第四十三話「姉の条件」
放課後。
教室に残っているのは、あたしたち三人だけだった。
昨日と同じ配置。
あたしとメイベルが並んで立って、ミラベルが窓際にもたれている。
でも、空気はまるで違う。
もう“西宮美良”じゃない。
そこにいるのは、ミラベル=ウエストパラスト。
メイベルの姉。
そして、あたしたちを試す側の人間だった。
「……で?」
ミラベルが、窓際にもたれたまま言う。
「今日は何を確認するのかしら」
軽い口調。
でも、その奥にある圧は昨日よりずっと明確だった。
あたしは一歩前に出る。
「確認じゃない」
「へえ」
「聞く側じゃなくて」
「……」
「聞かれる側になりなよ」
横でメイベルが息を呑む。
ミラベルの口元が、少しだけ歪んだ。
「強気ね」
「今さらでしょ」
「そうね」
数秒の沈黙。
それから、ミラベルが体を起こした。
窓から離れて、ゆっくりと歩いてくる。
コツ、コツ、と靴音が響く。
その歩き方だけで、教室の空気が変わった。
「いいわ」
あたしたちの前で止まる。
「じゃあ、こっちから聞く」
視線が、まっすぐあたしに向いた。
「あなた」
「なに」
「この子の隣に立つつもりなのよね」
迷わず答える。
「そのつもり」
「……」
ミラベルは少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
一歩、距離が詰まる。
「条件があるわ」
その一言で、空気が締まった。
メイベルの指が、あたしの袖をぎゅっと掴む。
「……条件?」
「ええ」
ミラベルは指を一本立てた。
「一つ目」
声が、少し低くなる。
「“守るだけ”は却下」
「……は?」
「この子を守るだけの関係なら」
「……」
「その場でやめなさい」
あたしは眉をひそめる。
「意味わかんないんだけど」
「そのままの意味よ」
ミラベルは淡々と言う。
「守るっていうのはね」
「……」
「相手を止めることと、ほとんど同じになりやすいの」
メイベルが小さく震えた。
「危ないからやめなさい」
「……」
「無理だからやめなさい」
「……」
「あなたにはまだ早い」
ひとつひとつ、言葉が教室に落ちる。
「それを繰り返せば」
「……」
「この子は一生、自分で立てない」
沈黙。
あたしは少しだけ視線を逸らした。
心当たりがある。
守ろうとして、止めたこと。
危ないと思って、先回りしたこと。
メイベルのためだと言いながら、メイベルが選ぶ余地を狭めていたこと。
なかった、とは言えない。
「……じゃあどうしろっていうの」
「簡単よ」
ミラベルは言った。
「“選ばせなさい”」
その言葉は、あたしの中にすっと入った。
そうだ。
澄鈴にも言われた。
あたしの役は、全部を抱えることじゃない。
選ぶこと。
そして、選ばせること。
メイベルが自分で立つための場所を、奪わないこと。
「二つ目」
ミラベルが続ける。
「依存を肯定するなら」
少しだけ、間を置く。
「あなたは敵よ」
空気が、一気に冷える。
「……敵って」
「そのまま」
ミラベルの目が鋭くなる。
「この子はね」
「……」
「簡単に依存する」
メイベルがびくっとした。
あたしの袖を掴む指に、力が入る。
「“いていい”って言われたら」
「……」
「それに全部乗る」
痛いほど、わかる。
安心したいから。
置いていかれたくないから。
自分で立つより先に、誰かの言葉にしがみついてしまう。
「だから」
「……」
「そこに甘えて、“それでいいよ”って言った瞬間」
ミラベルが一歩踏み出す。
「壊れる」
短い言葉。
でも、重い。
あたしは言い返せなかった。
それも知っているから。
“ここにいていい”。
その言葉だけなら優しい。
でも、その先がなければ、ただの停滞になる。
メイベルがそこに全部預けて、自分で選ばなくなったら。
たぶん、それは救いじゃない。
「三つ目」
ミラベルが最後に指を立てる。
「途中で投げるなら」
あたしを真っ直ぐ見る。
「最初から関わるな」
その言葉は、一番シンプルで、一番重かった。
メイベルの手が震える。
その震えが、袖越しに伝わってくる。
あたしはその手を見て、それからミラベルを見た。
「……以上?」
「以上」
静かに言い切る。
教室に、重たい沈黙が落ちた。
誰もすぐには口を開かない。
夕方の光が、少しずつ薄くなっていく。
あたしはゆっくり息を吐いた。
「……めんどくさい条件だな」
ぽつりと言う。
ミラベルが少しだけ笑った。
「でしょうね」
「でも」
「……」
「全部わかる」
正直に言う。
ミラベルの目が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「守るだけはダメ」
「……」
「依存はダメ」
「……」
「途中で投げるのもダメ」
指折り数える。
「つまり」
「……」
「ちゃんと選ばせて」
「……」
「でも放置せず」
「……」
「最後まで関われってこと?」
ミラベルは少しだけ肩をすくめた。
「そういうこと」
「ハードモードすぎない?」
「当然でしょ」
即答だった。
「この子と関わるって」
「……」
「そういうことよ」
その言葉に、あたしは少しだけ笑った。
笑うしかなかった。
重い。
面倒くさい。
難しい。
でも、それで引くくらいなら、もうとっくに引いている。
「……上等」
横でメイベルが息を呑む。
「やるよ」
「……」
ミラベルの目が細くなる。
「軽いわね」
「軽くない」
即座に否定する。
「めんどくさいのはわかってる」
「……」
「あたしが間違えたら、メイベルが傷つくのもわかってる」
そこで一度、言葉を切る。
「でも」
一歩前に出る。
「それでも一緒にいたいって言ったの、あたしだから」
メイベルが、はっとした顔であたしを見る。
「だから」
「……」
「途中で投げる気はない」
ミラベルと目が合う。
逃げない。
「依存させない」
「……」
「でも、突き放さない」
「……」
「選ばせる」
言い切る。
「それでいく」
沈黙。
数秒。
でも、やけに長く感じた。
やがて。
「……ふふ」
ミラベルが笑った。
昨日より、ほんの少しだけ柔らかい笑い。
「いいわ」
一歩引く。
「合格」
「またそれか」
「好きなのよ、この言い方」
軽く返す。
でも、その“合格”には、ちゃんと意味があった。
少なくとも、昨日よりは。
ミラベルはメイベルを見る。
「あなたも」
「は、はい……!」
「今の条件、聞いたわね」
「……はい」
「それでもこの子の隣にいる?」
メイベルは、少しだけ震えた。
でも、今度はすぐにあたしを見なかった。
自分の胸元で手を握る。
息を吸って、吐く。
そして。
「……います」
小さいけれど、はっきり言った。
「……」
ミラベルはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細める。
「そう」
短く返す。
でも、それで十分だった。
「なら、あなたも覚えておきなさい」
「……はい」
「隣にいるっていうのは、寄りかかることだけじゃない」
「……」
「相手が間違えそうな時、自分で声を出すことでもある」
メイベルの肩が少し揺れる。
「依夜が全部決めてくれるわけじゃない」
「……はい」
「あなたも選ぶの」
「……」
「選ばされるんじゃなくて、自分で」
メイベルは唇を結ぶ。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
その返事に、ミラベルの表情がほんの少し柔らかくなる。
厳しい。
でも、突き放しているだけじゃない。
姉の顔だった。
◇ ◇ ◇
教室を出ると、空気が少し軽く感じた。
廊下のざわめきが戻ってくる。
遠くから部活の声も聞こえる。
メイベルが、あたしの袖をそっと引いた。
「……依夜さん」
「なに」
「今の」
「うん」
「怖かったです」
「だろうね」
「でも」
「うん」
「……安心もしました」
あたしは少しだけ首をかしげる。
「なんで」
「……条件が、はっきりしたので」
その答えに、少し笑う。
「真面目だなあ」
「すみません……」
「謝るなって」
でも、確かにそうだ。
曖昧な優しさより、はっきりした条件の方が、この子には合っているのかもしれない。
どこまでなら大丈夫か。
何をしてはいけないのか。
何を選ばなきゃいけないのか。
輪郭がある方が、怖くても歩ける。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「ちゃんと、選びます」
あたしは小さく頷く。
「うん」
「その代わり」
「うん」
「……ちゃんと、見ててください」
少しだけ強くなった声。
あたしは、ちゃんとその目を見る。
「見るよ」
「……」
「最後まで」
そう言うと、メイベルは少しだけ笑った。
泣きそうで、でも泣かない顔。
少しずつ、強くなっている顔。
後ろでは、ミラベルが静かにそれを見ていた。
もう試す側に回っている。
きっと、これからも面倒なことを言う。
でも、それでいい。
これでやっと、“条件付きの関係”が始まった。
優しさだけじゃ続かない関係。
甘やかすだけでも、守るだけでも、たぶん壊れる関係。
だからこそ。
選ばせる。
見ている。
戻れる場所を残す。
その全部を、途中で投げずに続けていく。
それがきっと、姉の条件で。
そして、あたしがメイベルの隣に立つための条件でもある。




