第四十九話「それでも隣にいる理由」
次の日。
教室に入った瞬間、あたしは少しだけ空気の違いに気づいた。
いや、空気っていうか。
メイベルとミラベルの距離だ。
昨日までなら、ミラベルが同じ教室にいるだけで、メイベルはわかりやすく体を固くしていた。
声をかけられれば肩が跳ねるし、視線が向くだけで無意識にあたしの近くへ寄ってくる。
姉というより、いつ怒られるかわからない相手を見ているみたいだった。
でも今日は、完全に平気ではないにしても、少しだけ違う。
怯えてるだけじゃない。
ちゃんと、“姉を見る”顔になってる。
「おはよう」
先に声をかけたのはミラベルだった。
「お、おはようございます……姉さま」
メイベルの声はまだ小さい。
少しだけ緊張も混ざっている。
でも、逃げなかった。
視線も完全には逸らさない。
ミラベルはその返事を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「ええ。おはよう、メイベル」
それだけ。
本当に、それだけだった。
褒めるでもなく。
皮肉を言うでもなく。
試すような言葉を続けるでもない。
ただ、姉が妹に挨拶を返しただけ。
なのに。
昨日までとは、ずいぶん違って見えた。
あたしは席につきながら、小さく息を吐く。
昨日、メイベルはミラベルに言った。
好き。
でも、嫌いなところもある。
たったそれだけの言葉だけど、メイベルにとってはかなり大きかったと思う。
あの子の中ではずっと、誰かを好きなら否定しちゃいけない、みたいなものがあった。
好きなら全部受け入れないといけない。
大切なら嫌いなところなんてあってはいけない。
多分、そういうふうに。
でも昨日、それを初めて自分で崩した。
好きか嫌いか、どっちかじゃない。
好きでも嫌なところはある。
大切でも傷つくことはある。
それでも関係を続けていい。
そう思えた時点で、メイベルは一段進んだ。
「……依夜さん」
「なに」
「今日」
「うん」
「少しだけ、姉さまが怖くないです」
あたしは横目で見る。
「少しだけ?」
「……少しだけです」
「なら十分」
「……はい」
メイベルが、少しだけ笑う。
その笑い方も、昨日までより自然だった。
そこへ澄鈴が来る。
「おはよう」
「おはよう」
「お、おはようございます……!」
澄鈴はメイベルを見る。
それからミラベルを見る。
最後に、あたしを見る。
「今日は静か」
「何その評価」
「昨日ぶつかったから」
「知ってたの?」
「見ればわかる」
「便利だなあ」
「事実」
いつもの会話。
その横で、メイベルがほんの少し笑った。
ミラベルも何も言わずに本を開いている。
ああ。
こういうのが、普通になっていくといいな。
何か特別なことをしなくても。
誰かがずっと緊張していなくても。
ただ挨拶をして、くだらない話をして、同じ教室にいられる。
そういう時間が増えたらいい。
そう思った。
◇ ◇ ◇
午前中は、かなり平和だった。
メイベルは一度だけ、授業の途中で小さく手を挙げるみたいにして、あたしを見た。
「……少し、しんどいです」
前なら、その一言を聞いた瞬間にあたしが判断していたと思う。
外に出る?
保健室行く?
水飲む?
そうやって、先に答えを出していた。
でも今は違う。
「どうしたい?」
あたしがそう聞くと、メイベルは少し戸惑った顔をした。
でも、ちゃんと考える。
「……少しだけ」
「うん」
「ここで、呼吸してみます」
「わかった」
「だめだったら」
「その時考えよう」
「……はい」
それで終わり。
あたしは見ているだけ。
メイベルはゆっくり息を吸って、吐いて。
机の下で手をぎゅっと握って、少しずつ力を抜く。
数分後。
「……大丈夫です」
「そっか」
「はい」
それだけ。
たったそれだけのことなのに、少し嬉しかった。
前なら、あたしがいないと何も決められないみたいになっていた。
でも今は。
選ぶのはメイベル。
あたしは必要な時に支える。
全部を背負うんじゃなくて。
全部を任せるんでもなくて。
その形が、少しずつできてきている。
それが、ちゃんと嬉しかった。
◇ ◇ ◇
問題が起きたのは、昼休みだった。
「……依夜さん」
弁当を食べ終えたくらいのタイミングで、メイベルが妙に真面目な顔であたしを呼んだ。
「なに」
「少しだけ」
「うん」
「話したいことがあります」
その言い方。
嫌な予感ではない。
でも、軽い話でもなさそうだった。
「ここで?」
「……できれば、二人で」
あたしは少しだけ驚いた。
メイベルの方から、二人で話したいと言ってくるのは珍しい。
「珍しいね」
「す、すみません……」
「謝らなくていいって」
「……はい」
あたしは澄鈴を見る。
「ちょっと外行ってくる」
「了解」
それから、少し迷って後ろを見る。
「ミラベルは」
ミラベルはちょうどこちらを見ていた。
視線が合うと、少しだけ口元を上げる。
「ごゆっくり」
「その言い方やめて」
「何が?」
「その顔もやめて」
「ふふ」
本当に腹立つ。
でも、そのやり取りを見ても、メイベルは前ほど固くならなかった。
それだけで、少し安心した。
◇ ◇ ◇
校舎裏。
いつものベンチ。
何度来たかわからない場所だった。
メイベルが泣いた時も。
あたしが困った時も。
二人でちゃんと話さなきゃいけない時も。
気づけば、ここに来ている。
メイベルはベンチに座ったあとも、なかなか口を開かなかった。
膝の上で指を組んで。
ほどいて。
また組んで。
何度か息を吸って、それでも言えなくて。
あたしは急かさない。
以前なら、沈黙が怖くて、こっちから何か言っていたかもしれない。
でも今は少しだけ待てる。
メイベルが自分の言葉を探しているのがわかるから。
しばらくして。
「……依夜さん」
「なに」
「聞いても、いいですか」
「うん」
メイベルは膝の上で指を強く組む。
「……どうして」
一度、言葉が止まった。
「どうして、わたしなんですか」
あたしは、一瞬意味がわからなかった。
「……何が」
「選ぶって」
「……」
「言ってくれました」
「うん」
「一緒にいたいとも」
「うん」
「でも」
メイベルは顔を上げる。
まっすぐだった。
不安そうなのに。
逃げずに、ちゃんと聞こうとしている。
「……どうして、わたしなんですか」
その質問が。
思っていたよりずっと重かった。
◇ ◇ ◇
あたしはすぐに答えられなかった。
理由。
なんでメイベルなのか。
そんなこと、今までちゃんと考えたことがなかった。
最初は、召喚してしまったから。
突然この世界に呼び出してしまって。
何もわからないメイベルを放り出すわけにはいかなかった。
だから責任があると思った。
その次は。
放っておけなかった。
泣くし。
すぐ困るし。
危なっかしいし。
何かあるたびに「すみません」って言うし。
ちゃんと見てないと、そのうち勝手に一人で消えそうだった。
でも。
それだけじゃない。
いつからか。
笑うと安心するようになった。
朝、起きてそこにいると少しほっとするようになった。
教室で姿が見えないと、どこ行ったんだろうって気になるようになった。
泣いてたら面倒だと思うのに、放っておけなくなった。
帰ってくると、安心するようになった。
それは全部本当だ。
でも。
“なんでメイベルなのか”って聞かれると。
うまく言葉にできない。
「……」
黙っているあたしを見て、メイベルの表情が少しずつ曇っていく。
「……やっぱり」
「待って」
「……」
「勝手に悪い方に行かないで」
反射的に止める。
「今、考えてるだけ」
「……はい」
「答えないわけじゃないから」
「……はい」
メイベルは頷く。
でも、まだ不安そうだ。
あたしは少しだけ空を見る。
雲がゆっくり流れている。
「……なんでだろうね」
「……」
「正直」
「……」
「あたしも、ちゃんとはわかんない」
メイベルの顔が、少しだけ曇る。
すぐ続ける。
「でも」
「……」
「理由がないって意味じゃない」
「……」
「理由が、一個じゃないって感じ」
メイベルが、少しだけ目を上げる。
「最初は」
「……」
「あんたを呼んじゃったから」
「……はい」
「責任あると思った」
「……」
「次は」
「……」
「放っておけなかった」
「……」
「その次は」
少しだけ笑う。
「泣かれると困るようになった」
「……」
「それは、いい意味ですか……?」
「半分くらい」
「半分……」
「だって毎回泣くし」
「うぅ……」
「でも」
「……」
「その次は」
メイベルを見る。
「笑うと嬉しくなった」
「……!」
メイベルの目が、大きくなる。
「で」
「……」
「気づいたら」
一拍置く。
「いなくなるのが嫌になってた」
言ったあと。
自分でも少しだけ驚いた。
こうやって順番に並べると。
結構、わかりやすかった。
最初は責任だった。
次は心配だった。
それが少しずつ変わって。
いつの間にか。
あたし自身が、メイベルがいることを望むようになっていた。
◇ ◇ ◇
「……でも」
と、メイベルが小さく言う。
「それって」
「うん」
「わたしじゃなくても」
その言葉に。
胸が少しだけ痛くなる。
「他の誰かでも」
「……」
「同じだったんじゃないですか」
ああ。
そこなんだ。
この子がずっと怖いのは。
自分だから選ばれたんじゃなくて。
たまたまそこにいたから。
たまたま助けてもらったから。
たまたま依夜が優しかったから。
そういうものなんじゃないかって。
多分、ずっと怖い。
あたしは少しだけ黙って。
でも今度は、そこまで考えずに答えた。
「違うと思う」
「……」
メイベルが、驚いた顔をする。
「多分」
「……」
「あんたじゃなかったら」
少しだけ考える。
「ここまで面倒見てない」
「……え」
「いや、だって普通に考えて」
「……」
「毎日泣かれて」
「……」
「勝手にいなくなって」
「……」
「追いかけて」
「……」
「姉と揉めて」
「……」
「一緒に悩んで」
「……」
「何回も同じことで話して」
「……」
「ここまでやる?」
メイベルが少しだけ困った顔になる。
「……やらない、ですか」
「普通はやらないと思う」
「……」
「少なくとも、あたしは誰にでもやるほど親切じゃない」
「……そうなんですか」
「そこ驚く?」
「依夜さん、やさしいので……」
「そういう評価されると落ち着かない」
「でも、やさしいです」
「はいはい」
少しだけ照れ臭くなって、雑に流す。
それから、あたしは続けた。
「でも、あたしはやった」
「……」
「ここまでずっと」
「……」
「何回面倒だと思っても」
「……」
「何回重いと思っても」
「……」
「それでも、離れなかった」
その事実が。
一番答えに近い気がした。
「だから」
「……」
「それでいいんじゃない」
「……え」
「理由」
メイベルを見る。
「後付けでも」
「……」
「理屈足りなくても」
「……」
「あたしがここまでやった」
一拍。
「それが、答えでしょ」
メイベルの目が、少しずつ潤む。
「……依夜さん」
「なに」
「それ」
「うん」
「ずるいです」
「なんで」
「すごく」
「……」
「嬉しくなるので」
涙が一滴、落ちる。
「また泣く」
「す、すみません……」
「謝らない」
「はい……」
でも。
泣きながら笑っていた。
それを見て、あたしも少しだけ笑う。
◇ ◇ ◇
少しして。
メイベルが、涙を拭きながら小さく言った。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「ずっと」
言葉を探す。
「選ばれる理由が」
「……」
「必要だと思ってました」
あたしは黙って聞く。
「役に立つから」
「……」
「かわいいから」
「……」
「ちゃんとしてるから」
「……」
「誰かより、優れてるから」
「……」
「そういう」
少しだけ唇を噛む。
「理由がないと」
「……」
「選ばれないって」
一度、息を吸う。
「理由がなくなったら」
「……」
「捨てられるって」
その言葉に。
ミラベルとの話が頭をよぎる。
愛と価値。
条件。
メイベルがずっと抱えてきたもの。
役に立てない自分には価値がない。
価値がないなら、そばにいてはいけない。
だから必死に何かをしようとする。
料理して。
癒そうとして。
失敗して。
それでもまた何かしようとして。
全部そこに繋がっていた。
「……でも」
と、メイベル。
「依夜さんの話」
「うん」
「理由が」
「……」
「すごく、ぐちゃぐちゃです」
「失礼だな」
「す、すみません!」
「まあ、合ってるけど」
思わず笑う。
メイベルも少し笑った。
「でも」
「……」
「だから」
「……」
「少しだけ」
メイベルが胸に手を置く。
「安心しました」
「なんで」
「ちゃんとした理由がなくても」
「……」
「一緒にいていいんだなって」
あたしは少しだけ目を細める。
「うん」
「それでいいよ」
「……」
「というか」
「はい」
「人を選ぶ理由なんて、そんな綺麗に一個にまとまらないでしょ」
「……」
「この部分が好きだから百点、とか」
「……」
「これができるから一緒にいる、とか」
「……」
「そっちの方が、あたしはちょっと怖い」
メイベルが考えるように瞬きをする。
「……なくなったら」
「そう」
「終わるから」
「うん」
できることなんて、変わる。
強い時もあるし、弱い時もある。
役に立つ日もあれば、何もできない日だってある。
そこを理由にしていたら、いつか崩れる。
「理由ってさ」
あたしは少し考える。
「後から増えるものでしょ」
「……増える」
「うん」
「例えば今日」
「今日?」
「こういう話できた」
「……」
「それも一個」
「……!」
メイベルの顔が一気に赤くなる。
「そ、そういうの」
「なに」
「急に言わないでください……」
「なんで」
「……心臓に悪いので」
「サキュバスなのに?」
「関係ありません……!」
即答だった。
ちょっとだけ。
いつものメイベルが戻ってきた。
「あと」
「ま、まだあるんですか……?」
「あるよ」
「……」
「昨日、ミラベルにちゃんと言えたのも」
「……」
「あたし、嬉しかったし」
「……!」
「今日、授業中に自分でどうするか決めたのも」
「……」
「ちゃんと見てたし」
「……」
「そういうの全部」
一つずつ増えていく。
この子を好きだと思う理由。
大事だと思う理由。
一緒にいたいと思う理由。
でも、そのどれか一つがなくなっても。
多分もう。
それで全部が消えるわけじゃない。
「……依夜さん」
「なに」
「いっぱい、あるんですね」
「多分ね」
「……」
「数えたことないけど」
「……ふふ」
「何」
「うれしいです」
「そっか」
「はい」
メイベルは、今度は泣かなかった。
ただ少しだけ、安心したみたいに笑った。
◇ ◇ ◇
教室に戻る途中。
廊下を二人で歩いていると、メイベルが横から小さく声をかけてきた。
「……依夜さん」
「なに」
「わたしも」
「うん」
「理由、わかりません」
「何の」
「依夜さんを選ぶ理由」
「……」
少しだけ、胸が跳ねる。
メイベルは前を見たまま続ける。
「最初は」
「うん」
「助けてくれたから」
「……」
「次は」
「……」
「やさしかったから」
「……」
「その次は」
「……」
「怖い時に、そばにいてくれたから」
「……」
「でも」
一度、言葉を止めて。
メイベルがこっちを見る。
「今は」
「……」
「それだけじゃないです」
「……」
「依夜さんが」
「うん」
「依夜さんだから」
その言葉に。
胸の奥が変に熱くなる。
「理由になってないじゃん」
「……はい」
「いいの?」
「はい」
メイベルが笑う。
「一緒にいたいので」
「……」
その言葉が。
すごく自然だった。
前みたいに、必死に縋る感じじゃない。
“置いていかないで”でもない。
ただ。
一緒にいたい。
それだけだった。
「……うん」
あたしも笑う。
「それでいいんじゃない」
「はい」
教室の前まで来る。
ドアを開ける。
澄鈴がすぐにこっちを見た。
「話終わった?」
「終わった」
「メイベルさん」
「は、はい」
「顔赤い」
「……!」
メイベルが慌てる。
「ち、違います……!」
「何が」
「い、いろいろ……!」
「そう」
興味あるのかないのかわからない顔で、澄鈴が前を向く。
その横で。
ミラベルが、にやっと笑っていた。
「へえ」
「あんたは黙ってて」
「何も言ってないわよ」
「顔が言ってる」
「何を?」
「面白がってる」
「ふふ」
「ほら」
本当に腹立つ。
でも。
ふと横を見る。
メイベルは、もう姉のその笑いに怯えてはいなかった。
恥ずかしそうにして。
少しだけ頬を膨らませて。
「……姉さまも」
「何?」
「その顔、やめてください……」
ちゃんと、自分で言った。
ミラベルが一瞬だけ目を丸くする。
それから。
「そう」
少しだけ嬉しそうに笑った。
「ごめんなさい」
「……」
メイベルも驚いた顔をする。
「……はい」
短いやり取り。
でも。
あたしは、その場面を見て少しだけ息を吐いた。
昨日までなら。
メイベルは言えなかった。
ミラベルも、たぶん謝らなかった。
少しずつ。
本当に少しずつだけど。
変わっている。
メイベルはちゃんとその場にいる。
姉がいても。
不安でも。
怖さが全部消えていなくても。
それでも、自分の足でそこにいる。
その姿を見て。
あたしは思う。
理由なんて。
多分、全部あとからついてくる。
一緒にいた時間。
泣いたこと。
笑ったこと。
喧嘩したこと。
傷つけたこと。
謝ったこと。
迎えに行ったこと。
帰ってきたこと。
くだらないことで笑ったこと。
朝、隣にいるのを確認したこと。
怖いって言われて、それでも手を離さなかったこと。
そういうものが一個ずつ積み重なって。
最初にあった理由なんて、もう見えなくなるくらい増えていく。
そして気づいた時には。
もう。
“それでも隣にいる”こと自体が。
次に隣にいたいと思う理由になっている。
多分。
それが一番、本当なんだと思う。




