第三十四話「役に立たなくてもいい」
談話スペースを出たあと、あたしはしばらく廊下を歩きながら、ずっと美良の最後の言葉を反芻していた。
――愛か価値か、なんて。本当は並べるものじゃないのよ。
意味深だ。
相変わらず腹立つ。
でも、完全に間違ってるとも思えないのが、さらに腹立つ。
あたしは今まで、メイベルのことを“放っておけない子”として見ていた。
危なっかしくて、泣き虫で、すぐ無理をして、見ていないとどこかで崩れそうな子。
それは事実だ。
でも、じゃああたしは、その先をちゃんと考えていたんだろうか。
守る。
支える。
選ぶ。
その言葉はもう持っている。
昨日、ちゃんと口にした。
でも、“じゃあ何をもって選ぶのか”を、あたしはまだちゃんと言葉にしていなかった気がする。
「……」
気づけば、教室の前まで戻ってきていた。
ドアを開ける。
中にはもうほとんど人がいなかった。
部活に行く子、帰る子、雑談している子が数人だけ。
そして、その窓際に。
メイベルと、澄鈴がいた。
メイベルはあたしが入ってきた瞬間、ぱっと顔を上げた。
その反応の速さに、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「……依夜さん」
「うん」
「……」
「何その顔」
「い、いえ……」
「終わったよ」
「……!」
その一言だけで、メイベルの肩の力が抜ける。
わかりやすいな、と思う。
でも、そのわかりやすさが今はありがたい。
澄鈴があたしを見る。
「どうだった」
「疲れた」
「感想が雑」
「でも本音」
「そう」
澄鈴はそれ以上は聞かなかった。
たぶん、今ここで細かく説明するより、まずメイベルの方を見るべきだと思ってくれてるんだろう。
「じゃあ私は帰る」
と、澄鈴が鞄を持つ。
「え、早い」
「十分見守った」
「その言い方」
「あと、あなたたち今ちょっと二人で話した方がいい顔してる」
「……」
鋭い。
いちいち鋭い。
でも、否定はできなかった。
「メイベルさん」
と、澄鈴が言う。
「は、はい」
「今日はちゃんと戻ってきた」
「……」
「それは偉い」
「……!」
メイベルの目が少しだけ丸くなる。
「じゃあね」
澄鈴はそれだけ言って、いつも通りの顔で教室を出ていった。
ドアが閉まる。
教室に残ったのは、あたしとメイベル、それから遠くの方でまだ喋っている数人だけだった。
「……帰る?」
とあたし言う。
「……はい」
メイベルが頷く。
でも、席を立つ前に少しだけ迷うみたいに視線を揺らした。
「……なに」
「あ、あの……」
「うん」
「依夜さん」
「うん」
「姉さまと、何を話したんですか」
当然、そこ気になるよねと思う。
あたしは少しだけ机に寄りかかって、考える。
どこまで言うか。
どう言えば変に誤解されないか。
でも、ここを濁すのは違う気がした。
「……あんたのこと」
「……」
「それから、あたしのことも」
「……」
メイベルは黙って聞いている。
少し緊張した顔だ。
「美良、相変わらず腹立つことばっか言ってた」
「……」
「でも、一個だけ」
「……はい」
「あたしも、ちゃんと口にした」
メイベルが、少しだけ身を乗り出す。
「……何を」
「あんたが役に立つかどうかと」
「……」
「あんたを選ぶかどうかは、関係ないって」
「……」
その瞬間、メイベルの表情が止まった。
時間差みたいに、少しずつ目が揺れる。
「……依夜さん」
「なに」
「それ……」
「うん」
「ほんとうに、言ったんですか」
「言ったよ」
「……」
「ちゃんと」
メイベルは何も言わなかった。
でも、見る見るうちに目元が赤くなっていく。
「ちょ、待って」
「……っ」
「まだ泣くタイミングじゃないでしょ」
「む、無理です……」
「知ってるけど」
やっぱり泣くんだなあ、と思いながら、でもどこかほっともした。
こういう時に泣けるなら、ちゃんと届いてる。
「……だって」
と、メイベルがかすれた声で言う。
「わたし」
「うん」
「ずっと……」
「うん」
「役に立たないなら、いらないって……」
「……」
その言葉は、もう何度も聞いた。
でも今日は、前より少しだけ輪郭が違う。
ただ怯えているんじゃなくて。
その考えを、自分でもちゃんと見つめようとしている声だった。
「……そう思ってた」
「……はい」
「うん」
「姉さまも」
「……」
「わたしも」
「……」
「そういうふうに、考えてました」
あたしはゆっくり頷く。
「うん」
「でも」
「……」
「依夜さんが、それは関係ないって言ってくれたら」
「……」
「なんだか」
「……」
「どこにいたらいいのか、少しだけわからなくなります」
その返しは、ちょっと予想外だった。
「……わからなくなる?」
「はい……」
「なんで」
「だ、だって……」
「うん」
「今まで、役に立てるようにしないとって思っていたので」
「……」
「それがなくなると」
「……」
「何をがんばればいいのか、急に……」
ああ。
そういうことか。
ずっと“役に立つこと”だけを存在理由にしてきた人は、それを外されると、今度は自分がどこに立てばいいかわからなくなる。
安心するだけじゃない。
むしろ、少し怖いのかもしれない。
「……メイベル」
「は、はい」
「頑張るの、やめろって言ってるわけじゃない」
「……」
「あんたが何かできるようになりたいなら、それはしていい」
「……」
「でも」
「……」
「“できなかったから消える”は違う」
「……」
メイベルが、じっとあたしを見る。
「役に立ちたいは、まあわかる」
「……はい」
「でも」
「……」
「役に立てないと存在してちゃだめ、は違う」
「……」
そこを、ちゃんと分けたい。
「あんたができるようになったら嬉しい」
「……」
「自分で立てるようになったら、もっと嬉しい」
「……」
「でも、それは」
「……」
「“ここにいていいかどうか”の条件じゃない」
メイベルの唇が、少し震える。
「……条件」
「うん」
「あんたさ」
「……」
「何でも条件にしすぎ」
「……」
ちょっとだけ、冗談っぽく言う。
その方が、この子には入りやすい時があるから。
「帰る場所にも条件」
「……」
「一緒にいるのにも条件」
「……」
「愛されるのにも条件」
「……」
そこで私は、少しだけ目を細めた。
「そんなに試験ばっかじゃ、しんどいでしょ」
「……」
メイベルが、小さく息を呑む。
「……はい」
「うん」
「……しんどい、です」
「うん」
「ずっと」
「……」
「こわかったです」
「……」
その声は、ひどく小さかった。
「……だから」
「うん」
「一個ずつ、外していこう」
「……え」
「条件」
「……」
「全部いきなりは無理でも」
「……」
「少しずつ」
メイベルが、泣きそうな顔のまま聞いている。
「今日はまず」
「……」
「“役に立たなくても、ここにいていい”」
「……」
「そこ」
「……」
メイベルの目から、また涙がこぼれた。
「……それ」
「うん」
「むずかしいです」
「知ってる」
「……」
「でも、難しいからだめ、じゃない」
「……」
あたしは少しだけ笑う。
「難しい”まではちゃんと言えるようになってきたじゃん」
「……」
「前ならすぐ“ダメです”まで飛んでた」
「……」
「それより、だいぶマシ」
メイベルはそこで少しだけ目を瞬いた。
自分でも気づいてなかったらしい。
「……そう、ですか」
「うん」
「今日は“わからない”って言えた」
「……」
「それ、結構大事」
「……」
しばらく黙ってから、メイベルが小さく言う。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「役に立てなくても」
「うん」
「ここにいていいって」
「うん」
「何回も聞かないと、まだ信じきれないです」
その言い方に、私は少しだけ息を吐いた。
困ったような、でも仕方ないなと思うため息。
「じゃあ何回でも言うよ」
「……!」
「その代わり」
「……はい」
「あんたも、そのたびに少しずつ覚えて」
「……はい」
メイベルは泣きながら頷いた。
「……依夜さん」
「なに」
「それって」
「うん」
「甘やかし、じゃないですか」
思わず少し笑ってしまった。
「何それ」
「い、いえ……その……」
「うん」
「役に立たなくてもいいって」
「……」
「だ、だめな方に、甘い気がして……」
なるほど、そこか。
あたしは少しだけ考えてから答える。
「甘やかしかもね」
「……え」
「でも」
「……」
「“いらないって言わない”のが甘やかしなら」
「……」
「あたしはそっち選ぶ」
「……」
メイベルが、じっとこっちを見る。
「あんたを切り捨てて、しゃきっとしろって言う方が正しいなら」
「……」
「その正しさ、私はいらない」
「……」
そう言ったら、メイベルはとうとう泣きながら笑った。
泣いて、笑って、また泣きそうになって。
本当に忙しいな、この子の感情は。
「……帰ろっか」
とあたしは言う。
「……はい」
メイベルが立ち上がる。
少しふらつくかと思ったけど、今日はちゃんと立てた。
教室を出て、廊下を歩く。
夕方の光が差し込んで、床が少し赤い。
「……依夜さん」
「なに」
「役に立たなくても、いいんですよね」
「うん」
「……ほんとに?」
「うん」
「……」
「何回聞くの」
「まだ、足りないので……」
「知ってる」
少しだけ笑って、それから言う。
「ほんとに」
「……はい」
「役に立たなくてもいい」
「……はい」
「一緒にいていい」
「……はい」
メイベルはそのたびに、小さく頷く。
それは多分、今すぐ全部信じられたからじゃない。
でも、少しずつ体に入れようとしてるんだと思う。
その努力は、ちゃんと見ていたい。
階段を下りる途中、私はふと思う。
“役に立たなくてもいい”なんて。
前のあたしなら、たぶんうまく言えなかった。
だってあたしだって、ずっとどこかで“価値がないといられない”側だったから。
兄と比べられて、普通だと言われて、それを勝手に“足りない”に変換していた。
でも今は、少なくともメイベルに対しては、はっきり言える。
そんなもので一緒にいる理由は決めない。
それだけは、譲れない。
玄関を出たところで、メイベルがまた小さくあたしの袖に触れた。
「……なに」
「確認です」
「また?」
「……はい」
「はいはい」
「……わたし」
「うん」
「役に立たなくても」
「うん」
「選ばれてますか」
「……」
あたしは少しだけ呆れたように息を吐いて、それから答える。
「選んでるよ」
「……」
「役に立つかどうかとは別で」
「……」
「あんたを」
メイベルが、また泣きそうな顔になった。
「そこで毎回泣くのやめなよ」
「む、無理です……」
「知ってる」
ほんとに、知ってる。
でもその泣き方は、前みたいな“消えそうな泣き方”じゃなかった。
少しずつ、安心して泣ける方に変わってきている。
それが、あたしは嬉しかった。




