第三十六話「好きにさせるな」
次の日の朝、あたしは珍しく目覚ましが鳴る前に起きた。
眠れなかったわけじゃない。
でも、頭のどこかがずっと起きていた気がする。
昨日、美良に言った。
メイベルを“役に立つかどうか”の物差しには戻さないって。
愛と価値を並べるのが間違ってるって。
あれは勢いじゃない。
本気だった。
でも、本気で言ったからこそ、その先が要る。
言い切って終わりじゃない。
あたしがそれをどうやって守るのか。
メイベルがそれをどう受け取って、どう立っていくのか。
そこまで含めて、やっと意味がある。
「……」
床の毛布の上で眠るメイベルを見る。
最近は、寝顔を見ると安心する。
起きてる時はあんなに不安定なのに、寝てる時だけは全部から少し離れられるみたいで。
それにしても、相変わらず無防備だなと思う。
サキュバスのくせに、防御力が低すぎる。
「……ん」
毛布がもぞっと動いて、メイベルがゆっくり目を開ける。
視線が合う。
一瞬だけ、お互い何も言わない。
「……おはよう」
と、あたしが言う。
「……おはようございます」
少しだけ掠れた声で、メイベルが返す。
昨日までよりは、顔色がいい。
完全じゃないけど、ひどく削れてもいない。
そのことに、まず少しだけ安心する。
「寝れた?」
「……少し、です」
「少しならまあ及第点かな」
「きゅうだいてん……」
「そういう顔しないで。今のあんたに満点は求めてない」
「……」
メイベルが少しだけ目を丸くする。
「……依夜さん」
「なに」
「それ、うれしいです」
「そう」
「はい」
「じゃあ覚えといて」
「……はい」
その返事に、今日はちゃんと力があった。
◇ ◇ ◇
朝食を食べながら、あたしは今日のことを考えていた。
昨日までは、“起きたことに対処する”ばっかりだった。
でも今日は、先にやることを決めておきたい。
無理そうなら早めに抜く。
美良が何か言っても、その場の空気で飲み込まない。
メイベルが黙り込んだ時点で、大丈夫判定はしない。
当たり前のことみたいだけど、今までのあたしはそれをちゃんとできてなかった。
そこへ、朝輝がリビングに入ってくる。
「おはよ、依夜ちゃん」
「おはよう」
「メイベルちゃんも、おはよ」
「お、おはようございます……」
朝輝は二人の顔を見比べて、少しだけ目を細めた。
「昨日よりマシだね」
「……なんであんた、毎回そういうのわかるの」
「顔」
「便利だな」
「褒められた?」
「違う」
朝輝は笑って、それから冷蔵庫から牛乳を出す。
「で、今日はどうするの」
「学校行く」
「それは見ればわかる」
「じゃあ聞かないで」
「依夜ちゃん、朝ちょっと機嫌悪い?」
「通常運転」
メイベルが、ちょっとだけ困ったようにあたしたちを見る。
そういえばこの子、あたしたち兄妹のこの距離感にはまだ完全に慣れてないんだよな。
「……あんた」
「なに、依夜ちゃん」
「もし今日、あたしがメイベル連れて早めに帰るって言ったら」
「うん」
「その時は何も言わないで」
「了解」
「早いね」
「昨日の今日だし」
「……」
そこで朝輝がふっと笑った。
「ちゃんと選んでるじゃん」
「うるさい」
「褒めてるのに」
「それがうざいの」
「ひど」
でも、その軽さが今朝は少しだけありがたかった。
◇ ◇ ◇
登校中、メイベルはいつもより少しだけあたしの近くを歩いていた。
くっつくほどじゃない。
でも、不安で縋る感じとも違う。
ちゃんと、自分の意思で隣にいる距離。
「……メイベル」
「はい」
「今日の目標、決める?」
「え」
「大げさなのじゃなくて」
「……」
「“崩れない”とか“完璧にやる”とか、そういう重いやつじゃなくて」
「……はい」
「もっと小さいやつ」
メイベルは少し考えてから、おそるおそる言った。
「……ちゃんと、言う」
「何を」
「苦しい時」
「うん」
「無理な時」
「うん」
「……逃げたくなる前に」
「……」
あたしは少しだけ目を細めた。
「いいじゃん」
「……ほんとですか」
「うん」
「それでいいですか」
「それがいい」
メイベルが、少しだけほっとした顔をする。
「依夜さんは?」
「なにが」
「今日の、目標」
「……」
少し考える。
でも、答えはすぐに出た。
「勝手に決めつけない」
「……え」
「あんたが大丈夫かどうかも」
「……」
「あんたが何考えてるかも」
「……」
「あたしが全部わかったつもりにならない」
「……」
メイベルはじっとあたしを見る。
それから、少しだけうれしそうに笑った。
「……それ、いいです」
「でしょ」
「はい」
「でもあんた、それで安心してまた黙るのはなしだから」
「は、はい……!」
よし。
その返事はちゃんとしてる。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、美良はもう来ていた。
今日も今日とて完成されている。
ほんと腹立つ。
なんで朝からそんなに仕上がってるわけ。
「おはよう」
と、美良。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
と、メイベル。
美良はメイベルを見る。
あたしもその視線を見る。
ほんの一瞬。
静かな間があった。
「今日は少し、顔が違うわね」
と、美良が言った。
「どっちが」
「二人とも」
その言い方に、少しだけ眉が動く。
でも、今日はそこでいちいち反応しない。
「そりゃ昨日のままじゃ困るし」
と返す。
美良が小さく笑う。
「ふふ。そう」
「……」
「……」
そのまま席につく。
隣ではメイベルが少し緊張していたけど、昨日までみたいな“いつ崩れてもおかしくない”ほどではない。
まだ持ってる。
午前中の授業は、思っていたより穏やかに流れた。
メイベルは二回ほど小さく「今ちょっと苦しいです」と言えた。
あたしはそのたびに、次の休み時間で外に連れ出した。
澄鈴はそのやり取りを横目で見ながら、「今日はまだマシ」とだけ言った。
それが妙にありがたかった。
◇ ◇ ◇
問題が起きたのは、昼休みだった。
昼食を食べ終わって、クラスの何人かがメイベルの周りに集まり始める。
「ねえメイベルちゃん、これ手伝ってー」
「プリント、職員室まで持ってってって言われたんだけど」
「あと購買、今日はめっちゃ混んでるから一緒行かない?」
悪気はない。
というか、むしろ好意的なんだろう。
でも、その瞬間のメイベルの顔を見て、あたしはすぐにわかった。
固まってる。
頼られたことが嬉しいのと、うまくやれなかったらどうしようが同時に来てる顔だ。
「……メイベル」
「は、はい」
「今どれくらい」
「……七、くらいです」
「うん」
「で、でも」
「でも、じゃない」
そこで、クラスメイトの一人がきょとんとした顔をする。
「え、なに?」
「ちょっと今日は無理そう」
と、あたしは言う。
「えー、そうなの?」
「うん」
「メイベルちゃん、頼みやすいからつい」
「それ、だいぶ雑な理由じゃない?」
「ごめんってー」
場の空気は軽い。
でもメイベルは、あたしの横でまだ固まっていた。
「……あんたは?」
と聞く。
「やりたい?」
「……」
「無理に答えなくていい」
「……ちょっと」
「うん」
「やりたい、です」
「うん」
「でも」
「うん」
「今は、怖いです」
よし。
ちゃんと言えた。
そこで、あたしは答えを決める。
「じゃあ今日はなし」
「……え」
「やりたいなら、今度別の時でいい」
「……」
「今のあんた、引き受けたら多分潰れる」
「……はい」
その返事に、少しだけ悔しさが混じっていた。
でも、それでいい。
そこで無理して“できます”って言わなかっただけ、ちゃんと進んでる。
「ごめんね、今日はあたしが持ってく」
とクラスメイトに言うと、
「えっ、東って意外と世話焼きだよね」
「今さら?」
「たしかに」
と笑われた。
うるさい。
でもまあ、それで済むなら安い。
プリントを持って立ち上がると、背後から声がした。
「ちゃんと選んだのね」
美良だった。
振り返る。
相変わらず綺麗な顔で、こっちを見ている。
「……あたしが」
「え?」
「ちゃんと選ぶって言ったでしょ」
「……」
「やりたいことと、今できることが違うなら」
「……」
「今日はやらせない」
美良は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ笑う。
「へえ」
「何」
「前よりずっとまし」
「褒められたくはない」
「そうでしょうね」
ほんとに腹立つ。
でも、今は少しだけわかる。
この人は多分、あたしが“メイベルの代わりに全部決める”のを見たいわけじゃない。
あたしがどこで止めて、どこで任せるか、その判断があるかどうかを見てる。
だからって好きにはならないけど。
◇ ◇ ◇
職員室から戻ると、メイベルは自分の席で静かに待っていた。
あたしを見ると、少しだけ立ち上がる。
「……依夜さん」
「なに」
「さっき」
「うん」
「止めてくれて、ありがとうございます」
「うん」
「ちょっとだけ、悔しかったです」
「うん」
「でも」
「うん」
「ほっともしました」
その言い方に、あたしは少しだけ笑う。
「それでいいんじゃない」
「……はい」
メイベルは少し迷ってから、続けた。
「前のわたしなら」
「うん」
「“できます”って言ってたと思います」
「うん」
「それで多分」
「うん」
「あとで、一人で泣いてました」
「だろうね」
「ひどいです……」
「でも事実でしょ」
「……はい」
素直だな、ほんとに。
「だから」
と、あたしは言う。
「今日のあんたは、ちゃんと選んだ」
「……」
「“やりたいけど今は無理”って」
「……」
「それ言えたの、結構大きいよ」
メイベルの目が、少しだけ揺れる。
「……依夜さん」
「なに」
「それ、半端じゃないですか」
「うん」
「でも」
「うん」
「だめじゃないんですね」
「だめじゃない」
「……」
そこで、メイベルが少しだけ泣きそうな顔で笑った。
ああ、そうか、と思う。
この子にとって“半端”は今まで“落第”とほぼ同じ意味だったんだ。
でも本当は違う。
半端でも、今日はここまでならできる。
ここからはまだ無理。
それを知ることは、弱さじゃなくて、むしろ必要なことだ。
「……依夜さん」
「なに」
「これからも」
「うん」
「好きにさせないで、ください」
「……は?」
思わず変な声が出た。
メイベルが、少しだけ慌てる。
「ち、違います……!」
「いや、何が」
「姉さま、じゃなくて」
「うん」
「“できないなら全部だめ”の方に」
「……」
「好きにさせないで、って意味です」
ああ、そっちか。
でも、なんだその言い方。
ちょっとだけどきっとしたじゃん。
「……あんた」
「は、はい」
「そういうの、言い方考えなよ」
「えっ」
「いやなんでもない」
「な、なんでもない顔じゃないです……」
「うるさい」
でも、その言葉は妙に嬉しかった。
“守って”でもなく、“助けて”でもなく。
“好きにさせないで”。
それはたぶん、メイベルなりの戦う言葉なんだろう。
あたしが選ぶ側になる。
メイベルも受け身だけじゃなくて、自分で少しずつ選ぶ。
その形が、少しだけ見えてきた気がした。
放課後の窓から入る光が、教室を少し赤くしている。
その中で、あたしはメイベルを見て、はっきり言った。
「……わかった」
「……」
「好きにさせない」
「……!」
「美良にも」
「……」
「あんたの中の“全部だめ”にも」
「……」
メイベルが、静かに頷く。
「……はい」
その返事を聞いた時、あたしはようやく思った。
たぶん今、あたしたちは。
ただ支えるとか、守るとかだけじゃない形に入り始めてる。
同じ敵に向かって、ちゃんと並び始めてるんだって。




