第四十話「帰ってくるって、約束したから」
メイベルが校門の向こうへ歩いていく。
女子たちの輪の中で、少しぎこちなく笑いながら。
会話のテンポについていこうとして、ほんの少しだけ遅れて頷いている。
何度かこちらを振り返りそうになって――でも、そのたびに踏みとどまるみたいに前を向く。
あたしはその背中を見ながら、スマホを握っていた。
さっき送ったメッセージ。
『無理そうなら、ちゃんと帰ってきな』
それに対する、メイベルの返事。
『はい。ちゃんと帰ります』
たったそれだけのやり取り。
でも、その短さの中に、妙に重さがあった。
――“ちゃんと帰る”。
あの子が、自分でそれを言った。
「……依夜」
隣で澄鈴が言う。
「なに」
「顔が保護者」
「うるさい」
「でも、前よりはいい顔」
「どういう意味」
「不安だけじゃない」
そう言われて、少しだけ黙る。
確かに不安はある。
かなりある。
あの場の空気。
知らないテンポ。
逃げにくい雰囲気。
どれも、メイベルにとっては負荷が高い。
でも。
それだけじゃない。
あの子は自分で言った。
行きたい、と。
苦しくなったら帰る、と。
だったら――
あたしがここで全部不安に塗りつぶすのは違う。
「……帰る?」
と澄鈴。
「いや」
「待つ?」
「近くで」
「過保護」
「知ってる」
「でも、今日は妥当」
あたしはスマホをポケットにしまう。
「ついていくのは違う」
「うん」
「でも、完全に放置も違う」
「うん」
「だから、駅前あたりで待つ」
「合理的」
澄鈴は小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
駅前のベンチ。
夕方の空気は少しだけ冷たくなり始めていて、人の流れも帰宅モードに変わりつつある。
あたしは自販機で買った缶コーヒーを手の中で転がしていた。
まだ開けてない。
なんとなく、そのまま持っている。
メイベルたちが向かったのは、近くのファストフード店。
誰でも行くような場所。
何も特別じゃない場所。
でも、今のメイベルにとっては――
少しだけ高いハードルのある場所。
「……何してるんだろうね、あたし」
「見守り」
「言い方」
「でも事実」
「まあね」
澄鈴は隣で参考書を開いている。
ページをめくる音が、妙に落ち着いている。
「……集中できるの?」
「できる」
「すご」
「依夜が落ち着かないだけ」
「それはそう」
認めるしかない。
スマホを見る。
まだ何も来ていない。
――連絡がないのは、悪いことじゃない。
むしろ、まだ大丈夫ってことだ。
でも。
何もないと、それはそれで落ち着かない。
「……依夜」
「なに」
「自分で行かせるって決めたんでしょ」
「うん」
「なら、少しは信じる」
「……」
「信じるのも、選ぶことの一部」
その言葉に、あたしは少しだけ目を伏せる。
「……あんた、たまにいいこと言うよね」
「たまに?」
「結構」
「ならよし」
澄鈴はまた視線を本に戻す。
信じるのも、選ぶこと。
守るって、全部先回りすることじゃない。
全部を管理することでもない。
自分で決めたことを――
少し離れた場所から、ちゃんと成立する前提として扱うこと。
それも、きっと必要だ。
「……難しいな」
「何が」
「信じるの」
「うん」
「止めるより難しい」
「そうだね」
そこは、あっさり肯定された。
◇ ◇ ◇
最初の連絡は、三十分後だった。
『今、みんなでポテトを食べています』
その一文を見て、思わず笑う。
「報告が小学生」
「見せて」
「ほら」
「……かわいい」
「澄鈴がかわいいって言うの珍しい」
「事実」
少しして、続けてメッセージ。
『少し緊張しています。でも、まだ帰らなくても大丈夫です』
あたしは息を吐く。
ちゃんと把握してる。
自分の状態を。
それを言葉にしている。
それだけで、かなり違う。
『了解。無理する前に帰ってきな』
送る。
すぐ既読。
『はい』
短い。
でも、ちゃんと返事になっている。
「……いけてる」
「今のところ」
「現実的だね」
「期待しすぎない方がいい」
「でもゼロも違うでしょ」
「うん」
「そこ難しい」
「そうだね」
その後、時間が少し伸びる。
十分。
二十分。
あたしは何度もスマホを見て、そのたびに澄鈴に視線で止められる。
何も言わないのに、圧がある。
便利な委員長だ。
◇ ◇ ◇
次の連絡。
『少し苦しくなってきました』
画面を見た瞬間、呼吸が浅くなる。
すぐに続く。
『でも、今なら自分で帰れそうです』
――ああ。
と思う。
これは、危ないラインの手前。
でも同時に――
ちゃんと自分で戻ろうとしている。
前みたいに限界まで耐えるんじゃない。
壊れる前に、選んでいる。
あたしはすぐに打つ。
『帰っておいで。駅前で待ってる』
少し間。
それから。
『はい。帰ります』
その一文を見て、あたしは立ち上がった。
「行くの?」
と澄鈴。
「迎える」
「妥当」
「一緒来る?」
「行く」
二人で通りに出る。
人の流れの中に目を凝らす。
数分。
それほど長くないはずなのに、やけに長く感じる。
そして――見えた。
金色の髪。
少し俯き気味。
でも、歩いている。
走っていない。
泣いていない。
ちゃんと、自分の足で戻ってきている。
「……メイベル」
声をかける。
顔が上がる。
その瞬間、ふっと表情が緩む。
「……依夜さん」
近づいてくる。
少し息を吐いて。
「帰ってきました」
「うん」
「……ちゃんと」
「うん」
あたしは頷く。
「おかえり」
「……!」
その一言で、メイベルの目が潤む。
「泣く?」
「な、泣きません……」
「泣きそうだけど」
「泣きそうです……」
「知ってる」
でも、この涙はいい。
崩れる涙じゃない。
戻ってきた安心の涙だ。
「……楽しかったです」
「うん」
「でも、疲れました」
「うん」
「苦しくなる前に、帰ろうと思いました」
「うん」
「……それで、帰ってきました」
一つずつ確認するように話す。
あたしは最後まで聞く。
「偉い」
「……」
「今日のそれ、かなり偉い」
「……!」
顔がぱっと明るくなる。
澄鈴も頷く。
「成功」
「……成功、ですか」
「うん」
「途中で帰ったのに……?」
「途中で帰れたから成功」
「……!」
目が大きくなる。
ああ、そうか。
まだ“最後までいる=成功”の感覚なんだ。
でも違う。
「……メイベル」
「はい」
「今日はね」
「……」
「最後までいられたかどうかじゃない」
「……」
「自分で行くって決めて」
「……」
「無理そうって気づいて」
「……」
「自分で帰るって決めた」
「……」
「だから成功」
沈黙。
言葉を抱えるみたいな沈黙。
「……成功」
「うん」
「……わたし、成功しましたか」
「した」
「……」
ぽろっと涙。
「結局泣くんだ」
「す、すみません……」
「謝らない」
「は、はい……」
泣きながら、笑っている。
それが一番いい。
◇ ◇ ◇
帰り道。
メイベルはぽつぽつと話した。
ポテトのこと。
会話の速さ。
笑ってもらえたこと。
「……また今度ね、って言われました」
「うん」
「うれしかったです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、また行けばいい」
「……!」
驚いた顔。
「いいんですか」
「いいでしょ」
「でも、途中で帰りました」
「だから?」
「……」
「次はもう少し長くいられるかもしれないし」
「……」
「同じでもいい」
「……」
「それでもいいじゃん」
少し考えて。
それから。
「……はい」
「うん」
「また、行ってみたいです」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなる。
怖かったのに。
苦しかったのに。
それでも“また行きたい”。
それは、大きい。
「依夜」
「なに」
「今日はよかった」
「珍しいね」
「事実」
苦笑する。
でも、受け取る。
◇ ◇ ◇
家の前。
メイベルが立ち止まる。
「……どうした」
「……ただいまって」
「うん」
「言ってもいいですか」
一瞬だけ、息が止まる。
でも、すぐに頷く。
「いいよ」
「……」
「ちゃんと帰ってきたんだから」
「……はい」
扉を開ける。
明るい室内。
「おかえりー」
朝輝の声。
メイベルは少しだけ緊張して――
「……ただいま、です」
小さく言った。
でも、ちゃんと届いた。
「おかえり、メイベルちゃん」
その言葉に、また目が潤む。
「今日泣きすぎじゃない?」
「うれしいことが多いので……」
その返事に、少し笑う。
今日は成功だ。
完璧じゃない。
途中で帰った。
でも、自分で決めて、自分で戻ってきた。
そして今、ここで“ただいま”を言えた。
それで十分。
帰ってくるって約束したから。
メイベルは――ちゃんと帰ってきた。




