第三十五話「それでも、一緒にいたい」
その日の帰り道は、少しだけ不思議だった。
いつもなら、メイベルは何度もこっちを見る。
何かを確かめるみたいに視線を寄越しては、小さく息をつく。
でも今日は違った。
袖に触れてくる回数が、少ない。
完全にやめたわけじゃない。
触れようとして、少し迷って、やめる。
その繰り返し。
足取りもゆっくりだ。
でも、止まらない。
――たぶん、考えてる。
“役に立たなくてもいい”。
あの言葉を、どう受け取ればいいのか。
すぐに信じきれないのは当たり前だ。
むしろ、簡単に飲み込めるなら、あそこまで苦しんでない。
だからいい。
迷ってるなら、それでいい。
少なくとも今は、逃げてない。
「……依夜さん」
「なに」
「いま、何考えてますか」
「急だね」
「だ、だめですか……?」
少し弱い声。
でも、ちゃんと聞こうとしている。
「だめじゃないけど」
あたしは少しだけ空を見る。
夕方の雲は薄くて、輪郭が曖昧だった。
はっきりしない色。
今の気分に、少し似ている。
「……あんたのこと」
「……!」
メイベルはすぐ顔に出す。
でも今日は、その中に少し違うものが混ざっていた。
驚きと、戸惑いと――期待。
「具体的には?」
「そこまで聞く?」
「き、気になるので……」
「……どうやったら、もう少し楽になるかなって」
「……」
「それと」
「……」
「あたしがどうしたいのかも」
メイベルが、ゆっくり瞬きをする。
「……依夜さんが」
「うん」
「どうしたいか」
「そう」
会話が途切れる。
でも、気まずくはなかった。
言葉の代わりに、考える時間がある沈黙。
歩く音だけが、静かに続いた。
◇ ◇ ◇
家に着いて、夕飯のあと。
朝輝は妙に察しがよかった。
「僕ちょっと出るね」
それだけ言って、さっさと出ていく。
たぶん由斗のところだ。
こういう時の引き際だけは、本当に上手い。
リビングに残ったのは、あたしとメイベルだけ。
静かだった。
テレビもついていない。
水の音もない。
やけに、静かだ。
「……部屋行く?」
「……はい」
短い返事。
それだけで、通じる。
部屋に戻る。
扉を閉める。
外の音が、少し遠くなる。
メイベルはベッドの端に座って、俯いたまま動かない。
前なら、ここで何か言っていた。
不安です、とか。
依夜さん、とか。
何かしら、こっちに寄りかかる言葉を探していたと思う。
でも今日は違う。
待っている。
――あたしの言葉を。
「……」
「……」
少しだけ、間を置く。
焦って適当に言うと、また間違えそうな気がした。
優しくしたつもりで、逆に傷つけることもある。
言葉が足りなくて、変な誤解を残すこともある。
だから、ちゃんと考える。
「……依夜さん」
「うん」
「さっきの」
「うん」
「続き、聞いてもいいですか」
「いいよ」
椅子を引いて、向かいに座る。
「でも、うまく言えるかわかんない」
「……それでも」
「うん」
メイベルの指先が、少し白くなっている。
強く握っている証拠。
緊張している。
でも、逃げてない。
「……あのさ」
「はい」
「“役に立たなくてもいい”って言ったじゃん」
「……はい」
「それ、本気」
「……」
「でも、それだけで終わりでもない」
メイベルが、少しだけ首を傾げる。
「終わりじゃ、ない?」
「うん」
「……」
言葉に詰まる。
思ったより、ずっと言いにくい。
「……いや、これ」
「……?」
「思ったより言いにくいな」
「えっ」
「なんか、変に意識すると無理」
「だ、大丈夫です……!」
「いや、大丈夫じゃない」
ため息を一つ吐く。
でも、ここで逃げたら意味がない。
「……でも言う」
覚悟を決める。
「……あんたが役に立つかどうかとは別に」
「……はい」
「その」
「……」
「……一緒にいたい」
一瞬、空気が止まった。
言ったあとで、自分でも少し照れる。
「……」
メイベルの反応がない。
いや、固まってる。
「……そんな驚く?」
「お、驚きます……!」
「そう」
「だ、だって……」
「うん」
「“いていい”じゃなくて」
「……」
「“いたい”なんですか」
そこ、ちゃんと拾うんだなと思う。
「うん」
「……」
「“いていい”はさ」
「……」
「許可みたいなもんでしょ」
「……はい」
「でも今は」
「……」
「そういうのじゃなくて」
少しだけ視線を逸らす。
「……あたしが、そう思ってる」
メイベルの睫毛が震える。
「……依夜さん」
「なに」
「それ」
「うん」
「同情、とかじゃなくて?」
来ると思った。
この子なら、そこを聞くと思った。
「……違う」
少しだけ間を置く。
「最初は、そういうのもあったかも」
「……」
「放っておけないとか、危なっかしいとか」
「……」
「でも今は、それだけじゃない」
ちゃんと、見る。
「姿見えないと落ち着かないし」
「……」
「苦しそうだと嫌だし」
「……」
「帰ってきてくれると、ほっとする」
言葉にすると、少し恥ずかしい。
でも、やめない。
「だから」
「……」
「理由が綺麗じゃなくても」
「……」
「それでも、一緒にいたい」
沈黙。
長い。
さすがに少し不安になる。
――重かったか。
そう思った瞬間。
ぽろっと、涙が落ちた。
「うわ」
「す、すみません……」
「謝らない」
「は、はい……っ」
やっぱり泣く。
でも、この泣き方は違う。
消えそうな涙じゃない。
受け止めきれないものが、こぼれている涙だ。
「……だって」
「うん」
「そんなこと、言ってもらえると思わなくて……」
声が震えている。
でも、壊れそうな震えじゃない。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「まだ、“役に立たなくてもいい”も」
「……」
「ちゃんと信じきれてないのに」
「……うん」
「そこに“いたい”まで来ると」
「……」
「どうしたらいいかわかりません……」
あたしは少しだけ笑う。
「どうもしなくていいよ」
「え」
「今すぐ信じなくていいし」
「……」
「わからないなら、そのままでいい」
「……」
「その代わり」
「……」
「勝手に諦めないで」
メイベルが、何度も頷く。
「……はい」
「うん」
「……聞きます」
「うん」
「ちゃんと」
その返事は、少し強かった。
それで十分だと思う。
少し、空気が緩む。
さっきより、柔らかい沈黙。
メイベルが小さく言う。
「……依夜さん」
「なに」
「わたしも」
「……」
「一緒にいたい、です」
心臓が少し跳ねる。
「……うん」
「でも」
「うん」
「まだ、ちょっと重いかもしれません」
「自覚あるんだ」
「あります……」
「えらい」
「えらいですか……?」
「そこはえらい」
少し笑うと、メイベルも泣きながら笑った。
「……がんばります」
「ほどほどでいいよ」
「……はい」
「“一緒にいたい”のために頑張る、とかじゃなくて」
「……」
「そこは分けて」
「……難しいです」
「知ってる」
「でも……」
「うん」
「がんばって、分けます」
「うん」
真面目だなと思う。
でも、それもこの子だ。
削る必要はない。
全部否定する必要もない。
ただ――間違えないようにするだけ。
頑張ることと、ここにいること。
役に立つことと、一緒にいたいこと。
そこを、ちゃんと分ける。
少し落ち着いたあと。
メイベルが毛布を握ったまま、小さく言う。
「……依夜さん」
「なに」
「それって」
「……」
「恋、ですか」
危うく息が止まりそうになる。
「……急だね」
「す、すみません……!」
「いや」
少しだけ考える。
ここで誤魔化すと、たぶんまたズレる。
「……まだ、わかんない」
正直に言う。
「……」
「でも」
「……はい」
「名前はまだわかんないけど」
「……」
「特別なのは、本当」
メイベルはそれを聞いて、泣きそうな顔で笑った。
「……じゃあ」
「うん」
「今は、それで十分です」
その言葉に、少しだけ救われる。
名前がなくてもいい。
無理に決めなくてもいい。
それでも。
一緒にいたい。
それだけは、ちゃんとある。
「……依夜さん」
「なに」
「明日からも」
「うん」
「一緒にいたいです」
あたしは頷く。
「うん」
「……」
「あたしも」
それだけで、十分だった。
全部が解決したわけじゃない。
不安も、問題も、まだ残っている。
メイベルはきっと明日も迷うし、あたしもまた言葉を間違えるかもしれない。
でも。
役に立たなくてもいい。
それでも一緒にいたい。
そこに辿り着けたなら――
もう、昨日までとは違う。




