第四十二話「西宮美良じゃなくて」
放課後。
教室の空気が、少しずつ抜けていく。
椅子を引く音。
鞄を閉じる音。
廊下へ流れていく声。
いつもなら、そのまま帰る時間だった。
でも今日は違う。
あたしは一つだけ、はっきり決めていた。
――今日は、あの人を逃がさない。
「……美良」
名前を呼ぶ。
窓際でスマホをいじっていた西宮美良が、ゆっくり顔を上げた。
「なに?」
軽い声。
余裕のある笑み。
いつも通りの“西宮美良”。
「ちょっと話ある」
「へえ、珍しいわね」
その軽い笑い方に、ほんの少しだけ苛立つ。
でも、乗らない。
今日はその顔で終わらせない。
「三人で」
「三人?」
あたしは横を見る。
メイベルは少し緊張していた。
指先も固い。
でも、逃げる顔ではなかった。
「……はい」
小さく頷く。
その返事を確認してから、あたしはもう一度、美良を見る。
「メイベルも含めて」
「……」
一瞬だけ、美良の目が細くなる。
ほんの一瞬。
でもその一瞬に、いつもの軽さとは違うものが覗いた。
「いいわよ」
美良はスマホをしまって立ち上がる。
「場所、変える?」
「空き教室」
「了解」
軽い返事。
でも、もう空気は軽くない。
◇ ◇ ◇
誰もいない教室。
夕方の光が、机と椅子を斜めに照らしている。
窓の外では、部活の声が遠く聞こえた。
あたしとメイベルは並んで立つ。
美良は少し離れた位置で、窓にもたれていた。
距離を取っている。
でも、逃げてはいない。
「で?」
美良が言う。
「何の話?」
あたしは少しだけ息を吐く。
ここで言葉を濁したら負けだ。
「確認」
「なにを?」
「あんたの立ち位置」
美良は小さく笑った。
「転校生よ?」
「そういうのいいから」
「つれないわね」
その軽さ。
いつもの調子。
けど、それが仮面なのはもうわかっている。
「……あんたさ」
「なに?」
「ずっと“西宮美良”で話してるけど」
美良の視線が、ほんの少し鋭くなる。
「それ、やめなよ」
空気が、一段階変わった。
隣で、メイベルの肩が小さく揺れる。
「……どういう意味?」
美良の声は変わらない。
でも、温度が少し落ちた。
「そのまま」
「曖昧ね」
「わざとでしょ」
一歩、踏み出す。
「転校生として絡んでくるのも」
「……」
「距離を詰めてくるのも」
「……」
「こっちを試すみたいな言い方をするのも」
「……」
「全部、“西宮美良”のやり方」
美良は黙っている。
笑みはまだ残っている。
けど、さっきより薄い。
「でもさ」
「……」
「あんた、それだけじゃないでしょ」
沈黙。
教室の外の声が、やけに遠くなる。
「……依夜さん」
メイベルが小さく呼ぶ。
不安そうな声。
でも、あたしは止まらない。
「メイベルのこと、見に来たんでしょ」
「……」
「面白がってるだけじゃなくて」
「……」
「姉として」
その言葉で、空気が完全に止まった。
美良の笑みが消える。
代わりに、静かな表情が残った。
「……へえ」
ゆっくりと、顔を上げる。
「そこまで言うのね」
その声は、今までの“美良”とは少し違った。
軽さが減って、芯が出ている。
「言うよ」
「……」
「だって、もう隠す気ないでしょ」
美良はしばらく黙っていた。
窓の外を見る。
それから、メイベルに視線を落とす。
メイベルは逃げなかった。
少し震えながらも、ちゃんと立っている。
「……メイベル」
呼ばれて、メイベルがびくっとする。
「は、はい……」
「あなたは?」
美良が一歩、距離を詰める。
「今のままでいいの?」
「……」
メイベルの視線が揺れる。
一瞬、あたしを見る。
あたしは何も言わなかった。
これは、メイベルが答えるところだ。
ここであたしが代わりに言えば、楽だ。
でも、それだと意味がない。
「……」
沈黙が落ちる。
長い。
けど、必要な沈黙。
やがて、メイベルは小さく息を吸った。
「……よく、ないです」
はっきり言った。
「……ほう」
美良の目が、少し細くなる。
「どうよくないの?」
「……」
メイベルは言葉を探す。
指先が震えている。
でも、声は消えない。
「……姉さまが」
「……」
「西宮さんとしていると」
「……」
「わたし、ちゃんと話せません」
震えた言葉。
でも、逃げていない言葉。
「……そう」
美良が小さく呟く。
「じゃあ、どうしたいの?」
メイベルは一瞬だけ目を閉じた。
それから、開く。
「……ちゃんと」
「……」
「話したいです」
少し間を置いて、続ける。
「姉さまとして」
その言葉が、空気を決めた。
あたしは一歩前に出る。
「聞いた?」
「……」
美良は、ゆっくりと息を吐いた。
それから、くすっと笑う。
でも、その笑いは今までとは違う。
誤魔化すためじゃない。
認めるための笑いだった。
「……ほんと」
「なに」
「変わったわね、あなたたち」
美良は窓から離れる。
一歩。
二歩。
あたしたちの前に立つ。
「そこまで言われたら」
「……」
「さすがに、隠してる方が野暮ね」
少しだけ首を傾ける。
「西宮美良としてなら」
「……」
「軽く流してあげるところだけど」
その一瞬。
空気が切り替わった。
「……でも」
声が少し低くなる。
「今は違うわね」
メイベルが息を止める。
あたしも視線を外さない。
そして。
「ミラベル=ウエストパラスト」
その名前が、静かに教室に落ちた。
「それが、私の名前」
メイベルの目が大きく開く。
「……ミラベル、姉さま……」
震える声。
でも、その呼び方は、さっきより確かだった。
「ええ」
ミラベルは、少しだけ優しく笑った。
「久しぶりね、メイベル」
その瞬間。
今までの“西宮美良”が、完全に消えた。
そこにいるのは、転校生じゃない。
メイベルの姉だった。
◇ ◇ ◇
「で」
ミラベルがあたしを見る。
「あなたは?」
「なにが」
「どうするの」
「……」
その視線は、試すようだった。
でも、前よりも正面から来る。
「メイベルを選んだんでしょ」
「選んだよ」
「なら」
一歩近づく。
「半端は許さない」
空気が張り詰める。
「この子は」
「……」
「あなたが思ってるより、ずっと壊れやすい」
わかってる。
とは言わなかった。
わかってるつもりで、何度も間違えかけたから。
だから、別の言葉を返す。
「だから何」
「……」
ミラベルの目が、少し細くなる。
「壊したら」
「……」
「許さない」
軽くない言葉だった。
脅しというより、覚悟に近い。
あたしは少しだけ笑う。
「上等」
間髪入れずに返す。
「壊さないから」
ミラベルが、わずかに目を見開く。
「……言うじゃない」
「言うよ」
「根拠は?」
「ない」
正直に言う。
「でも」
「……」
「選んだのは、あたしだから」
メイベルが横で小さく息を呑む。
「だから」
「……」
「途中で投げる気はない」
沈黙。
数秒。
でも、長く感じた。
そのあと。
「……ふふ」
ミラベルが笑った。
今度は、少し楽しそうに。
「いいわ」
一歩引く。
「とりあえず、合格」
「上からだな」
「姉だからね」
あっさり言う。
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
「……メイベル」
ミラベルが妹を見る。
「はい」
「ちゃんと選びなさい」
「……」
「この子を信じるのか」
「……」
「それとも、また逃げるのか」
メイベルは少し震えた。
でも、今度はすぐにあたしを見なかった。
自分の胸の前で手を握り、息を整える。
そして。
「……信じます」
はっきり言った。
「……」
ミラベルは、その答えをじっと見ていた。
それから、小さく頷く。
「そう」
短い返事。
でも、それで十分だった。
「なら、簡単には戻れないわよ」
「……はい」
「信じるって、気持ちよく縋ることじゃない」
「……」
「怖くても、目を開けて見ることよ」
メイベルは唇を結ぶ。
でも、頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、ミラベルの表情が少しだけ柔らかくなった。
姉としての顔。
厳しいけれど、突き放すだけじゃない顔だった。
◇ ◇ ◇
教室を出る時。
ミラベルが、ぽつりと呟いた。
「西宮美良は、便利だったんだけどね」
「もう使わないの?」
「どうかしら」
ちらっと振り返る。
「あなたたち次第」
「めんどくさ」
「知ってる」
でも、その顔は少しだけ楽しそうだった。
メイベルが、小さくあたしの袖を引く。
「……依夜さん」
「なに」
「今の」
「うん」
「怖かったです」
「だろうね」
「でも」
「うん」
「うれしかったです」
あたしは少しだけ笑う。
「ならよし」
メイベルはもう一度、教室の方を振り返った。
そこには、ミラベルが静かに立っている。
もう“西宮美良”じゃない。
軽く笑って全部を流す、ただの転校生じゃない。
メイベルの姉。
ミラベル=ウエストパラスト。
ようやく、その名前で同じ場所に立った。
あたしは少し息を吐く。
これで何かが終わったわけじゃない。
むしろ、ここから面倒になるのかもしれない。
でも、それでいい。
隠れたままの相手と話すよりは、ずっといい。
これでやっと。
ちゃんと同じ土俵に立てた気がした。




