第四十七話「逃げるって、悪いこと?」
その日の放課後。
あたしは、ちょっとだけ嫌な予感がしていた。
理由はわからない。
何か明確なきっかけがあったわけでもない。
でも、教室に残る空気の重さとか。
メイベルの息の浅さとか。
廊下から聞こえる足音の近さとか。
そういう細かいものが、全部少しずつ引っかかっていた。
こういう“なんとなく”は、だいたい当たる。
「……依夜さん」
「なに」
「今日」
「うん」
「少し、疲れました」
メイベルが言う。
顔色はそこまで悪くない。
でも、肩に力が入っている。
崩れそうというより、ずっと張り詰めていた糸が切れる前の感じ。
「今どれくらい」
「……五、です」
「中間だね」
「はい」
ここまでは普通。
いつもの確認。
いつものやり取り。
でも、その時だった。
「へえ」
後ろから声がした。
振り返らなくてもわかる。
「また“数字遊び”してるのね」
ミラベルだった。
壁にもたれながら、こちらを見ている。
「……何」
あたしが言うと、ミラベルは薄く笑った。
「別に」
「……」
「ただ、随分と“扱いやすく”なったと思って」
その言い方に、少しイラッとする。
「扱ってるつもりないけど」
「そう?」
ミラベルは一歩近づく。
「数値化して」
「……」
「状態を管理して」
「……」
「安全なラインだけ歩かせる」
淡々と言う。
「それ」
「……」
「結構綺麗に“飼ってる”わよ」
「は?」
思わず声が出た。
「言い方」
「事実でしょ」
メイベルが小さく震える。
「……姉さま」
「なに、メイベル」
ミラベルの視線が妹に向く。
その瞬間、空気が少しだけ変わった。
あたしに向けていた皮肉とは違う。
もっと鋭くて、もっと直接的なもの。
「今日」
「……」
「どうしたいの?」
突然の問い。
メイベルが固まる。
「……え」
「帰る?」
「……」
「それとも」
「……」
「もう少し残る?」
シンプルな選択。
でも、圧がある。
問いかけというより、逃げ道を全部照らされたみたいだった。
「……」
メイベルの呼吸が少し浅くなる。
あたしは口を開きかけて――止めた。
これは、メイベルが決める場面だ。
あたしが先に答えたら、また同じになる。
「……」
沈黙が続く。
数秒。
でも、やけに長い。
メイベルは視線を落として、指先を握りしめていた。
迷っている。
ちゃんと迷っている。
そして。
「……少し」
小さな声。
「……少しだけ、残ります」
はっきり言った。
「へえ」
ミラベルが少しだけ笑う。
「理由は?」
「……」
メイベルが言葉を探す。
唇が震える。
でも、逃げない。
「……逃げたくない、です」
その一言で、空気が変わった。
あたしは思わずメイベルを見る。
「……」
ミラベルは、その言葉をじっと見ていた。
「逃げたくない、ね」
ゆっくり繰り返す。
「それ、本音?」
「……はい」
メイベルは頷く。
少し震えながら。
「……じゃあ」
ミラベルが一歩踏み出す。
「逃げたら負け、って思ってる?」
「……!」
メイベルの目が大きく開く。
言葉に詰まる。
「……」
沈黙。
そして、小さく。
「……思ってます」
あたしは思わず息を吐いた。
やっぱりそうか、と思う。
メイベルの“逃げたくない”は、強さだけじゃない。
逃げたら失敗。
逃げたら迷惑。
逃げたら弱い。
そういう怖さが混ざっている。
「ふふ」
ミラベルが笑う。
「まだそんな段階なのね」
少し呆れたように。
「……姉さま」
「なに?」
「逃げるのは」
「……」
「悪いことじゃない」
ミラベルは、あっさり言った。
その一言に、メイベルが固まる。
「……え」
理解が追いついていない顔だった。
「逃げるのはね」
「……」
「選択よ」
ミラベルは淡々と続ける。
「戦うか」
「……」
「退くか」
一歩、距離を詰める。
「それを自分で選べるなら」
「……」
「どっちでもいい」
教室が静かになる。
「……でも」
メイベルが小さく言う。
「逃げたら」
「……」
「弱いって」
ミラベルが少しだけ笑う。
「弱いわよ」
「……!」
「でも」
「……」
「弱いから退くのと」
「……」
「無自覚に壊れるの」
一拍置く。
「どっちがマシ?」
その問いは、鋭かった。
「……」
メイベルは答えられない。
でも、答えはわかっている。
しばらくして、メイベルは小さく言った。
「……退く方が」
「うん」
「マシ、です」
「正解」
ミラベルが頷く。
「だから、逃げること自体は問題じゃない」
「……」
「問題は」
一拍。
「“自分で選んでるかどうか”」
その言葉が、重く落ちた。
メイベルの指が、ぎゅっと握られる。
「……依夜さん」
小さく呼ばれる。
「なに」
メイベルがこっちを見る。
「わたし」
「うん」
「さっき」
「うん」
「“逃げたくない”って言いました」
「言ったね」
「……でも」
「……」
「それ」
少しだけ震える。
「……本当は、逃げるのが怖い、でした」
その言葉に、あたしは少しだけ目を細めた。
「……そっか」
正直だな、と思う。
自分の言葉を、ちゃんと見直した。
強がりの下にある怖さを、自分で見つけた。
ミラベルが少しだけ笑う。
「やっと言えたわね」
でも、その声は少しだけ優しかった。
「……じゃあ」
あたしは言う。
「どうする?」
メイベルが息を吸う。
「……」
少し長い沈黙。
でも、逃げていない。
「……帰ります」
はっきり言った。
「今日は」
「……」
「帰りたいです」
その言葉に、空気が少しだけ緩んだ。
「理由は?」
ミラベルが聞く。
「……無理になる前に」
「……」
「自分で、止めたいです」
ミラベルは数秒、メイベルを見ていた。
それから頷く。
「いいわ」
短く。
でも、しっかりと。
「合格」
「またそれ」
あたしが言うと、ミラベルは肩をすくめた。
「便利なのよ、この言い方」
軽く返す。
でも、その目はもうさっきほど刺々しくなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
メイベルは少し疲れた顔をしていた。
でも、崩れてはいない。
歩幅も小さいけれど、自分の足で歩いている。
「……依夜さん」
「なに」
「さっき」
「うん」
「逃げるって」
「うん」
「悪いことじゃないって」
少し考える顔。
「どう思いますか」
あたしは、少しだけ空を見た。
夕方の色が、雲の端に残っている。
「……ケースバイケース」
「え」
「何でもかんでも逃げるのはダメ」
「……」
「でも」
「……」
「逃げないで壊れる方がダメ」
メイベルが静かに頷く。
「……はい」
「で」
「……」
「大事なのは」
「……」
「自分で決めること」
メイベルが、少しだけ笑う。
「……今日」
「うん」
「わたし」
「うん」
「逃げました」
少し照れた顔。
「うん」
「でも」
「うん」
「ちゃんと決めました」
その言葉に、あたしも少し笑った。
「それでいい」
「……はい」
メイベルは胸元で手を握る。
「……前なら」
「うん」
「帰るのは、失敗だと思ってました」
「うん」
「でも今日は」
「……」
「帰るって決めたので」
少しだけ、声が強くなる。
「失敗じゃない気がします」
あたしは頷く。
「失敗じゃないよ」
「……はい」
歩きながら、思う。
逃げること。
進むこと。
どっちも、正解になり得る。
逃げないことが強さになる日もある。
逃げることが、自分を守る強さになる日もある。
でも。
“選ばないまま流される”のだけは、違う。
今日、メイベルはちゃんと選んだ。
残ることじゃなくて。
帰ることを。
だからそれは、ただの逃げじゃない。
ちゃんとした、一歩だった。




