第四十一話「ここにいていいの、その先」
「ただいま」
その一言を、メイベルが口にした翌日。
あたしは、少しだけ世界の見え方が変わっていることに気づいた。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
問題が全部解決したわけでもない。
メイベルの不安が消えたわけじゃないし、あたしが急に完璧な人間になったわけでもない。
でも。
“帰ってくる場所がある”。
その前提が、あたしたちの中で、少しだけちゃんとした形になった。
それだけで、こんなに違うのかと思う。
◇ ◇ ◇
「……依夜さん」
朝、家を出る前。
玄関で靴を履こうとしていたメイベルが、少しためらいがちにあたしを呼んだ。
「なに」
「……今日も」
「うん」
「学校、行きます」
「昨日も行ったじゃん」
「で、でも……」
「うん」
「なんだか、違う気がして」
あたしは少しだけ首をかしげる。
「何が」
「……」
メイベルは視線を落として、自分の胸元あたりを見た。
そこに何か答えが書いてあるみたいに。
「帰る場所があるって思ったら」
「……」
「少しだけ、怖さが違います」
その言い方は、ちょっとだけ新しかった。
「減った?」
「……いえ」
「増えた?」
「……」
「どっち」
「……形が、変わりました」
なるほどね、と思う。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、“全部ダメになったら終わり”じゃなくなった。
逃げたら終わり。
失敗したら終わり。
帰ってきたら迷惑。
そういうふうに、全部が一方通行じゃなくなった。
それだけで、人は少し違う立ち方ができる。
「……いいじゃん」
「……いいですか」
「うん」
「怖さがあるままでも?」
「あるままでいいでしょ」
「……」
「怖くなくなってから動く、だとさ」
「はい」
「たぶん一生動けないこともあるし」
「……はい」
「怖いまま、ちょっと動けるなら、それで十分」
メイベルは、その言葉をゆっくり胸にしまうみたいに頷いた。
「……はい」
その返事は、昨日までより少しだけ落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
登校中。
今日は朝輝はいない。
先に出たのか、別の用事なのかは知らない。
でも昨日のこともあってか、メイベルの空気は少し軽かった。
もちろん、完全に平気そうなわけじゃない。
それでも、袖を握ろうとして、途中でやめる。
こっちを見る前に、少し自分で息を整える。
そういう小さな変化がある。
「……依夜さん」
「なに」
「今日の目標」
「うん」
「どうしましょう」
「自分で決めな」
「えっ」
わかりやすく固まった。
「昨日までは一緒に決めてたけど」
「……」
「今日はあんたが決める日」
「……難しいです」
「だろうね」
「……」
「でも、できる範囲でいい」
メイベルは少し黙る。
歩きながら、考えている。
眉間にほんの少しだけ力が入っている。
前なら、ここで“依夜さんが決めてください”と言っていたかもしれない。
でも今は、答えを探している。
ちゃんと、自分の中から。
「……帰る場所を」
「うん」
「ちゃんと使う」
「……」
あたしは少しだけ目を細めた。
「どういう意味」
「……無理しすぎないで」
「うん」
「ちゃんと戻ることを考える」
「うん」
「それを、忘れない」
昨日の延長。
でも、昨日とは少し違う。
“帰ってきてもいいですか”じゃない。
“帰る場所を使う”。
ちゃんと、自分の選択肢として扱おうとしている。
「いいじゃん」
「……いいですか」
「うん」
「それ、今日の目標でいい」
「……はい」
メイベルが、小さく笑った。
不安そうで、でもどこか誇らしそうな笑い方だった。
◇ ◇ ◇
午前中の授業は、比較的落ち着いていた。
メイベルは二回、自分から「少し苦しいです」と言えた。
一回目は、席で呼吸を整えることを選んだ。
二回目は、廊下に出るか迷って、結局「まだ座っていられます」と言った。
全部あたし任せじゃない。
そこが、昨日までと違う。
もちろん、あたしは見ていた。
澄鈴も見ていた。
でも、先に決めるのはメイベルだった。
「……依夜」
休み時間、澄鈴が隣で小さく言う。
「なに」
「今日はいい」
「ざっくりだな」
「でも伝わるでしょ」
「まあね」
あたしは少しだけ肩をすくめる。
「昨日の続きがちゃんとある感じ」
「それな」
「単発で終わってない」
「それ、大事」
「うん」
横を見ると、美良がこちらをちらりと見ていた。
何も言わない。
でも、見ている。
相変わらず、目だけは鋭い。
こっちが何か言う前に、美良は視線を外した。
興味がないふりをするみたいに。
でも、絶対見ている。
そういうところ、本当に面倒くさい。
◇ ◇ ◇
問題が起きたのは、五時間目のあとだった。
授業が終わって、教室の空気が少し緩んだタイミング。
椅子を引く音。
話し声。
誰かが笑う声。
机の間を移動する足音。
いつもなら流れていくはずの音が、少しだけ大きく聞こえた。
その時、メイベルの呼吸が浅くなった。
「……メイベル」
「……はい」
「今どれくらい」
「……六、です」
「うん」
「……でも」
「うん」
「さっきより、少し違います」
あたしは眉をひそめる。
「どう違う」
「……怖い、です」
その一言には、昨日までとは違う重さがあった。
「何が」
「……わかりません」
「……」
きっかけがない不安。
理由がはっきりしている時より、厄介なやつだ。
何を取り除けばいいのかわからない。
どこから来たのかもわからない。
だから余計に怖くなる。
「……外行く?」
「……」
メイベルはすぐには頷かなかった。
机の端に手を置いたまま、少しだけ唇を結ぶ。
「少しだけ、ここでやってみたいです」
あたしは目を見開く。
「ここで?」
「はい」
「……大丈夫?」
「……わかりません」
「……」
「でも」
「うん」
「帰る場所があるって思ったら」
「……」
「ここでも、少しだけ頑張れる気がします」
その言葉を聞いて、あたしはすぐには返せなかった。
無理させるのは違う。
でも、自分で試そうとしているのを全部止めるのも違う。
ここで止めたら、安全ではある。
でも、メイベルが自分で掴みかけているものを、あたしが奪うことになるかもしれない。
「……時間決める」
「……はい」
「三分」
「……」
「それで無理なら外」
「……はい」
メイベルは頷いた。
あたしはスマホで時間を見る。
「スタート」
◇ ◇ ◇
一分。
メイベルは机に手を置いて、呼吸を整えている。
指先は少し震えている。
でも、目は完全には泳いでいない。
まだ、ここにいる。
二分。
教室のざわめきが一段大きくなる。
誰かが近くを通る。
メイベルの肩が小さく跳ねる。
でも、崩れない。
息を吸って、吐く。
もう一度、吸って、吐く。
三分。
「……どう」
あたしが聞くと、メイベルは少しだけ顔を上げた。
「……まだ、いけます」
正直、少し驚いた。
「ほんとに?」
「……はい」
「……」
「でも」
「うん」
「無理する前に、外行きます」
自分で言った。
“まだいける”だけじゃない。
“無理する前に出る”もセットで言えた。
あたしは小さく頷く。
「行こう」
◇ ◇ ◇
廊下に出る。
教室より少し冷たい空気が、肌に触れる。
ざわめきが一枚壁の向こうへ遠のく。
メイベルはゆっくり息を吐いた。
「……依夜さん」
「なに」
「さっき」
「うん」
「三分、やれました」
「うん」
「……少しだけ」
「うん」
「自分でできた気がします」
あたしは少しだけ笑う。
「できてたよ」
「……ほんとですか」
「うん」
「無理になる前に出られたし」
「……はい」
「それ、かなり大事」
メイベルはゆっくり頷く。
廊下の窓から、午後の光が入っている。
その光の中で、メイベルの表情が少しだけ緩んだ。
「……依夜さん」
「なに」
「帰る場所があると」
「うん」
「外に出るのも」
「……」
「戻るのも」
「……」
「怖さが少し違います」
その言葉を聞いて、あたしはやっと理解した。
“帰れる”っていうのは、逃げ道じゃない。
選択肢だ。
ここで踏ん張るか。
一度離れるか。
戻るか。
それを自分で選べるようになる。
たぶん、それが一番大きい。
「……メイベル」
「はい」
「その感じ、覚えといて」
「……はい」
「帰る場所があるから」
「……」
「外に出られるし」
「……」
「また戻れる」
「……はい」
メイベルが、少しだけ笑う。
「……依夜さん」
「なに」
「ここにいていい、だけじゃなくて」
「……」
「ここに戻ってきていい、なんですね」
あたしは少しだけ目を細める。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「うん」
「……」
「何回でも」
「……」
「何回でも戻ってきていい」
メイベルの目が潤む。
「……泣くな」
「む、無理です……」
「知ってる」
でも、その涙はもう、前みたいに危なっかしくない。
ここから消えそうな涙じゃない。
ここに戻ってくるための涙だ。
◇ ◇ ◇
教室に戻ると、美良がこちらを見ていた。
「……へえ」
「なに」
「ちゃんとやってるじゃない」
「誰に言ってんの」
「あなたに」
あたしは少しだけ肩をすくめる。
「そりゃやるでしょ」
「ええ」
「選んだんだから」
美良は少しだけ笑った。
その笑いは、前みたいに刺す感じじゃなかった。
「少しだけ、認めてあげる」
「いらない」
「そう言うと思った」
でも、その言葉は悪くなかった。
席に戻るメイベルの背中を見る。
まだ不安はある。
怖さもある。
でも、もう“怖いから終わり”じゃない。
怖いまま、少し試す。
苦しくなったら、一度離れる。
そしてまた戻ってくる。
それを、自分で選べるようになってきている。
あたしはもう、“守るだけ”でも、“全部背負う”でもない。
メイベルが自分で立てるように。
でも、戻る場所はちゃんと残して。
その両方を選ぶ。
たぶんそれが――
“ここにいていい”の、その先なんだと思う。




