第四十八話 「ちゃんと嫌っていい」
雨だった。
朝から細かな雨粒が街を包み込み、空はどこまでも薄い灰色の雲に覆われている。
窓ガラスを伝う雫は、途切れることなく筋を描き、校舎の屋根を叩く雨音が静かなリズムを刻んでいた。
登校する生徒たちは皆、傘を差しながら足早に校門をくぐっていく。
誰もが肩をすぼめ、いつもより少しだけ声を落として歩いていた。
そんな朝だった。
「……依夜さん」
隣を歩くメイベルが、小さくあたしの名前を呼ぶ。
その声は雨音に溶けそうなくらい弱い。
「なに」
「今日……少しだけ緊張してます」
「数字で言うと?」
最近、あたしたちの間で決めた確認方法。
気持ちを曖昧にせず、自分で言葉にするための練習。
「……四、くらいです」
「なら大丈夫」
「……はい」
メイベルはほっとしたように息を吐き、小さく笑った。
その笑顔は、少し前までのぎこちない作り笑いとは違う。
本当に安心した時だけ浮かぶ、柔らかな笑顔だった。
少しずつ変わってきている。
自分の状態を言葉にできる。
無理なら退く。
助けてほしい時は頼る。
怖くても、全部を飲み込まずに済むようになった。
ここ数週間積み重ねてきたものは、確かにメイベルの中に根を張り始めていた。
……だけど。
その変化があるからこそ、あたしは漠然と感じていた。
もうすぐ次の壁が来る。
人は少し成長すると、その成長を試される瞬間が必ず訪れる。
今日は――そんな日になる気がしていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
教室は昼食を広げる生徒たちの笑い声で賑わっていた。
窓の外では相変わらず雨が降り続いているが、その音さえ教室の活気に溶け込んでいる。
メイベルは女子数人に囲まれながら話をしていた。
最初の頃なら考えられない光景だ。
「メイベルちゃん、この前おすすめしてた映画観た?」
「は、はい……!」
「どうだった?」
「すごく……面白かったです」
「えー! あれ泣けるよね!」
「私もまた観たくなった!」
ぎこちないながらも、ちゃんと会話が続いている。
話を振られて、返して、また笑う。
その流れが自然になってきている。
あたしは少し離れた席から、その様子を静かに眺めていた。
「依夜」
隣へ澄鈴がやって来る。
「順調」
「うん」
「最近、口出し減った」
「意識してるからね」
前なら助け舟を出していた。
沈黙になれば割って入り、困れば代わりに答えていた。
でも今は違う。
メイベル自身が乗り越えなきゃ意味がない。
「いい傾向」
澄鈴が短く頷く。
その時だった。
「へぇ」
教室の入口から聞き慣れた声が響いた。
振り向く。
ミラベルだった。
制服姿の人間の姿。
けれど漂う雰囲気は、人間の女子高生というより、一人の姉としての威圧感そのものだった。
「あ、西宮さん」
「こんにちはー」
クラスメイトたちは軽く手を振る。
ミラベルは穏やかに微笑み返しながら輪へ近づいていく。
「楽しそうね」
「西宮さんも一緒に話す?」
「私はいいわ」
そう言って。
彼女はメイベルだけを見つめた。
「あなたは楽しそうじゃないわね」
その一言で。
メイベルの笑顔が止まった。
「……え」
「無理して笑ってる」
「そ、そんなこと……」
「あるわ」
即答だった。
迷いが一切ない。
「昔からそう」
教室の空気が少し冷える。
周囲の女子たちは困ったように顔を見合わせた。
「あなたは昔から、人に合わせることしかできなかった」
「……」
「嫌でも笑う」
「……」
「怖くても頷く」
「……」
「本当は嫌でも、相手が喜ぶならそれでいいと思ってしまう」
メイベルの肩が小さく震えた。
「それ、まだ治ってないじゃない」
誰も笑わない。
女子たちは事情が分からず、ただ戸惑っていた。
「えっと……」
「私たち、何か悪いこと言った?」
「気にしなくていいわ」
ミラベルは優しく笑う。
「妹と話しているだけだから」
その笑顔が、逆に怖かった。
◇ ◇ ◇
気まずい空気に耐えきれず、女子たちは「またあとでね」と教室を出ていった。
静かになる教室。
残ったのは。
あたし。
メイベル。
ミラベル。
そして澄鈴だけ。
雨音だけが窓の向こうで続いていた。
「さて」
ミラベルは腕を組む。
「続きをしましょうか」
メイベルは俯いたまま動けない。
「ねえ」
「……はい」
「さっき、本当は嫌だったことある?」
「……」
沈黙。
「答えなさい」
「……ありません」
即答。
だけど。
「嘘」
その一言で切り捨てられる。
「……!」
「あなた、嘘つく時だけ返事が早いもの」
メイベルが息を呑む。
あたしも驚いた。
そこまで分かるのか。
「映画」
ミラベルが続ける。
「本当は最後まで寝てたでしょう」
「……!」
「好きじゃないのに、面白かったって言った」
メイベルは口を開きかける。
でも声にならない。
「違う?」
返事はない。
「ほら」
ミラベルは小さく息を吐いた。
「何も変わってない」
その言葉は。
ここ数十話積み上げてきた努力を、一瞬で否定するように聞こえた。
あたしは思わず一歩踏み出す。
でも止まる。
違う。
今日はあたしじゃない。
これは。
メイベル自身が越えなきゃいけない壁だ。
◇ ◇ ◇
長い沈黙。
時計の秒針だけが妙に大きく聞こえる。
メイベルの拳は白くなるほど握られていた。
何度も唇を噛み。
何度も息を飲み。
何度も言葉を押し殺す。
逃げれば楽だ。
黙れば終わる。
昔のメイベルなら、きっとそうしていた。
だけど。
「……違います」
小さな声だった。
けれど。
誰よりも強い声だった。
ミラベルが目を細める。
「何が?」
「……何も変わってない、は」
一歩。
メイベルが前へ出た。
「……違います」
「そう?」
「……はい」
声は震えている。
膝も震えている。
それでも逃げない。
「映画は」
「……」
「本当に途中で寝ました」
「でしょうね」
「でも」
ゆっくり顔を上げる。
「みんなと行けたのは」
一拍置いて。
「楽しかったです」
教室に静けさが満ちる。
「笑ったのも」
「……」
「全部無理してたわけじゃありません」
「少し緊張して」
「少し合わせようとして」
「でも」
胸に手を当てる。
「楽しいって思えたのも、本当なんです」
あたしは思わず口元が緩んだ。
それは誰かに教えられた答えじゃない。
ちゃんと。
メイベル自身の言葉だった。
◇ ◇ ◇
しかし。
ミラベルはまだ終わらせなかった。
「そう」
「……」
「じゃあ聞くわ」
一歩近づく。
「私のことは?」
教室が静まり返る。
「……え」
「私のこと」
「どう思ってるの?」
その問いだけは。
誰にも逃げ道がなかった。
「答えなさい」
「……」
「正直に」
長い沈黙。
雨音だけが二人の間を埋める。
あたしも澄鈴も何も言わない。
誰も代われない。
これは。
姉妹だけの会話だから。
メイベルはゆっくり息を吸う。
そして。
「……好きです」
ミラベルは黙ったまま。
「でも」
その一言で空気が変わる。
「……嫌いです」
静寂。
誰も動かない。
ミラベルも。
初めて少しだけ目を見開いた。
「姉さまの」
涙が零れる。
「全部試すところ」
「……」
「何でも一人で決めるところ」
「……」
「わたしが泣いてても」
「大丈夫だって決めつけるところ」
「……」
「わたしの気持ちより」
一拍。
「正しいことを優先するところ」
涙が止まらない。
それでも続ける。
「勝手に離れて」
「勝手に守って」
「勝手に我慢して」
「わたしに何も言わせてくれなかったところ」
息が詰まる。
胸が苦しい。
それでも。
「……嫌いです」
その一言は、叫びではなかった。
長い年月押し殺してきた感情が、ようやく外へ出た声だった。
◇ ◇ ◇
何秒経ったか分からない。
やがて。
ミラベルが小さく肩を震わせた。
「……ふふ」
静かな笑い。
「そう」
「……」
「やっと言えた」
メイベルが目を丸くする。
「……え」
「それでいいの」
ミラベルは今までで一番穏やかに笑っていた。
「嫌いって言われるの」
「待ってたわ」
「……」
「あなたは昔から私に逆らわなかった」
「全部飲み込んで」
「全部我慢して」
「全部、自分が悪いって思ってた」
ゆっくり首を振る。
「それが一番危なかった」
静かな声が教室に響く。
「好きだけじゃ」
一拍。
「家族は続かない」
メイベルが涙を拭う。
「ちゃんと嫌いになりなさい」
「嫌なことは嫌」
「腹が立つなら腹が立つ」
「傷ついたなら傷ついたって言いなさい」
「それを言えるようになって」
少し笑う。
「やっと対等になれる」
メイベルは泣きながら何度も頷いた。
「……はい」
「もう一回」
「……」
「私のこと」
メイベルは泣き笑いのまま答える。
「……好きです」
「うん」
「でも」
深呼吸して。
「嫌いなところも、あります」
ミラベルは満足そうに目を細めた。
「よくできました」
その一言には。
試験に合格した生徒を褒めるような響きではなく。
一人の妹が、本当に自分の足で立てたことを喜ぶ姉の温かさが込められていた。
◇ ◇ ◇
帰り道。
雨はいつの間にか止んでいた。
厚い雲の切れ間から、淡い夕日が差し込み始めている。
濡れたアスファルトが柔らかく光を映していた。
「……依夜さん」
「なに」
「今日」
「うん」
「すごく怖かったです」
「だろうね」
「でも」
メイベルは少し笑う。
「嫌いって言えました」
「うん」
「嫌いって言ったのに」
「……」
「姉さま、笑ってくれました」
あたしも少し笑う。
「案外、変な人だよね」
「はい」
二人で小さく笑う。
その笑いは、朝とは違う。
肩の力が抜けた笑いだった。
「でも」
メイベルは空を見上げる。
雲の向こうから覗く青空を見つめながら、小さく呟く。
「少しだけ」
「前より」
「姉妹になれた気がします」
その横顔は、少しだけ大人びて見えた。
好きだからこそ、嫌いなところもある。
嫌いと言えるからこそ、本当の意味で相手と向き合える。
我慢だけでは、家族にはなれない。
今日、メイベルは初めて。
“守られる妹”ではなく。
“ミラベルの妹”として、自分の本当の気持ちをぶつけた。
そしてミラベルもまた。
“試す姉”ではなく。
“受け止める姉”になった。
雨上がりの空は、朝よりずっと高く。
少しだけ青く見えた。




