第四十五話「優しさが、間違う時」
その日の朝。
あたしは、少しだけ意識していた。
“守るだけはダメ”。
“選ばせる”。
ミラベルの言葉と、メイベルの「選びたい」という気持ち。
その両方を、ちゃんと成立させる。
――そのつもりだった。
◇ ◇ ◇
「……依夜さん」
「なに」
「今日の目標」
「うん」
「……少しだけ、自分で決める、です」
メイベルが、少し緊張した顔で言う。
声は小さい。
でも、自分で言った。
「いいじゃん」
「……いいですか」
「うん」
「でも」
「うん」
「怖いです」
「そりゃそうでしょ」
あたしは軽く返す。
「いきなり全部できるわけないし」
「……はい」
「だから」
「……」
「無理そうなら、すぐ言いな」
「はい」
いつも通りのやり取り。
メイベルも少し安心したように頷いた。
その時のあたしは、ちゃんとやれていると思っていた。
不安を否定していない。
無理もさせていない。
メイベルの目標も受け止めている。
――でも、もう少しだけズレていた。
◇ ◇ ◇
午前中。
メイベルは二回、「少し苦しいです」と言えた。
一回目は一時間目の終わり。
二回目は三時間目の途中。
それ自体は、悪くなかった。
ちゃんと自分の状態を言葉にできている。
限界まで黙り込む前に、知らせることができている。
だから、あたしはすぐに動いた。
「外出る?」
「……はい」
返事を待って、すぐ廊下へ出た。
呼吸を整えさせて、水を飲ませて、少し落ち着いたら戻る。
それを二回。
手順としては間違っていない。
安全だった。
早かった。
失敗もしなかった。
でも。
今思えば、あたしはほとんど迷わせなかった。
席で整えるか。
外に出るか。
少し待つか。
誰かに頼るか。
本当は選択肢がいくつもあったのに、あたしは一番安全そうな道を先に差し出した。
それが優しさだと思っていた。
メイベルを助けているつもりだった。
◇ ◇ ◇
三時間目のあと。
教室に戻ると、メイベルは少しだけ黙り込んでいた。
「……どうした」
「……いえ」
「今どれくらい」
「……四、です」
「なら大丈夫だね」
そう言って、あたしは席に座った。
四なら危険域じゃない。
さっきより落ち着いている。
そう判断した。
メイベルは、何か言いかけてやめた。
唇が少し動いて、でも声にはならない。
視線があたしの方へ向いて、それから落ちる。
その違和感に、その時のあたしは気づかなかった。
気づこうとしなかった、のかもしれない。
◇ ◇ ◇
昼休み。
例の女子たちが、またメイベルを誘いに来た。
「メイベルちゃん、今日ちょっと購買一緒行かない?」
「……えっと」
メイベルが迷う。
その一瞬で、あたしは口を挟んでいた。
「今日はやめときな」
「……」
空気が止まる。
ほんの少しだけ。
「え、なんで?」
女子が不思議そうに聞く。
「ちょっと疲れてるから」
「あ、そっか」
軽く引いてくれる。
「じゃあまた今度ねー」
「……はい」
メイベルは小さく返事をした。
そのやり取りを見て、あたしは“うまくやった”と思った。
無理させなかった。
断りづらい場面を代わりに切った。
負担を減らした。
問題ない。
むしろ、適切な対応だと思った。
メイベルが何も言わなかったことを、“納得している”と勘違いした。
◇ ◇ ◇
午後。
授業中、メイベルはほとんど何も言わなかった。
苦しそうではない。
呼吸も乱れていない。
顔色も悪くない。
でも、軽くもない。
ただ、静かに座っている。
笑うでもなく。
不安を口にするでもなく。
こっちを見る回数も少ない。
「……」
あたしは少しだけ違和感を覚えた。
でも、“崩れてないなら大丈夫”と判断した。
それが間違いだった。
崩れていないことと、大丈夫なことは違う。
黙っていることと、納得していることも違う。
その当たり前を、あたしは見落としていた。
◇ ◇ ◇
放課後。
教室に人が減って、空気が静かになった頃だった。
「……依夜さん」
メイベルが、少し小さい声で呼ぶ。
「なに」
「……今日」
「うん」
「……あまり、何もできなかったです」
その言い方に、少し引っかかる。
「そんなことないでしょ」
「……」
メイベルは首を横に振った。
「……ずっと」
「……」
「依夜さんが決めてくれたので」
その一言で、全部が繋がった。
「……」
あたしは言葉を失う。
「外に出るのも」
「……」
「断るのも」
「……」
「全部」
メイベルは視線を落とした。
「……楽でした」
「……」
「でも」
「……」
「……少しだけ」
言葉が詰まる。
それでも、メイベルは続けた。
「怖かったです」
「……は?」
思わず声が出る。
「何が」
「……」
メイベルは少し震えた。
「……自分で、何も決めてない感じが」
その言葉が、胸に刺さった。
「……依夜さん」
「……」
「優しいのは」
「……」
「わかってます」
その言い方が、余計に痛い。
責めているわけじゃない。
だからこそ、逃げ場がない。
「でも」
「……」
「……それだと」
メイベルは少しだけ顔を上げた。
「……わたしが、いなくてもいい気がして」
頭が真っ白になる。
「……は?」
思考が追いつかない。
「何それ」
「……」
メイベルは慌てて首を振った。
「ち、違います……!」
「……」
「そういう意味じゃなくて……」
でも、もう遅い。
言葉はちゃんと届いていた。
「……自分で決めてないと」
「……」
「……ここにいる理由が、わからなくなるんです」
静かな声だった。
泣き叫ぶわけでもない。
取り乱すわけでもない。
だから余計に、重かった。
「……」
あたしは、ようやく理解した。
あたしは、守ったつもりだった。
失敗させないようにした。
苦しくならないようにした。
断りづらいことを、代わりに断った。
でもその結果。
メイベルの“選ぶ”を奪っていた。
“選びたい”と言った翌日に。
あたしが、それを奪った。
◇ ◇ ◇
「……ごめん」
自然に出た。
「……え」
メイベルが顔を上げる。
「ごめん」
「……」
「やりすぎた」
メイベルが戸惑う。
「い、いえ……」
「いや、やった」
はっきり言う。
「全部、先に決めた」
「……」
「楽にしたつもりだったけど」
「……」
「それ、違った」
メイベルは、少しだけ目を揺らす。
「……依夜さん」
「なに」
「……優しかったです」
その言葉が、逆に刺さる。
「でも」
「……」
「ちょっとだけ」
「……」
「……苦しかったです」
あたしは目を閉じた。
完全に、ミラベルの言っていた通りだ。
“守るだけはダメ”。
あたしは今日、それをやった。
守ったつもりで、止めて。
助けたつもりで、奪った。
「……メイベル」
「はい」
「次から」
「……」
「先に決めない」
目を開ける。
「え……」
「まず聞く」
「……」
「どうしたいか」
「……」
「そこからにする」
メイベルは、少し驚いた顔をした。
「……いいんですか」
「よくないと困る」
苦笑する。
「今日みたいなの、もうやらない」
「……」
「でもさ」
「はい」
「危ないと思ったら止める」
「……はい」
「そこは変えない」
メイベルは少しだけ目を丸くした。
あたしは続ける。
「選ばせるって、全部好きにしていいって意味じゃないでしょ」
「……」
「危ない時は止める」
「……はい」
「でも、危なくないなら、まず聞く」
メイベルは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
その返事は、少し安心していた。
◇ ◇ ◇
帰り道。
少しだけ沈黙が続いた。
でも、朝よりは嫌な沈黙じゃない。
失敗したあとの沈黙。
でも、まだ壊れていない沈黙。
「……依夜さん」
「なに」
「今日」
「うん」
「ちゃんと言えてよかったです」
あたしは少しだけ笑う。
「うん」
「言わなかったら」
「……」
「たぶん、また同じでした」
その言葉に、頷くしかない。
「……ありがと」
「え」
「言ってくれて」
「……」
メイベルは少し照れたように目を伏せる。
「……依夜さんが、聞いてくれたので」
「聞く前に気づけたらよかったんだけどね」
「……でも」
「うん」
「気づいたあと、ちゃんと謝ってくれました」
その言葉に、胸の奥が少し痛くなる。
「それ、普通でしょ」
「……わたしには、普通じゃないです」
そう言われると、何も返せなかった。
メイベルは少しだけ息を整えてから、続ける。
「……次は」
「うん」
「ちゃんと、一緒に決めたいです」
あたしは頷く。
「うん」
「それがいい」
「……はい」
今日の失敗は、結構大きい。
でも、ちゃんと気づけた。
ちゃんと言ってくれた。
ちゃんと謝れた。
なら、無駄じゃない。
優しさが間違うこともある。
守ろうとした手が、相手の選択肢を塞ぐこともある。
でも。
そのままにしなければ。
言葉にして、謝って、次のやり方を変えられるなら。
たぶん、ちゃんと修正できる。
あたしは隣を歩くメイベルを見る。
少し疲れている。
でも、朝よりも表情ははっきりしている。
今日は、うまくできなかった。
でも。
うまくできなかったことを、二人で見つけられた。
それもきっと、前に進むための一歩なんだと思う。




