第五話「この子、捨てられるのが怖いらしい」
――正直に言うと。
あたしは、疲れていた。
「……はぁ」
部屋に戻った瞬間、張っていた糸がぷつんと切れたみたいだった。
靴を脱ぐのも適当なまま、あたしはそのままベッドに倒れ込む。ばふっ、と気の抜けた音がして、顔半分が枕に沈んだ。
柔らかい。落ち着く。
このまま何も考えずに寝てしまえたら楽なのに、変に頭だけ冴えている。
朝から兄に見つかって。
そのあと澄鈴にバレて。
風紀違反だの生活指導だの、服装の問題だの、そもそも何者なんだこの子はだの。
言われたことを思い出すだけで、じわっと疲労がぶり返してきた。
「……普通に一日分のイベント量じゃないんだけど」
いや、一日分どころじゃないかもしれない。
下手したら一週間分くらいはある。少なくとも、あたしの平穏な学生生活の想定にはなかった。
天井を見上げる。
白い。何の感情もない、ただの天井だ。
「……なんでこうなったんだっけ」
思い出すまでもない。
軽いノリだった。本当に、驚くほど軽いノリだった。
なんとなく見つけた怪しい本。
なんとなく試した召喚。
なんとなく成功して。
その結果、泣き虫で、妙に自己評価が低くて、こっちの顔色ばっかりうかがうサキュバスが現れた。
――それだけだ。
それだけ、のはずだった。
もっとこう、一発ネタみたいなものだと思っていたし、翌日にはどうにかなると思っていた。
なのに蓋を開けてみれば、あたしは学校で事情聴取みたいなことをされて、帰ってきた今も部屋に“保護対象”みたいな顔をしたサキュバスがいる。
「……あたしのせいか」
ぽつりと呟く。
誰がどう見ても、きっかけはあたしだ。
好奇心に任せて余計なことをした。
その結果、今こうして面倒ごとの真ん中で寝転がってる。
「自業自得ってやつね……」
枕に顔を押しつけたまま言う。
反論してくれる相手もいないから、言葉だけが部屋に落ちて、それきりだった。
◇ ◇ ◇
「依夜さん……」
おそるおそる、みたいな小さな声が聞こえた。
あたしは顔だけ横に向ける。
部屋の隅。
床の上にちょこんと座っているメイベルと目が合った。
借りた部屋着――あたしのお古のTシャツと、ゆるいハーフパンツ。
さすがに胸元の開いた服や、布面積の少ないサキュバス仕様の格好のままじゃまずいから着替えさせたんだけど、そのせいで今のメイベルはやけに普通だった。
角も羽も目立たないようにしていると、ほんとにただの小柄な女の子にしか見えない。
いや、まあ、顔立ちは十分かわいいんだけど。
……なのに。
「なに」
「その……ごめんなさい……」
やっぱりこれだ。
あたしは枕から顔を離して、半分だけ起き上がる。
「だから謝るなって」
「で、でも……」
「“でも”も禁止」
「は、はい……」
しゅん、と目に見えて肩が落ちた。
ほんと反応がわかりやすい。犬か何かか、この子は。
「……で。何に対しての“ごめんなさい”?」
「えっと……全部です……」
全部。便利だけど曖昧すぎる言葉だ。
言う側としては楽なんだろうけど、受け取る側は何に返せばいいのかわからなくなる。
「全部って何」
「依夜さんに迷惑かけて……怒らせて……困らせて……」
「怒ってない」
「でも……疲れてる顔してます……」
「……」
図星だった。
あたしは何も言えず、一瞬だけ口をつぐむ。
いや、ほんとに。
この子、肝心なところでは鈍いくせに、こういうところだけ妙に鋭いんだよな。
「……まあ、疲れてはいる」
「やっぱり……!」
「でもあんたのせいだけじゃないから」
「で、でも……」
「だから“でも”禁止」
「……はい」
返事だけは素直。
素直すぎて逆に扱いに困る。
あたしはゆっくり体を起こして、ベッドの端に座り直した。
メイベルは正座みたいな格好で、膝の上に両手を置いている。ぎゅっと強く握っているせいで、指先が少し白い。
……よく見ると、その手、わずかに震えていた。
「……なんでそんな顔してるの」
「え……?」
「今にも泣きそうな顔」
メイベルはびくっと肩を揺らしたあと、視線を落とした。
逃げるみたいに、あたしから目をそらす。
昼の澄鈴の言葉を、あの子はまだ引きずっているらしかった。“危ない”“問題がある”――たぶん、そのへんだけが強く残ってしまったのだ。
「別にそんなことは……」
「別に、の顔じゃないでしょ」
「……」
黙る。
こういうときの沈黙って、だいたい当たりだ。
少し待つ。
急かしても余計に縮こまるだけだろうし。
しばらくしてから、メイベルはほんの少しだけ唇を動かした。
「……捨てられるかと思って」
「……は?」
思わず聞き返す。
意味がわからない、というより、飛躍しすぎて一瞬ついていけなかった。
「今日……澄鈴さんに……」
「うん」
「“危ない”って言われて……」
「言われたね」
「依夜さんにも迷惑かけて……」
「まあ、かけてはいる」
「はい……」
「そこはへこまなくていい」
軽く言ったつもりだったけど、メイベルはますますしょんぼりした。
あ、失敗したかも。
「それで……その……」
「うん」
「やっぱり、わたし……いらないんじゃないかって……」
ああ、またそれか。
でも、今回は少し違った。
ただの気弱さじゃない。もっと根っこのほう、ずっと前から染みついてる不安が顔を出してる感じがした。
「……なんでそうなるの」
「だって……」
メイベルがゆっくり顔を上げる。
その目は、ひどく不安そうで、今にもあふれそうなくらい揺れていた。
「役に立たないし……」
「……」
「魅力もないし……」
「……」
「サキュバスなのに、何もできないし……」
止まらない。
一度口が開くと、中に溜めていたものがそのまま零れてくるみたいだった。
「だから……依夜さんが疲れてるの……」
膝の上の手に、さらに力が入る。
「全部、わたしのせいで……」
違う、と言いかけて。
あたしは一瞬だけ言葉を止めた。
……全部じゃない。
でも、ゼロでもない。
それは事実だ。
この子が来なければ、今日はもっと平穏だった。兄さんにも澄鈴にもあれこれ言われずに済んだ。
だから「全部違う」と言い切るのは、たぶん嘘になる。
その半端な誠実さが、逆に言葉を詰まらせた。
けど。
それでも。
「……違う」
ちゃんと言う。
「全部じゃない」
「……でも」
「でもじゃない」
少しだけ、声を強めた。
メイベルがびくっと身を縮める。
あー、しまった。怯えさせたいわけじゃないのに。
でも今は、曖昧に流すよりはっきり言ったほうがいい気がした。
「……あんたさ」
「は、はい……!」
「“役に立つかどうか”でしか自分見てないでしょ」
「……」
沈黙。
ものすごくわかりやすい図星だった。
「それ、やめな」
「え……」
「しんどいだけだから」
「……」
メイベルは戸惑った顔をしている。
たぶん本気で意味がわかってないんだろう。
「でも……役に立たなかったら……」
「何?」
「……捨てられるんじゃ……」
ああ、そこか。
結局、全部そこにつながってる。
役に立たない。
だからいらない。
いらないなら、捨てられる。
たぶんこの子の中では、その順番が当たり前になってるんだ。
あたしは小さく息を吐いて、ベッドの端に肘をついた。
「……あんたさ」
「はい……」
「じゃあ聞くけど」
「は、はい……」
「今日、あたしが“疲れたから出てって”って言った?」
「……い、言ってません……」
「“いらない”って言った?」
「……言ってません……」
「じゃあ何でそうなるの」
「……」
メイベルは口を開いて、閉じた。
答えられない、って顔だった。
そりゃそうだ。
理屈じゃないんだろうし。そう思わずにいられない、ってだけなんだろう。
あたしは少しだけ視線を外す。
天井を見る。白いままの天井は、さっきと同じで何も答えてくれない。
「……あたしもさ」
「え……」
「似たようなこと思ってたから、わかるけど」
口に出した瞬間、少しだけ喉がひっかかった。
別に言わなくてもよかったことだ。けど、たぶん言わないと届かない。
「役に立たなかったら価値ない、とか」
「……」
「普通じゃなかったらダメ、とか」
「……」
「何かできなきゃ意味ない、とか。そういうの」
メイベルが息を呑むのがわかった。
意外だったんだろう。あたしがそんなこと考えるタイプに見えなかったのかもしれない。
まあ、見せてないし。
「でもさ」
「……はい」
「それで考えてると、永遠に自分嫌いになるだけだよ」
「……」
「何やっても“まだ足りない”になるから」
できたことより、できなかったことばっかり目につく。
褒められても、たまたまだと思う。
必要とされても、そのうち飽きられるって思う。
そういう思考は、底なし沼みたいなものだ。
一回はまると、どれだけ手を伸ばしても、自分で自分を沈めていく。
あたしは軽く肩をすくめる。
「おすすめしない」
「……」
部屋の中が静かになる。
窓の外から、遠くの生活音だけがぼんやり聞こえてきた。
何秒かしてから、メイベルがそっと口を開いた。
「……依夜さん」
「なに」
「それでも……」
ゆっくり顔を上げる。
涙はまだこぼれてない。でも、目の縁が赤い。
「……怖いです」
震える声だった。
「……いらないって言われるの」
まっすぐな、不安。
ごまかしも強がりもない、むき出しの言葉。
ああ、これ。
冗談っぽく流したらダメなやつだ。
あたしは少しだけ目を閉じる。
なんて言えばいいのか、ほんの一瞬だけ考える。
優しい言葉を並べるのは簡単だ。
でも、それが軽く響くのも嫌だった。
だから、できるだけそのまま言う。
「……言わない」
短く、はっきり。
「え……?」
「“いらない”なんて言わない」
メイベルが固まる。
信じていいのかわからない、みたいな顔で瞬きすら忘れている。
「少なくとも今は」
「……」
「追い出す気もない」
「……」
そのまま黙っているから、少し言いにくくなってきた。
変な間を埋めるみたいに、あたしは続ける。
「面倒だとは思ってるけど」
「そこは正直なんですね……」
「嘘ついても意味ないでしょ」
「……はい」
少しだけ、空気が緩む。
あたしはそこで、もうひと言だけ足した。
「でも」
「……」
「“いらない”とは思ってない」
メイベルの目が、じわっと潤んだ。
今度はわかりやすかった。堪える暇もなく、涙が縁までたまっている。
「……ほんとに……?」
「ほんと」
「……」
「何回言わせるの」
「だ、だって……」
「だっても禁止」
「それは無理ですぅ……」
ぽろっ、と涙が落ちた。
床に小さな染みを作る。
「だから泣くなって」
「う、うぅ……っ」
「忙しいなあんた」
「す、すみませ……」
「謝るな」
「は、はい……っ」
泣きながら頷くな。器用か。
でも、さっきまでとは少し違う泣き方だった。
怯えてすがるみたいな涙じゃない。張り詰めていたものがほどけて、勝手にあふれてるような感じ。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし……」
「うん」
「……ここにいてもいいですか……?」
改めて聞かれると、妙にくるものがあった。
許可を求める声が、あまりにも遠慮がちだったからかもしれない。
ここにいていいか、なんて。
そんなの、そんな顔で聞くことじゃないだろうに。
あたしは少しだけ考えるふりをした。
実際、答えはもう決まっていたけど。
「条件つき」
「は、はいっ」
「さっき言ったやつ守ること」
「守ります……!」
「泣きすぎない」
「努力します……!」
「あと」
「あと……?」
メイベルが緊張した顔でこっちを見る。
なんか面接みたいだな、とどうでもいいことを思った。
「少しずつでいいから」
「……」
「自分のこと、ダメだって決めつけるのやめる」
「……」
メイベルはぽかんとした。
予想外だったのかもしれない。
「それできたら、まあ合格」
「……合格」
「そ。いきなり完璧じゃなくていい」
「……」
「というか、完璧とか無理だから」
「……はい」
「できる範囲でやる。それでいい」
しばらくしてから、メイベルはゆっくり頷いた。
「……がんばります」
「無理すんな」
「はい……!」
「がんばるのと無理するのは別だからね」
「……はい」
その返事は、少しだけ笑っていた。
ほんの少し。本当に少しだけ。
でも、昨日よりずっと明るい顔だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
部屋の灯りを落として、布団に入る。
隣では、メイベルが借りた布団の中で静かに寝息を立てていた。
寝つくまでは不安そうに何度もこっちを見ていたくせに、眠るのは案外早い。
子どもか。
天井を見上げる。
昼間に見たのと同じ白い天井なのに、少しだけ感じ方が違った。
「……ほんとに、何やってんだろ」
軽いノリで始めたはずだった。
面白半分、興味本位。
それだけだったのに。
気づけばあたしは、泣き虫サキュバスの人生相談みたいなことをしていて、しかもそれをわりと真面目にやっていた。
「……」
変なの。
面倒ごとは増えたし、明日もたぶん平穏じゃない。
兄さんや澄鈴にどう説明するのかも考えなきゃいけないし、この先もっとややこしいことになる可能性だって普通にある。
でも。
嫌じゃない。
少なくとも、心底うんざりしてるわけじゃなかった。
むしろ、少しだけ。
――必要とされてる感じがした。
それがくすぐったくて、変に落ち着かない。
けど、悪い気分でもない。
「……まあ、いっか」
小さく呟いて、目を閉じる。
明日もたぶん、面倒だ。
きっと簡単にはいかない。
それでも、ほんの少しだけ。
ちょっとだけ、悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、あたしはゆっくり眠りに落ちた。




