人で並んで座って」
「それは……!」
言葉に詰まる。
その隙を逃さず。
「あらあら」
リオノーラさんが微笑んだ。
「素敵ねえ」
「素敵じゃないです!」
「依夜ちゃん」
「はい!?」
「メイベルちゃんといると、楽しい?」
「……」
急に。
普通の質問だった。
「……楽しいです」
「安心する?」
「……まあ」
「一緒にいたい?」
メイベルが、隣で息を呑む。
あたしは少しだけ視線を逸らした。
「……いたいです」
リオノーラさんは嬉しそうに頷いた。
「それなら、今はそれでいいんじゃない?」
「……え」
「名前をつけるのは、急がなくてもいいのよ」
意外だった。
もっとからかわれると思っていた。
「好きっていう気持ちには、いろんな形があるもの」
リオノーラさんがメイベルを見る。
「ねえ?」
「……はい」
メイベルが小さく頷く。
「わたしも……まだ、ちゃんとはわかりません」
「うん」
「でも、依夜さんと一緒にいたいです」
その言葉に。
胸が少しだけ温かくなる。
「……あたしも」
小さく返す。
すると。
「きゃあ!」
朝輝が両手を合わせた。
「尊い!」
「台無し!!」
あたしはクッションを投げた。
朝輝は笑顔で受け止めた。
「依夜ちゃん、照れ隠しが激しい!」
「黙れ!」
「……朝輝」
由斗がサンドイッチの皿を運びながら言う。
「そろそろ本当に怒られる」
「ええ? もう怒られてるよ?」
「……もっと」
「それは怖いね!」
怖がってない。
◇ ◇ ◇
昼食は、朝輝が用意したサンドイッチだった。
無駄に盛りつけが綺麗だ。
卵、ハム、野菜。
皿の端には小さな飾り切りまである。
「……朝輝、器用だな」
由斗が眠そうに言う。
「由斗も食べなよ」
「……食べる」
「もっと褒めていいよ?」
「……うまい」
「ありがとう!」
朝輝は満足そうだ。
その隣で、リオノーラさんが息子を見つめていた。
「由斗、ちゃんと学校に行ってる?」
「……行ってる」
「朝は起きられてる?」
「……だいたい」
「ご飯は?」
「……食べてる」
「本当?」
「……朝輝が見てる」
リオノーラさんの視線が朝輝へ向く。
「あら、ありがとう」
「いえいえ!」
「由斗のこと、よろしくね」
「もちろんです!」
あたしは思わず言った。
「……なんか、朝輝が由斗の保護者みたい」
「依夜ちゃん」
「なに」
「僕、面倒見るの得意だから」
「知ってる」
「依夜ちゃんもずっと見てきたし」
「頼んでない!」
「ふふ」
リオノーラさんが笑う。
「朝輝くんは、お世話するのが好きなのね」
「そうですね」
「でも」
リオノーラさんは、少しだけ声を落とした。
「相手が一人で歩きたい時は、手を離してあげてね」
朝輝が一瞬だけ黙る。
いつもの軽い笑顔が、少しだけ薄くなる。
「……そうですね」
それから。
穏やかに頷いた。
「気をつけます」
あたしは少し驚いた。
朝輝が、素直に聞いた。
以前のあたしたちのことを、思い出したのかもしれない。
この人。
やっぱりただ者じゃない。
◇ ◇ ◇
午後。
メイベルが台所でお茶を淹れようとしていた。
「あ、メイベル」
あたしが立ち上がる。
「手伝おうか?」
「……」
メイベルは少し考えた。
「ありがとうございます」
「うん」
「でも、今日は自分でやってみたいです」
「そっか」
あたしは座り直す。
「じゃあお願い」
「はい!」
メイベルは慎重にお湯を注ぐ。
少し手が震えていたけど。
こぼさなかった。
茶葉の量を確かめて。
カップを並べて。
一つずつ運んでくる。
「できました……!」
「お疲れ」
「ありがとうございます!」
リオノーラさんが、その様子を静かに見ていた。
「……ミラベルちゃん」
「はい」
「いい子ね、メイベルちゃん」
「……はい」
「あなたも、ちゃんと見てあげてね」
ミラベルは妹を見る。
そして。
「……ええ」
少しだけ笑った。
「今度は、ちゃんと」
メイベルが、その言葉を聞いて顔を上げる。
「姉さま」
「何?」
「今度、姉さまにもお茶を淹れたいです」
「……そう」
「練習します」
「無理に上手くならなくていいわ」
「はい」
「失敗したら、一緒に片づければいいもの」
メイベルが目を丸くする。
そして。
嬉しそうに笑った。
「……はい!」
◇ ◇ ◇
夕方。
帰り際になって、リオノーラさんがあたしに言った。
「依夜ちゃん」
「はい」
「今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「とても楽しかったわ」
「……それならよかったです」
リオノーラさんは微笑む。
「あなたたちを見て、少し安心したの」
「……何がですか」
「メイベルちゃんのこと」
あたしは黙って聞く。
「あの子、ずいぶん変わったでしょう?」
「……はい」
「でもね」
リオノーラさんは、優しく言った。
「変わったから大切なんじゃないのよ」
「……」
「変わる前から、大切だったの」
その言葉に。
あたしは少しだけ目を見開いた。
「ミラベルちゃんも、ようやくそれを伝えられるようになったみたい」
リオノーラさんは笑う。
「あなたにも、ありがとうを言いたかったの」
「……あたしだけじゃないです」
「ええ。知ってるわ」
それから、頭を撫でようとして。
あたしが一歩下がると、楽しそうに笑った。
「ふふ。そこは譲らないのね」
「子供扱いは嫌なので」
「わかったわ」
最後に。
「また遊びに来てもいい?」
と聞かれた。
あたしは少し迷ってから答える。
「……朝輝が暴走しなければ」
「約束はできないわねえ」
「そこはしてください!」
リオノーラさんの笑い声が、玄関に響いた。
◇ ◇ ◇
夜。
メイベルと二人で、リビングのソファに座っていた。
「……依夜さん」
「なに」
「今日、楽しかったです」
「そうだね」
「リオノーラ様も、優しかったです」
「うん」
「……少し怖かったですけど」
「わかる」
二人で笑った。
しばらくして。
メイベルが、そっとあたしの袖をつまんだ。
「……依夜さん」
「なに」
「今日、リオノーラ様が言っていたこと」
「どれ?」
「好きには、いろんな形があるって」
「……うん」
メイベルは少しだけ顔を赤くする。
「わたし、まだよくわかりません」
「……あたしも」
「でも」
メイベルがあたしを見る。
「わからないままでも、一緒にいていいですか?」
あたしは少し笑った。
「当たり前でしょ」
「……はい」
「それに」
「……?」
「あんたが一緒にいたいって言ってくれるなら」
少しだけ、顔が熱くなる。
「あたしも、ちゃんと選ぶから」
メイベルの目が潤む。
「……依夜さん」
「泣く?」
「……少しだけ」
「いいよ」
メイベルが、そっとあたしの肩に寄りかかった。
あたしは動かなかった。
守るとか。
守られるとか。
そういうことを考えずに。
ただ、隣にいる。
それが今は。
一番自然だった。
――その時。
スマホが鳴った。
ミラベルからだ。
『東さん。ひとつ忠告しておくわ』
「……何」
続きが届く。
『リオノーラ様、あなたたちをかなり気に入ったみたい』
嫌な予感。
『次はサキュバスとしてのメイベルについて、ちゃんと話したいそうよ』
あたしは画面を見つめた。
「……メイベル」
「はい?」
「あんた、サキュバスだよね」
「……はい」
「そういえば」
あたしは、今さらながら気づいた。
「サキュバスって、結局何ができるの?」
メイベルの顔が。
みるみる真っ赤になった。
「……そ、それは」
「うん」
「……あの」
メイベルが両手で顔を覆う。
「依夜さんには、まだ言えません……!」
「なんで!?」
どうやら。
あたしたちはまだ。
肝心なことを知らないまま、一緒に暮らしていたらしい。




