第三十九話「それ、ちゃんと自分で決めた?」
その日の午後は、少しだけ空気が違った。
特別何かが起きたわけじゃない。
教室のざわめきも、いつもと同じくらいのはずなのに。
なのに、どこか引っかかる。
声のトーンなのか。
視線の動きなのか。
それとも、もっと曖昧な何かか。
はっきりとは言えない。
でも、こういう“なんとなく”は外れない。
あたしはそれを、経験で知っている。
◇ ◇ ◇
昼休み。
いつものように、メイベルと澄鈴と三人で机を寄せていたときだった。
「ねえメイベルちゃん」
横から声がかかる。
振り向くと、別クラスの女子。
明るめで、距離を詰めるのが早いタイプ。
「放課後さ、一緒に来ない?」
その一言で、あたしはほんの少しだけ眉を動かした。
軽い調子。
でも、内容は軽くない。
「どこに」
とあたしが聞くと、
「ちょっとした集まり」
その子は、あっさりそう言って笑った。
――出た。
“ちょっとした集まり”。
便利な言葉だ。
中身をぼかしたまま、断りにくくするやつ。
「……どういう」
と、もう少し踏み込もうとした、その瞬間。
「い、行きます」
メイベルが先に答えた。
「……」
空気が、一瞬だけ止まる。
ほんのわずか。
でも確かに、時間が引っかかった。
「ほんと?」
「はい……!」
その子は嬉しそうに笑う。
「じゃあ決まりね! 放課後、校門前集合で!」
軽い足取りで去っていく。
残されたあたしたちの間に、静けさが落ちた。
さっきまでの空気とは違う、重さのある静けさ。
「……メイベル」
「は、はい」
「今どれくらい」
「……五、くらいです」
即答。
でも、嘘だ。
顔を見ればわかる。
肩の強張り方も、視線の揺れ方も。
「ほんとに?」
「……」
一拍。
「……七、です」
やっぱり。
少しだけ強がって、少しだけ正直。
「……」
「……」
横で澄鈴が口を開く。
「さっきの、即答だった」
「……はい」
「理由」
「……」
メイベルは視線を落とす。
「……頼られたので」
「……」
「断るの、よくないかなって」
来たな、と思う。
“役に立ちたい”と“断れない”。
この二つがくっついた時の、典型的な形。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「今なら、できる気がして」
「……」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
「“気がして”ね」
「……はい」
「根拠は?」
「……」
沈黙。
「……ありません」
小さい声。
でも、ちゃんと認めた。
それはいい。
ただ、それだけじゃ足りない。
「じゃあ聞く」
「……はい」
「それ、ちゃんと自分で決めた?」
「……え」
顔が上がる。
「今の“行きます”」
「……」
「頼まれたから、とか」
「……」
「断りづらかったから、とか」
「……」
「そういうの抜きで」
「……」
「自分で“行きたい”って思って言った?」
メイベルの指先が、わずかに震える。
視線が定まらない。
答えを探している。
「……」
「……」
「……わかりません」
正直な答え。
逃げてない。
「……そう」
あたしは頷く。
「じゃあ今から決めな」
「……今から」
「うん」
「もう一回」
「……」
「“行く”か“やめる”か」
横で澄鈴が短く言う。
「再選択」
「……」
メイベルは黙る。
唇を噛んで、何度か息を整えて。
視線が揺れて、戻って、また揺れて。
――考えてる。
ちゃんと、自分で。
それから、ゆっくり。
「……行きたい、です」
今度の声は、さっきより少しだけ低かった。
軽さが抜けている。
「理由は?」
「……」
また、間。
でも今度は逃げてない。
「……みんなと、一緒にいたいです」
さっきとは違う答え。
借り物じゃない、自分の言葉。
「……うん」
あたしはそれを、そのまま受け取る。
「じゃあ次」
「……はい」
「今のあんたで、いける?」
「……」
ここで、メイベルは考えた。
前なら、即答してた。
“いけます”って。
でも今日は違う。
「……そのままだと」
「うん」
「たぶん、途中で苦しくなります」
「うん」
「でも」
「うん」
「準備すれば、行けるかもしれません」
あたしは少しだけ目を細める。
「いいじゃん」
「……いいですか」
「うん」
「その“かもしれない”」
「……」
「ちゃんとしてる」
メイベルが少し驚く。
「……ほんとですか」
「ほんと」
それから続ける。
「じゃあ、どう準備する」
「……」
「そこまで考えて、やっと“行く”でしょ」
メイベルはゆっくり言葉を探す。
「……時間」
「うん」
「長くなりすぎないようにします」
「うん」
「あと」
「うん」
「途中で苦しくなったら」
「うん」
「ちゃんと、言います」
「うん」
「……帰ります」
最後の一言に、はっきりとした力があった。
逃げじゃない、“選択”としての帰る。
「よし」
「……」
「それなら行っていい」
メイベルが、ほっと息を吐く。
「……依夜さん」
「なに」
「止めないんですね」
「止める理由がない」
「……」
「自分で決めて」
「……」
「その後も考えてるなら」
「……」
「それは止めない」
メイベルは少しだけ考えて、それから小さく笑った。
「……前と、違います」
「何が」
「前なら」
「……」
「“やめときな”って言われてた気がします」
あたしは肩をすくめる。
「言ってたかもね」
「……」
「でもそれだと」
「……」
「あんたが自分で決める練習にならない」
澄鈴が横で言う。
「依夜、そこは進歩」
「珍しく褒めるじゃん」
「事実」
◇ ◇ ◇
午後の授業は、少しだけ落ち着かなかった。
メイベルはいつもより緊張している。
でも、崩れそうではない。
芯がある。
たぶん、“自分で決めた”からだ。
放課後。
校門前には、さっきの女子たち。
「メイベルちゃん、来た!」
「お、お待たせしました……!」
その様子を少し離れて見る。
「行くんだ」
と澄鈴。
「行くね」
「止めない?」
「止めない」
「理由」
「さっきやった」
「なるほど」
メイベルがこちらを見る。
不安と覚悟が混ざった顔。
あたしは小さく頷く。
「行ってきます」
「うん」
「無理そうなら帰る」
「うん」
「連絡する」
「うん」
「……」
「何」
「大丈夫ですか」
「何が」
「わたしがいなくて」
思わず笑う。
「何それ」
「い、いえ……」
「大丈夫に決まってるでしょ」
「……」
「ちゃんと行ってきな」
「……はい」
メイベルは振り返って、集団に戻っていく。
その背中を見送る。
少しだけ、胸がざわつく。
◇ ◇ ◇
「……どう?」
と澄鈴。
「正直」
「うん」
「ちょっと不安」
「素直」
「でも」
「うん」
「いい感じでもある」
ぎこちない背中。
でも、自分で選んでそこに立っている。
それが違う。
「……依夜」
「なに」
「さっきの質問」
「どれ」
「“ちゃんと自分で決めた?”」
「……」
「良かった」
「そう?」
「うん」
「一番大事だから」
シンプルな言葉。
でも、重い。
「……そっか」
あたしはスマホを取り出す。
少しだけ迷ってから、打つ。
『無理そうなら、ちゃんと帰ってきな』
送信。
既読。
すぐ返信。
『はい。ちゃんと帰ります』
それを見て、少しだけ笑う。
今日は――
手を出さない日だ。
全部支えるんじゃない。
全部止めるんでもない。
選ばせる。
その結果を、自分で持たせる。
それができているなら。
今のあたしは、きっと間違ってない。




