第五十一話「姉だって、正しくなんかない」
その日の放課後。
メイベルは珍しく、先に澄鈴と帰った。
理由は簡単だ。
昼休みに手伝った委員会の資料がまだ少し残っていて、そのまま澄鈴と一緒に片づけて、途中まで帰るらしい。
「……依夜さん」
「なに」
「先に帰っても、大丈夫ですか」
「なんであたしに許可取るの」
「……あ」
メイベルが固まる。
それから、少しだけ考えて。
「……自分で、決めました」
「うん」
「澄鈴さんと帰ります」
「じゃあ行ってきな」
「はい……!」
そう言うと、メイベルは少しだけ嬉しそうに笑った。
ほんの数日前なら。
あたしと別行動するってだけで、もう少し不安そうだったと思う。
「帰ったら連絡します」
「うん」
「無理そうになったら」
「澄鈴に言う」
「……はい」
「それでも無理なら?」
「……依夜さんに、連絡します」
「よし」
横で澄鈴が言う。
「過保護」
「あんたにだけは言われたくない」
「私は適切」
「自分で言うんだ」
「事実」
「便利だな、その言葉」
メイベルが小さく笑った。
「じゃ、じゃあ」
「うん」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「……はい」
二人は教室を出ていった。
あたしは、その背中をしばらく見送る。
メイベルは一度だけ振り返った。
でも。
あたしが手を振るより先に、自分で前を向いた。
それを見て。
なんとなく。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
前なら。
メイベルが自分だけで帰るっていうだけで、あたしの方も妙に落ち着かなかった。
本当に大丈夫かな。
途中で不安にならないかな。
何かあったら。
そんなことばかり考えていた。
でも今は。
まあ、澄鈴もいるし。
何より。
メイベルが自分で「行く」と決めた。
それなら。
信じていい。
「……成長したわね」
後ろから声。
「うわ」
思わず変な声が出た。
振り返る。
ミラベルが、頬杖をついてこっちを見ていた。
「何その反応」
「急に入ってこないで」
「ずっといたけど」
「気配消さないでよ」
「消してないわよ」
「存在感が嫌な方向に薄いんだよ」
「失礼ね」
相変わらず腹立つ。
「……で」
あたしは鞄を持ち上げる。
「なんか用?」
「別に」
「じゃあ帰る」
「待ちなさい」
即止められた。
「用あるじゃん」
「少しだけ」
ミラベルはゆっくり立ち上がる。
「付き合いなさい」
「なんで命令形なの」
「姉だから」
「あたしの姉じゃない」
「細かい」
「そこは細かくない」
でも。
いつもなら、そのまま無視して帰るところを。
今日は。
なんとなく。
ついていくことにした。
◇ ◇ ◇
連れていかれたのは、自販機のある談話スペースだった。
前にも来たことがある。
放課後だからか、今日は誰もいない。
窓から夕方の光だけが入っている。
ミラベルは自販機の前で少し迷って。
缶のミルクティーを二本買った。
一本を、あたしに差し出す。
「……なにこれ」
「奢り」
「怖」
「失礼ね」
「何企んでるの」
「人が素直に奢った時くらい受け取りなさい」
「素直?」
「何か文句ある?」
「いっぱい」
でも受け取る。
冷たい。
指先に缶の水滴がつく。
「で」
あたしは壁にもたれる。
「話って何」
ミラベルはすぐには答えなかった。
缶を開けて、一口飲む。
珍しく。
少しだけ言葉を選んでいるように見えた。
「……メイベル」
「うん」
「変わったわね」
「そうだね」
「あなたが来てから」
「……」
その言い方をされると。
少しだけ居心地が悪い。
「別に、あたしだけじゃないよ」
「わかってる」
「澄鈴も」
「ええ」
「朝輝も」
「ええ」
「由斗も」
「……ええ」
一瞬。
由斗の名前だけ、微妙に間があった気がした。
でも。
今は流す。
「だから」
あたしはミルクティーの缶を指で回す。
「あたしの手柄みたいに言うのは違う」
「そういうところよ」
「何が」
ミラベルが、小さく笑う。
「あなた」
「……」
「自分だけの手柄にしない」
「普通でしょ」
「普通じゃないわよ」
「……」
声が。
少しだけ低くなる。
「少なくとも」
「……」
「私には、できなかった」
あたしは。
そこで初めて。
ミラベルの顔をちゃんと見た。
いつもの余裕が。
少しだけ薄い。
人の弱いところを見つけて。
正しいことを言って。
先に相手を揺らして。
絶対に自分は崩れない。
そんな顔じゃない。
「……何」
あたしは聞く。
「それ」
「なにが」
「負けたみたいな顔」
「してない」
「してる」
「してないわよ」
「してるって」
「……」
ミラベルが黙った。
珍しい。
本当に。
「……聞いていい?」
「何を」
「なんで」
一度、息を吐く。
「あそこまでメイベルに厳しかったの」
ミラベルの指が。
缶の表面をゆっくりなぞる。
「好きだから、だけじゃないでしょ」
「……」
「前にも言ったけど」
「……」
「好きな妹を」
一度言葉を選ぶ。
「壊れそうになるまで追い込むって」
「……」
「普通じゃない」
ミラベルは少しだけ目を細めた。
「あなたに普通を語られるとは思わなかった」
「どういう意味」
「褒めてない」
「知ってる」
少しだけ沈黙。
遠くで。
誰かが廊下を歩く音がする。
それが消えてから。
「……昔」
ミラベルが言った。
その一言で。
空気が少し変わった。
「私たちのところに」
「うん」
「メイベルみたいな子がいた」
あたしは黙って聞く。
「弱くて」
「……」
「自信がなくて」
「……」
「誰かに愛されることでしか、自分を保てない子」
それ。
今までのメイベルに近い。
というより。
かなり近い。
「その子は」
ミラベルの声が。
少しだけ遠くなる。
「ずっと誰かに守られてた」
「……」
「何をしても許されて」
「……」
「失敗しても、大丈夫って言われて」
「……」
「その人がいる間は」
一度、目を伏せる。
「それでよかった」
嫌な予感がする。
「でも」
ミラベルは、缶を少し強く握る。
「その人がいなくなった」
「……」
「突然」
短い言葉。
それだけで。
だいたいわかった。
「……それで」
「壊れたわ」
即答だった。
「本当に」
「……」
「何もできなくなった」
ミラベルは窓の外を見る。
「食べることも」
「……」
「眠ることも」
「……」
「自分で何か決めることも」
その横顔は。
今まで見たどのミラベルより。
少しだけ遠かった。
「誰かに聞かないと」
「……」
「何を食べるかも決められない」
「……」
「どこへ行くかも」
「……」
「何をしたいかも」
少しだけ。
声が掠れる。
「最後は」
一拍。
「誰かに選ばれない自分には、価値がないって」
「……」
「そう思い込んだまま」
そこで。
ミラベルは言葉を切った。
続きは。
聞かなくてもいい気がした。
「……」
あたしは缶を握る。
冷たさが、手のひらに残る。
「それを」
「……」
「見たんだ」
「ええ」
「メイベルと重ねた?」
「……」
ミラベルは答えない。
でも。
その沈黙が。
答えだった。
◇ ◇ ◇
「だから」
しばらくして。
ミラベルが言う。
「私は」
「……」
「メイベルを、そうしたくなかった」
「……」
「弱いなら」
「……」
「弱いままでも、一人で立てるように」
「……」
「誰かがいなくなっても」
「……」
「自分で生きられるように」
一度。
ミラベルが息を吐く。
「そうしないといけないと思った」
あたしは少しだけ眉をひそめる。
「それで」
「……」
「追い込んだ?」
「ええ」
「最悪じゃん」
「知ってる」
即答。
逆に驚く。
「……知ってるんだ」
「当たり前でしょ」
ミラベルが、少しだけ苦笑する。
「私だって」
「……」
「正しいと思って全部やってたわけじゃない」
その言葉。
かなり意外だった。
「じゃあなんで」
「他に方法を知らなかったから」
簡単に言う。
「……」
あたしは言葉に詰まった。
「私が教わったのは」
「……」
「強くなれ」
「……」
「価値を持て」
「……」
「必要とされる側になれ」
ミラベルは自嘲気味に笑う。
「それだけ」
ああ。
そういうことか。
メイベルだけじゃない。
ミラベルも。
同じ価値観の中で育った。
ただ。
メイベルは“できない側”になって。
ミラベルは“できる側”になった。
それだけ。
できるから。
褒められる。
できるから。
期待される。
できるから。
妹を守る側でいなきゃいけない。
ずっと。
「……あんたも」
「なに」
「しんどかったんじゃないの」
「……」
「できる側」
ミラベルの笑みが止まる。
少しだけ。
図星だったらしい。
「失敗できないし」
「……」
「弱いって言えないし」
「……」
「妹の前じゃ、ずっと正しくいなきゃいけない」
「……」
「そういうの」
一拍。
「結構きついでしょ」
ミラベルが。
ゆっくりこっちを見る。
「……東さん」
「なに」
「人の痛いところ」
「……」
「突くようになったわね」
「あんたに教わった」
「最悪」
「お互い様」
しばらく。
二人とも黙った。
でも。
さっきまでとは。
少しだけ沈黙の質が違った。
◇ ◇ ◇
「……リオノーラには」
ミラベルが。
ぽつりと言う。
知らない名前じゃない。
由斗の母。
メイベルも前に言っていた。
ミラベルの先輩サキュバス。
「何度も怒られたわ」
「へえ」
「“あなたは妹を鍛えてるんじゃない”って」
「……」
「“怖がってるだけ”って」
あたしは少しだけ目を細める。
「何を」
「メイベルが」
ミラベルは一度、目を閉じる。
「私がいなくなったら」
「……」
「壊れること」
その答え。
少しだけ。
わかった気がした。
ミラベルは。
メイベルを依存させたくなかった。
自分だけが支えになることを。
怖がっていた。
でも。
本当は。
自分がいなくなったあとでも。
ちゃんと生きていける妹にしておきたかった。
それって。
「……あんた」
「なに」
「めちゃくちゃ妹好きじゃん」
「今さら?」
「いや知ってたけど」
「なら言わないで」
「でもやり方下手すぎ」
「うるさい」
珍しく。
本気で少しむっとした顔になる。
なんか。
初めてこの人が。
年相応に見えた。
◇ ◇ ◇
「……で」
あたしは言う。
「今は?」
「何が」
「メイベル」
少し間を置く。
「今も、追い込むつもり?」
ミラベルはしばらく黙った。
「……必要なら」
「やるんだ」
「でも」
一度。
あたしを見る。
「前と同じやり方はしない」
「……」
「多分」
「多分?」
「私だって練習中なのよ」
その言い方が。
少しだけおかしくて。
あたしは笑ってしまった。
「……何よ」
「いや」
「……」
「姉も練習するんだなって」
「当たり前でしょ」
「完璧な顔してたから」
「それは元から」
「はいはい」
ミラベルが、少しだけ笑う。
今までの。
人を試す笑いじゃない。
普通の。
少し疲れた笑いだった。
「東さん」
「なに」
「メイベルのこと」
「うん」
「よろしく」
「……」
一瞬。
聞き間違えたかと思った。
「何その顔」
「いや」
「あんたからそんな言葉出るんだ」
「失礼ね」
「もう一回言って」
「嫌よ」
「録音したかった」
「本気で怒るわよ」
少しだけ笑う。
でも。
あたしはちゃんと答えた。
「……うん」
「……」
「でも」
「なに」
「あたし一人に預けないで」
ミラベルが。
少しだけ目を見開く。
「メイベルは」
「……」
「あたしだけのものじゃないし」
「……」
「澄鈴もいる」
「……」
「朝輝も」
「……」
「由斗もいる」
一拍。
「それに」
ミラベルを見る。
「姉のあんたもいる」
「……」
「だから」
「……」
「あんたもちゃんとやりなよ」
ミラベルは。
しばらくあたしを見ていた。
そして。
「……生意気」
「知ってる」
「本当に」
「でも正論でしょ」
「……ええ」
小さく。
頷いた。
「そうね」
それは。
多分。
初めて。
ミラベルが。
自分一人で“姉”をやろうとするのを。
少しだけやめた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
家に帰る途中。
スマホが震えた。
見ると。
メイベルからメッセージが来ている。
『澄鈴さんと無事に帰りました』
その下。
『今日は自分で決めて、自分で少しできました』
さらに。
少し間を空けて。
『でも、依夜さんにも会いたいです』
あたしは。
思わず笑った。
一人でできた。
でも。
会いたい。
前なら。
その二つを。
両立できないと思っていたのかもしれない。
一人で立つなら。
誰かを求めちゃいけない。
助けてもらうなら。
自分では何もできない。
そうじゃなくて。
一人で歩けても。
誰かに会いたいと思っていい。
誰かを頼っても。
自分で決めていい。
その二つは。
別に矛盾しない。
あたしは。
短く返した。
『おかえり。帰ってきな』
すぐ既読がつく。
『はい!』
その文字を見ながら。
今日のミラベルの顔を思い出す。
姉だって。
全部正しいわけじゃない。
怖いし。
間違えるし。
失敗する。
妹を好きだからこそ。
間違えることだってある。
守りたいから。
傷つけてしまうこともある。
大事だから。
怖くなってしまうこともある。
でも。
それを認められた時。
ミラベルもやっと。
“完璧な姉”から降りられるんだと思う。
メイベルだけじゃない。
ミラベルも。
あたしも。
多分。
みんな。
まだ。
どうやって誰かの隣にいればいいのか。
練習してる途中なんだ。




